第1話 後悔のはじまり
男は嫌い。大人も嫌い。
「亜季。まだ残ってたんだ?」
放課後の教室には居残っている少年がひとり。
そこへ見回りをしていた若教師が近づく。
『日直だから』
少年は気だるげに日誌を持ち上げる。
「ふぅん」
前の席に腰かけた教師を気にもとめず、少年は日誌の続きを書き進めた。
「亜季。俺の今日のネクタイかっこいくない?」
『うん。誰にもらったの?』
「2組の女の子達」
『へぇ』
「あれ?妬いてる?」
平然さを装ったはずなのに、教師には少年の心が丸わかり。
羞恥に赤らむ少年の頬を教師の指がそっととらえる。
「可愛いな。でも亜季にはネクタイよりもっといいもの貰えるから」
言い終わると同時に唇に唇が押しあてられる。
抵抗する間もなく舌が入り込んできて、少年は熱い吐息をもらした。
「……好きだよ、亜季」
息継ぎの間に教師がつぶやいたセリフ。
意味のない、あまりにも軽いその言葉に少年は目の端に涙を浮かべる。
『俺は大嫌いだ…』
「ふ」
おかしそうに一度だけ笑った教師は、腕を伸ばして少年の髪をなでた。
少年はその居心地の悪さに黙って耐える。
『先生の左手…大嫌い…』
「左利きなんだからしょうがないじゃーん」
なおも動き続ける大人の手。
大嫌いな原因は、薬指に輝く幸せそうな指輪。
―――
――
―
永田亜季。中学2年生。
そこそこ勉強が出来て、そこそこ運動が出来て、中性的な顔立ちが少しコンプレックスのごく普通の男の子。
恋愛面を除けば…。
『ただいまー』
「おかえり。奈津くん来てるわよ」
母の言葉に亜季の胸は一瞬高鳴ってすぐに痛みだした。
『…義姉さんも一緒?』
「奈美恵ちゃん?今日は一緒じゃないわよ。奈津くんだけ」
『そうなんだ…』
安心した。心の底から。
「亜季」
後ろから自分を呼ぶ声。
大好きで大好きで、大好きすぎて辛くなるあの人の声。
「おかえり。帰りちょっと遅くない?」
『日直だったから』
「そっか。ちょっと髪伸びたんじゃない?切ろうか?」
『……うん』
亜季はピンク色の頬でコクンと頷く。
「中学生にもなってお兄ちゃんにベッタリなんだから~」
母の呆れたような物言いを気にもせず亜季は奈津に寄り添う。
『お仕事どう?』
「まぁまぁかな」
12歳年上の実の兄・奈津は美容師をしている。
「この前奈美恵にパーマかけたよ。今度見てあげて」
『……うん』
奈津は去年の春に結婚した。
奈美恵と言う女性がある日急に奈津を奪いさっていった。
婚約を告げられたあの日、亜季は家中の薬を一気に飲んで服薬自殺を試みた。
この世に未練などなかった。
‐奈津はどうやっても自分のものにはならない‐
そんな現実知りたくなかった。
だが、そう簡単に死ねるはずもなく早々に母に発見された亜季は救急車に運び込まれあっけなく助かる。
家族に理由を問い詰められたが「風邪薬の量を間違えた」で通した。
それで本当に納得したのか、納得したフリをしたのかはわからないがその後この話題に触れる者はいない。
「亜季。なんか悩んでることないか?」
奈津はいつだって優しい。
たまに実家に帰って来ては同じセリフを口にする。
「誰にも言えないことでも、俺にだけは話してな?いつも亜季の味方だから」
奈津は優しい。
『悩みなんて…ないよ』
優しくて残酷。
「お前はずっと可愛い弟だよ」
『……』
どうして“弟”なんだろう。
どうして“男”なんだろう。
どうして世界一愛しい人に触れられないんだろう。
『…奈津くん、俺ね』
なんで言ってしまったんだろう。
『俺不倫してるの。学校の男の先生と』
「………え?」
奈津の動きが止まった。
ゆっくりと瞳を見開いていく。
『俺の悩みってコレ。既婚者にハマッちゃったこと』
寂しかった。
ただただ寂しかった。
奈津がいない寂しさをまぎらわすために新山先生と付き合った。
でもすぐに後悔した。
愛してもいない・愛されてもいない相手と体を繋げてみても余計に哀しくなるだけだった。
「亜季…?」
奈津の顔が青ざめている。
亜季は痛む胸をおさえた。
後悔がまたひとつ増えた。
どうして言ってしまったんだろう…。
兄を困らせたかったから…?
自分を捨てて新たな家族を作ろうとしている奈津が許せなかった?
この感情は憎しみ?
何故?何故?
こんなにも奈津を愛してるのに…。