彼と彼女のKISS
PM11:35。
『メゾン・ド・塚口』201号室前。
ドアフォーンを二度鳴らす。女がひとり。
「……君か」
彼がドアから半分だけ身を覗かせた。
「はい、差し入れ。今日焼いたの。アップルパイ」
「ダイエット中じゃなかったの」
「君を少しは太らせようと思ってね」
素知らぬ顔でそう言うと、ひょろりと縦に長いやけに痩せ型の彼をつくづくと見上げた。
私よりもゆうに15㎝は高い。
なのに体重は私と10㎏も変わらないらしい。
163㎝・48㎏ の私と比べてだ。
とりあえず入ったらと彼は背を向ける。
その背は嘆息しているようだった。
それには気付かない振りをして私はドアを閉め、ロックした。
「コーヒー飲むだろ」
「うん。ミルク入れてね」
「悪い。切らしてる」
程なく、コポコポとサイフォンが音をたて始めた。
同時に、こおばしい香りが狭いワンルームいっぱいに広がってゆく。
私の好きな時間。
私の好きなモカ。
テーブルの上には、切り分けられたパイが二片。 出来は上々だ。
「就職活動の方どうなの?」
素っ気ない無地の黒いマグカップを手渡しながら、彼が問う。
「難しいわね、かなり。未だに決まらないのよ、やんなっちゃう。うちは女子大だし尚更」
「超有名女子大じゃん」
「カンケーないわよ。腰掛けにしか見られないんだから」
たった一言だが、彼のそれは明らかに皮肉。
彼の物言いに不満はあったが、多くは語らず、私は軽く溜息をつく。
大手総合商社が第一志望という自分の嗜好を考えれば、彼にそう言われても仕方がない。
近年、学生の就職率が上がっているらしいとはいえ、世の中、不況の嵐が吹きすさんでいる。
それは、就職活動中の女子大生だからこそ、肌で実感している。
遥かその昔、バブルの頃なら、コネもかなり通用していたらしいうちの大学でも今はさっぱりだ。
もっとも就職が決まらなければ、「無職」ではなく、「家事手伝い」という実に不可思議な肩書きをあてにしているコもまた多い。
そういう学風だから就職活動も、よりシビアにならざるを得ないのだろう。
「君はいいわね。院に進むんだから」
「いいってことはないだろ。試験三つに、その対象になる卒論も特に気が抜けない。今までだって文献読みながら、数式立ててたんだぜ」
その一言で気付く。
いつ訪れても、そうついこの前、私が片づけ整理したばかりなのにもうこの部屋は、無数の本の山と取り散らかした資料のコピーの類で、足の踏み場もない。
そしてもうひとつ、気付くこと。
彼の困惑した視線。
かなり気候の良い季節を迎えたとはいえ、私は気の早いシフォンの半袖・ミニ丈ワンピースの上に、7分袖の薄いカーデを重ね着しただけの姿だ。
それでなくとも、深夜ときてる。
もっとも、こんな時間帯しか彼には逢えないのだ。
大学が違う彼とは講義のある日は勿論、就職活動真っ只中の昼間は難しい。
夜は夜で、院試の準備の傍ら、予備校講師のバイトを遅くまでしている彼のアパートへ確実に入れる時間を考えるとこうなってしまう。
しかし────────
困惑しているのは視線だけではないことも私はしっている。
彼は私の心中もはかりかねている。
そして、自分がどういう態度で接すればいいのかも最早わからなくなっているのだろう。
「……ねえ」
「何」
「抱いてよ」
彼は何も答えない。
この前の夜と同じ。そしてその前の夜も。
そんな「間」をむしろ私は楽しんでいるのかもしれなかった。
彼は、決して私に手を出そうとはしない。
男というものはある意味、考えている以上にストイックなものなのだ。
でも。
本当はもうどうなっても私は、いいのに……。
そう思った筈の、その瞬間だった。
彼はいきなり私を抱き寄せ、その痩せた両腕で軽々と私を抱きかかえると、勢いよく私を部屋の隅のベッドの上へと放り投げた。
何が起こったのかわからないまま、私は身を起こし、横座りのまま後ずさる。
しかし、背後はすぐ壁へと行き当たり、それ以上は逃げ場がない。
私は、呆然としたまま彼をただ見つめた。
彼は、後ろへ結わえていた髪をほどき、ゆっくりと眼鏡を外した。
彼の怜悧な瞳が私を捉える。
そして彼はベッドに歩みよると、乱暴に私を押し倒した。
両手首を押さえつけられた私は、身動きもできない。
「君は世間知らずなんだよ」
私の顔のわずか5㎝先に彼の瞳があった。
「君はなにもわかっちゃいない。僕のことも。そして君自身のことも」
「どういう意味……?」
彼のかつてなかった雰囲気に気圧されて、それ以上の言葉は出なかった。
考える余裕もなかった。
彼とのキスは初めてではない。
ただ、私の方から口唇を重ねていたいつもとは明らかに違う。
彼は、貪るように私を求めてきたのだ。
これほど深く、狂おしい時間を過ごすことの覚悟が、本当に私にできていたのだろうか……。
彼の言葉を初めて、身をもって私は思い知らされていた。
「耀……耀……!」
抱かれながら泣きながら、私は私を捨てた男の名を、別の男である彼の腕の中で、譫言のように口にしている。
かつては甘美な想いと時間の中で口ずさむように呼んでいた名前。
今は別の女の子のものになった名前。
私が初めて心と肌を許した男の名前。
そして、助けてほしいと心底思う。
恐怖から逃れたくて、私は更にその名を口にせずにはいられなかった。
しかし、助けなど望むべくもない。
今、目の前にいるのは「彼」だ。
何もかも忘れたくて、あの日から、私にとっては最高の男友達だった彼を利用してきた。
抱かれてもいいと、本気で思っていた。
むしろ抱かれることで全てを忘れてしまえるならと─────
馬鹿な娘……。
全てを諦め、全てをあるがままに任せ、ただ涙だけがとめどもなく流れ落ちてゆく。
そんな時間が最後まで流れていく筈だった。
しかし。
不意に彼がその動きを止め、私の躰からその身を離した。
「抱けないよ。やっぱり」
ぽつりと彼は呟くと、暫し虚ろに視線を漂わせた
が、それも束の間、彼は完璧に自分を取り戻していた。
「どうして……」
しかし、私はまだ、間の抜けたその一言を口にするのが精一杯だ。
「抱くんだったら本気で抱きたい」
きっぱりと彼はそう言った。
瞳は意志を秘めていた。
「泣いている君。奴をまだ想っている君。そんな君を抱くのは、僕には耐え難い。思っていた通りさ。嫌というほどわかったよ」
呟きながら彼は、天井を仰ぐ。
何かに堪えているように。
だから、今まで……。
それは言葉にはならなかった。
自分がたまらなく恥ずかしい。
どうしてあんなに無知で、そして、あれほど傲慢でいられたのだろう。
「でも。それでもずっと君を抱きたかった。君の肌に触れている間中離したくないと、心底思った。けれど、君はあまりにも痛々しすぎて。僕に抱かれたって、君は決して立ち直れない。それはわかっていたんだ。けれど……今まで何度君を自分のモノにしようと思ったかわからない。君と過ごす夜がどれほど僕にとって狂おしかったか……。そう、君が考えていた以上にだ」
私は言葉もなく、ただ彼の告白が胸を貫く。
「君が、奴を忘れられなくてもそれでも、僕は……」
形容しがたい沈黙が空間を支配している。
その間、どんなに私は彼の言葉を待っていただろう。
「帰ってくれ」
彼は冷静にそう言い放つ。
それは当然すぎる結末だった。
もはや何を言っても無駄だということだけを、私は悟っていた。
そして私は気づかぬ内に、二つ目のかけがえのない恋まで失ってしまったのだと……。
私が服を身につけている間、彼は私に背を向けたまま、片膝を立て煙草を手にしていた。
紫煙がゆらぐ。
彼の背中は何故だか小さく見えた。
“煙草はだめよ!体に悪いんだから”
逢う度いつもそんな忠告をし、煙草を取り上げる私を苦笑しながら見ていた彼。
その眼差しはいつでも私へ向けられていたのに。
けれど、その温かい瞳は、もう私を見つめはしない……。
「今更だけど」
最後になるであろう彼の部屋を去る前に、私はゆっくりと口を開いた。
「君のこと、好きだったわ。友人として、男として。君の信頼、裏切っちゃったね。今まで、特にこの半年間、本当に良くしてくれたのに……」
あの恋を失った夜。
初めて彼の部屋で一夜を明かした。
泣きじゃくるだけの私を、ただ抱き締めてくれていた。
自分からは口唇にさえ触れようともせず。
それ以来、彼の部屋で過ごす時間だけが私には救いだった。
傷から流れ出る血を拭い去る為に、渇いた心を癒す為に、彼の存在が必要だった。
いつでも変わらない態度で私を包んでいてくれていた彼……。
「有難う」
さようなら……。
次の恋をする時には。
もっと─────
「悪かった。君を追い詰めた」
ドアノブに手をかけたまま、立ち去れずに、佇んでいた私のすぐ後ろに彼がいた。
心臓の音だけが響く。
信じられない。
振り返れない。
そんな私を彼はそっと抱き寄せる。
「今から始めよう。きっと遅くはない」
もっと素敵なキスをしよう─────
そう誓った通りに、彼と私は初めて、心を重ねるように幸せな、とても幸福なキスを交わした。
作中の「彼」と「彼女」に名前がないのは、意図的です。
友達以上恋人未満の男女、て、呼び名に困った挙句、「君」になるという経験則に基づきました。
懐かしい時代だなあ。。