ひとつだけあげる
「諏訪」
僕をそう呼んだのは、雷神――建御雷。
古きと新しきが入り混じる、極東の島国、日本。
人間と妖怪と、八百万の神々、果ては異国の人外や物の怪たちすら共存し、共に手を取り合って生きる、奇妙な国。
日本には高天原と呼ばれる天と、中つ国と称される地上と、死者が逝く場所黄泉とで構成されている。
僕――建御名方は、中つ国に暮らす、国つ神の一柱である。
そして、僕を呼んだその男は、高天原に暮らす雷神である。
僕はこの神が、八百万とおわします神々の中で、いちばん、嫌いだ。
そんな僕の心情を察するという気遣いなど奴は知らない。
鹿島(と、僕は建御雷を呼んでいる)は、飄々とした笑みを浮かべ、その手に風呂敷包みを抱えている。
からころと下駄をならし、僕の社へ悠然と立ち入る。
僕は、心底忌まわしいものを見るような目でにらんでやった。
そんな僕の努力も意味などなく、「おお怖」と半ば苦笑して受け流された。
「鹿島か。何の用だ」
僕は声を低くしてたずねた。
「つれねえな。用がなけりゃ会いにきちゃいけないのかい?」
「いけなくはないがおまえは別だ」
「あらら。つまり、お前にとって俺は特別、ってわけだ」
どうしたらそういう解釈ができるものなのだろう。
「そんなわけあるか!! 僕はおまえが嫌いなんだよ! だから視界に入って来るのが嫌なんだよ!」
「へえ、やっぱり特別じゃねえの。お前さん、めったに誰かを嫌わないしな」
「ぐ」
揚げ足をとられた。
この男と言い合いをしても時間の無駄なのだ。僕はいい加減その事実を学習すべきだった。
なのに、奴が僕に会いに来るといつもこうだ。学習能力のない自分が恨めしい。
「とはいっても、今日はちゃんと用事があってきたぞ。だからそれが終わるまでは追い返さないでくれよ?」
「……珍しいな」
鹿島は、暇さえあれば僕の社へ足を運ぶ。その行為に大した理由はなく、ただ単に僕に会いに来ているというだけだ。
特別な要件などない。本当に本当に、ただ僕をからかいに来ているだけなのだ。
そんな鹿島が、用事があって僕をたずねてきたというのは本当に珍しい。
ほらよ、と鹿島は風呂敷を開く。
包まれていたのは、丁寧に包装された菓子だった。
思わず、ごくんと唾を飲み込んでしまう。
僕は甘いものが好きだ。だから、お供え物が菓子だったら子供みたいに喜ぶ。
まさか、甘いもので僕を懐柔しようという魂胆? と疑ってしまう。
だが、鹿島が答えたのは、その考えとは違った。
「こないだ、お前さんに備えられた菓子、俺が一個もらっただろ。そのお返し。うちの社の近くに、新しく菓子屋ができてな。好きだろ、甘いの」
「え」
こういうのはひどいと分かっているが、意外だった。
誰かのことを気遣うなど、鹿島には高等な技術だと思っていたから。
ひと月ほど前、僕は鹿島と衝突した。
此奴と衝突なんてよくあることなのだけれど、その時は本当の意味で衝突した。
信濃の隣の地で、神々を支配しようとする一族があった。
僕ら武神は、それらを鎮圧するために派遣された。
僕がその一族の屋敷に着くころには、ほとんどが片付いていた。
それを片づけたのは、鹿島だった。
反乱分子は無残に焼き殺し、女子供も容赦なく雷で焼いた。
焦げた死体の臭いが、今でも僕の記憶に残っている。
罪の無い女子供すら手にかけ、無慈悲に殺した鹿島を、僕は本気で軽蔑した。
――おまえには……慈悲もないのか
――持ってねえし欲しくもねえよ
そして、鹿島は、最後の一人の赤子を……雷で何度も何度も焼いた。
その残酷さに耐えきれず、僕はありったけの憎悪と嫌悪をぶつけてやった。
――おまえなんか、大っ嫌いだ。
その日以来、僕は鹿島と顔を合わせるのがなんだか気まずかった。
もっとも、僕は信濃からほとんど出ないから、鹿島だけでなく、他の神々とも自分から会いに行くことはまれだ。
だけど、鹿島は何もしなくても僕のもとへ来るから、否応なく顔を合わせる。
今までは三日にいっぺんはこちらに来ていた鹿島も、ひと月前の騒動以降、僕に会いに来る頻度を下げていた節がある。
だからなのか、奴がここへきてくれたのが、柄にもなくうれしいとか思ってしまったのも事実だ。
「ほれ、食いな」
鹿島が、風呂敷から出した菓子を、僕に手渡す。
「いいのか? 高くはなかったのか?」
「俺、地上の貨幣価値に存外疎くてな。それに、あんまり金使わねえし、いいんだよ」
「あ、ありがとう……」
「おうよ。じゃあな」
「え」
鹿島は風呂敷を畳みつつ、くるりと踵を返した。
本当に、菓子を渡しに来ただけだったらしい。
本当に、あっさりしすぎていた。
いつもは、頼んでいないのに酒を取り出しては夜まで駄弁るのに。
今回は、ただこれを渡しに来ただけ。
からころと、下駄を鳴らして鹿島が社を出て行こうとする。
その背中が、僕から少しずつ遠のいていく。
「鹿島!!」
うん? と鹿島はこちらを振り向いた。
(っ、どうして僕は、考えなしなんだ!!)
呼び止めた理由などない。
呼び止めた後、何を言おうかなんて、考えていなかった。
ただ、鹿島がこんなにも早く僕から遠ざかっていくのが、なんだか寂しかった。
鹿島がこんなにもあっさりと僕から退いていくのが、なんだか嫌だった。
もっと一緒に居てほしい。
もっと一緒に話をしたい。駄弁りでもいい。愚痴でもいい。
ただ、まだ、行かないでほしかった。
その感情が、どうして芽生えたのか、僕にはわからない。
「どうしたよ、諏訪? いきなり呼ぶから驚いたぞ」
「ん……。えぇと、その、なんだ……」
何か言い訳になりそうな立派な理由はないだろうか。ない。
だって考えなしに叫んでしまったのだから。
僕は、顔が熱くなるのを自覚した。
かあっ、と顔を真っ赤にしているのだろう、僕は。
俯いて顔を上げることができない。
僕の手には、鹿島からもらった菓子がある。
あ、とようやく言い訳を思い浮かべることができた。
「お、おまえも食べていけ! ひ、ひとつくらいなら、食べても構わないから」
「へ?」
「か、勘違いするな! 卑怯者のおまえのことだ、この菓子に、痺れ薬でも仕込んでやいないかと思っただけだ! そ、その毒見をしろというだけのことだ! へ、変な意味はない!!」
言えば言う程、本当の気持ちとはまるで違う言葉が出てくる。
痺れ薬が入っているなどと、僕は本気で思っていない。
いくら卑怯者の鹿島でも、そんなことをするはずがないのを僕は知っている。
だけど、本心を白状したくなくて、行かないで欲しいと言いたくなくて、もっと一緒にいて欲しかったと吐きだしたくなくて、鹿島を傷つけるようなことを言ってしまう。
僕は、嘘が苦手だ。そして残酷な嘘をつく。
自分でもわかっている。鹿島に非道いことを言っているだなんて。
わかっているんだ。でも、本心を知られたくないのだ。怖くてしかたがないのだ。
きっと、あきれられただろう。僕は馬鹿だ。
卑怯者なのは僕の方だ。
そんな僕の心など知らぬ様に、鹿島は
「はいよ」
と苦笑して、僕の頭を、ぽんぽんと撫でた。
「しょうがねえな。一個だけ、毒見するよ」
「……ぁ」
「ご馳走になろうかね。毒見するから、もう少しだけお邪魔させてくれや」
「…………も、もちろんだ! お茶を淹れてやるから、上がって待っていろ! ひ、ひとつだけだぞ! やるのはひとつだけだからな!」
「はいはい」
鹿島はおかしそうに、そう返す。
ひとつだけ。ひとつだけあげよう。
鹿島、こんな卑怯者の僕と、もう少しだけ、一緒に時間を共有してくれないか?
そのお礼に、ひとつだけ、甘いものをあげるから。
『わかりあえない決定打』(http://ncode.syosetu.com/n3645br/)の続きっぽい感じです。うちの諏訪さんは甘いものが好きです。