騙されやすい公爵令嬢は、今日もライバルに叱られる
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リリア・エルフォード公爵令嬢には、王立学院に通っていたころから、一方的に彼女をライバル視している令嬢がいた。
ヴィオラ・アシュベリー侯爵令嬢である。
リリアは、人を疑うことがひどく苦手だと思われていた。
けれど、それと頭の良し悪しは別の話だった。
語学、歴史、法学、算術、礼法。公爵令嬢として必要な教育は一通り修めており、学院でも成績は常に上位だった。
ただ、本人は順位というものにあまり興味がない。
試験が近くても、ほかに興味を引かれるものが出てくれば、そちらに夢中になって勉強を放り出すこともあった。
そのため、ヴィオラがリリアを上回ることも珍しくなかった。
「今回は私の勝ちね!」
学院時代、成績表を手にしたヴィオラが得意げに言ったことがある。
「まあ。ヴィオラ様、首席ですのね。おめでとうございます」
「……何よ」
「すごいですわ」
「悔しくないの?」
「どうして?」
「私があなたに勝ったのよ!」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
「もちろん知っていますわ。だから、おめでとうございます」
「そういうところよ!」
逆にリリアが首席を取れば、ヴィオラは翌日に、
「次は絶対に負けないんだから!」
と宣言しに来た。
「応援しておりますわ」
「応援しないで!」
学院を卒業してからも、その関係はほとんど変わっていなかった。
◇
セオドアとの婚約が正式に決まってしばらく経った、春の日だった。
王宮の庭園では、慈善市を兼ねた茶会が開かれていた。
「こちらは東方から届いたばかりの香油でございます。王都では、まだほとんど出回っておりません」
一人の商人が、リリアへ小さなガラス瓶を差し出した。
蓋を開けると、柔らかな花の香りがふわりと漂う。
「まあ。とてもよい香りですわ」
「お目が高い。こちらは金貨三十枚で――」
「リリア!」
よく通る声が飛んできた。
振り返ると、紫がかった黒髪をきっちりと結い上げたヴィオラが、こちらへ向かって早足で歩いてくるところだった。
「まあ、ヴィオラ様」
「まあ、じゃないわよ。あなた、今、それをいくらで買おうとしていたの?」
「金貨三十枚ですわ」
「三十枚!?」
ヴィオラの眉が跳ね上がった。
「同じ香油を先月、王都の店で五枚で見たわよ!」
「あら」
「あなた、騙されてるのよ!」
商人が慌てて口を挟んだ。
「い、いえ、アシュベリー侯爵令嬢。こちらは同じ香油でも、特に品質のよい品でございまして――」
「六倍も?」
「それは、その……特別な仕入れで」
「でしたら、仕入れ記録を拝見しても?」
商人が黙った。
ヴィオラは腕を組んだ。
「ないのですね?」
「……」
「では、結構です。お引き取りください」
「ですが、エルフォード公爵令嬢は大変お気に召して――」
「お引き取りください」
二度目は、反論を許さない声だった。
商人は慌てて香油を箱へ戻し、そのまま立ち去ろうとした。
「あの」
リリアが呼び止める。
商人が振り返った。
「はい?」
「ほかにも、珍しいものをお持ちなの?」
「リリア」
ヴィオラの声が一段低くなった。
「買いませんわ」
「今の流れで、まだその人と話すの?」
「見るだけです」
「あなたの『見るだけ』ほど信用できない言葉はないのよ」
リリアは困ったように笑った。
商人は二人を見比べてから、リリアへ愛想よく頭を下げる。
「では、また珍しい品がございましたら、ご覧に入れてもよろしいでしょうか」
「もちろんですわ」
「リリア」
「見るだけです」
商人が去ると、ヴィオラは盛大なため息をついた。
「本当にあなたって人は……。少しは人を疑うことを覚えなさいよ」
「でも、とてもよい香りでしたわ」
「香りがよければ六倍払うの?」
「買いませんでしたよ」
「私が止めたからでしょう」
「そうでしたね」
リリアは柔らかく笑った。
「助けてくださって、ありがとうございます」
「あなたのためではないわ!」
「そうなの?」
「目の前であんな商売をされたら、誰だって止めるわ」
「やっぱりお優しいのね」
「そうやって何でもいいほうに受け取るのをやめなさい!」
昔から、この令嬢はこうだった。
自分はリリアに負けたくないと言うくせに、リリアが誰かに馬鹿にされれば本人より先に腹を立てる。
怪しい人間が近づけば、勝負のことなど忘れて飛んでくる。
リリアが危なそうに見えると、どうしても放っておけないらしい。
実に、かわいらしい方だった。
◇
その日の帰り、王宮の回廊でセオドアと出会った。
「リリア」
「セオドア殿下」
「さっき、ヴィオラ嬢にずいぶん怒られていたね」
「ご覧になっていたの?」
「かなり目立っていたから」
セオドアは笑った。
「今度は何をしたの?」
「香油を買おうとしただけですわ」
「いくらで?」
「金貨三十枚」
「それで?」
「ヴィオラ様によると、五枚で買えるそうです」
セオドアは少し黙った。
「……止めてもらってよかったね」
「そうですね」
「もう、その商人とは話さない?」
「また珍しいものを見せていただくことになっています」
「リリア」
「はい?」
セオドアは何か言おうとしたが、やめたらしい。
「ヴィオラ嬢が君を心配する理由が、よくわかったよ」
「あの方は心配性ですもの」
「君が言うんだ」
「どうして笑うの?」
「いや。何でもないよ」
セオドアは最後まで楽しそうだった。
◇
数日後、ヴィオラがエルフォード公爵邸を訪ねてきた。
「私、縁談が進んでいるの」
「まあ」
リリアは紅茶のカップを置いた。
「おめでとうございます」
「まだ婚約したわけではないわよ」
相手は、レイモンド・ベルク伯爵令息。
古くから続く伯爵家の嫡男で、容姿もよく、王立学院での成績も優秀だった。卒業後は父であるベルク伯爵を手伝い、領地経営にも携わっている。
社交界での評判もいい。
「素敵な方なの?」
「悪い方ではないと思うわ」
ヴィオラの答えは、思いのほか淡々としていた。
「家柄も問題ないし、ご本人も優秀よ。お父様も、条件の悪い縁談ではないとおっしゃっているもの」
「お好きなの?」
「そういう話ではありません」
きっぱりと言われた。
「政略結婚ですもの。家同士の条件が合って、お互いに問題がなければ、話が進むことだってあるでしょう」
「そうなのですね」
「何よ」
「ヴィオラ様が、あまり嬉しそうではないので」
ヴィオラは少し黙った。
「……結婚が、いつも恋愛でするものとは限らないでしょう」
「そうですね」
「私もアシュベリー侯爵家の娘ですもの。いつかはそういう話が来ると思っていたわ」
それ以上、ヴィオラは何も言わなかった。
◇
しばらくして、リリアは王宮の庭園で、ヴィオラとレイモンドが並んで歩く姿を見かけた。
レイモンドは、どこから見ても申し分のない青年だった。
ヴィオラが階段へ差しかかれば、自然に手を差し出す。
日差しが強くなれば、侍従に日傘を用意させる。
ヴィオラが何か話せば、きちんと目を見て聞く。
歩く速度まで彼女に合わせていた。
まるで、大切なお姫様を扱うようだった。
ヴィオラも、それを拒んではいない。
少し澄ました顔で隣を歩いている。
誰が見ても、よく釣り合った二人に見えた。
ただ、ヴィオラは、リリアと試験の順位を争っているときほど楽しそうには見えなかった。
◇
その夜。
王都の会員制遊戯場では、レイモンド・ベルクがカードを卓上へ投げ出していた。
「また負けたのか」
向かいに座る青年が笑う。
「今日は運が悪いだけだ」
レイモンドは不機嫌そうに酒をあおった。
卓上からは、すでに相当な額の金貨が消えている。
「そんなに使って大丈夫なのか? ベルク家は最近、ずいぶん金を借りていると聞いたぞ」
「近いうちに片づく」
「例の侯爵令嬢か」
レイモンドの口元が緩んだ。
「ああ」
「アシュベリー侯爵家の一人娘だろう。うまいところへ目をつけたな」
「父上が持ってきた話だ。家格も財産も申し分ない」
「ただ、ずいぶん気の強い女じゃないか」
別の男が笑った。
「お前、ああいうのは苦手だろう」
「結婚前だから威勢がいいだけさ」
レイモンドは新しい酒を注いだ。
「今は父親と侯爵令嬢の肩書きが後ろにあるからな」
「結婚しても変わらなかったら?」
「変わるさ」
レイモンドは鼻で笑った。
「気の強い猿ほど、檻に入れてしまえば扱いやすい」
男たちが笑った。
「ずいぶんな言い方だな」
「立派なドレスも肩書きも外してしまえば、ただの女だ。寝室に入ってまで今の調子ではいられないだろう」
「怖いねえ」
「そのうち、お前たちにも見せてやるよ。あの女がどれだけおとなしくなったか」
笑い声が上がった。
レイモンドも笑った。
ヴィオラが何を好むのか。
領地で何をしたいのか。
そんなことには興味がなかった。
欲しいのは、アシュベリー侯爵家の財産と、その名がもたらす信用だった。
それさえ手に入れば、今日の負けも、馴染みの女たちへ使った金も、すべてどうにかなる。
◇
例の商人から連絡が来たのは、その翌週だった。
香油でも宝石でもない、少し変わった品を用意したという。
リリアが屋敷へ招くと、商人は数枚の証文を持ってきた。
「まあ。今日は紙ですのね」
「ただの紙ではございません。貴族家や大商会が資金を集めるために発行している証文でございます。期日までお持ちいただけば、記された額を受け取ることができます」
「難しそうですわ」
「ご心配には及びません。こうしたものは、相手の信用と購入価格の釣り合いを見るのが大切でございます」
リリアは、並べられた証文を順番に眺めた。
「こちらは?」
「北部の鉱山商会でございます。収益は安定しておりますので、信用は十分です。ただ、そのぶん価格も高く、大きな利益にはなりません」
「では、こちらは?」
「子爵家のものですね。こちらも堅実ですが、返済期日まで二年以上ございます」
「二年も待つの?」
「少々長うございますな」
リリアは別の一枚を指した。
「これは?」
「新興の海運商会です。うまくいけば利益は大きいのですが、海の商売は天候一つで状況が変わります。初めてでしたら、私はあまりお勧めいたしません」
「難しいのね」
「さようでございます」
リリアはしばらく証文を眺めた。
「では、信用のあるところで、今はお安くなっているものはないの?」
「そうですね……」
商人は何枚かをめくり始めた。
リリアは証文へ目を落とした。
「こちらはどうかしら」
商人は、書類を一枚抜き出した。
「さすが、お目が高くていらっしゃる」
ベルク伯爵家。
「あら。伯爵家なのですね」
「ええ。古くから続く名家でございます」
商人は少し声を落とした。
「現在は領地への投資や借り換えが重なり、まとまった資金を必要としております。そのため条件はかなりよくなっておりますが、本領には豊かな穀倉地帯も鉱山もございます」
「では、信用はあるの?」
「価格が下がっているだけの理由はございます。ですが、近く有力家との縁組がまとまるとも聞いておりますので、それが正式に決まれば信用も戻るでしょう」
「今だから、お安いのね」
「まさしく」
商人はにこやかに続けた。
「それに、この証文をお買いになることは、今、資金を必要としているベルク伯爵家をお助けすることにもなります」
「まあ。それは素敵ですね」
商人の笑みが少し深くなった。
「額面は金貨二十五万枚。現在でしたら、十六万枚でお引き受けいただけます」
「十六万枚……」
さすがに大きな金額だった。
リリアは困ったように眉を下げた。
「私、そんなに持っておりませんわ」
「もちろん、全額を現金でご用意いただく必要はございません」
「そうなの?」
「エルフォード公爵令嬢ほどの方でしたら、ご所有の資産を担保としてお借り入れいただくこともできます」
「担保?」
「たとえば、王都郊外にお持ちの別邸など」
それは、母方からリリア個人へ譲られた別邸だった。
「お家を預けるの?」
「形式上はそのようなものでございます。金貨四万枚をお支払いいただき、残り十二万枚については、別邸を担保に当方からご融資することも可能です」
「では、期日になって二十五万枚いただいたら、十二万枚をお返しすればよいのね」
「さようでございます」
「わかりやすいですわ」
リリアはにこやかに笑った。
契約には、公爵家の法務官も立ち会った。
リリア自身も、返済期限から担保条項まで目を通した。
借入金を返せなければ、別邸を失う可能性があることも承知している。
それでも、署名した。
商人は内心で笑っていた。
ベルク家の証文は、額面こそ大きい。
だが、期日どおりに回収できると誰もが信じているなら、これほどよい条件になるはずがない。
それを引き受けてもらえるうえ、リリアへ貸す十二万枚には、価値の確かな別邸が担保としてつく。
ベルク家がどうなろうと、こちらの貸付は守られる。
この騙されやすい公爵令嬢が買ってくれて、本当に助かった。
契約書は読める。
数字だってわかる。
ただ、人の言葉を疑うことだけが、どうにも苦手らしい。
商人は、とてもよい取引をしたと思って公爵邸をあとにした。
◇
ベルク伯爵には、十五歳ほど年の離れた弟がいた。
クラウス・ベルク。
三十になったばかりで、成人後は伯爵家の経営に深く入らず、自ら商売を始めて財を築いていた。
王都と南部の港町を結ぶ交易に成功し、いくつもの事業を持っている。
その一つが、砂糖、茶葉、香辛料、果物などを扱う大きな交易商会だった。
リリアがその商会を訪れたのは、証文を買って数日後のことだった。
「こちらのお砂糖を使ったお菓子が、とてもおいしいと伺いましたの」
店員へ告げたのは、それだけだった。
公爵令嬢の来店とあって、二階の個室へ案内される。
部屋には茶葉の缶や砂糖の見本、果物を詰めた木箱などが並んでいた。
そのどれにも、小さな帆船の印が刻まれている。
ほどなくして、栗色の髪をゆるく後ろへ流した男性が入ってきた。
「エルフォード公爵令嬢。初めまして」
「初めまして」
「クラウス・ベルクと申します。こちらの商会は私が所有しておりますので、本日は私からご案内させていただければと思います」
「まあ。ベルク家の方なのですね」
「ええ」
クラウスは穏やかに笑った。
「本日は砂糖をお探しとうかがいました」
「ええ」
いくつかの商品が並べられた。
「こちらは南方産です。口当たりが軽いので、菓子にもよく合います」
「レモンにも?」
「ええ。酸味のある果物とは特に相性がよろしいでしょう」
「まあ」
リリアは嬉しそうに笑った。
砂糖や茶葉をいくつか選んだあと、ふと思い出したように言う。
「そういえば、ベルク様」
「はい」
「これも、ベルク様のお家のものかしら」
鞄から、一枚の証文を取り出した。
クラウスが受け取る。
表情は変わらなかった。
けれど、読み進める速度が少しずつ遅くなった。
「こちらを、どちらで?」
「商人の方から買いましたの」
「おいくらで?」
「十六万枚ですわ」
クラウスが顔を上げた。
「金貨十六万枚を?」
「全部ではありませんの。四万枚だけ払って、残りはお家を預けました」
「……お家を?」
「王都の外にある別邸ですわ」
クラウスは、もう一度証文を見た。
「別邸を担保に、十二万枚を借り入れたということですか」
「そういう言い方をするのですね」
「ええ」
「では、それですわ」
リリアは安心したように笑った。
「ずいぶん大きなお買い物をなさいましたね」
「あら」
リリアは少し不安そうに眉を下げた。
「私、騙されてしまったの?」
「証文そのものは本物です」
「よかった」
ほっとしたように胸へ手を当てる。
クラウスは、再び証文へ目を落とした。
返済期限までに二十五万枚を用意できなければ、ベルク家の主要な穀倉地帯、鉱山、街道から得られる収益権に担保が実行される。
主要債務で不履行が起きれば、ほかの債権者まで一斉に返済を求める可能性もある。
そうなれば、ベルク家は持たない。
爵位そのものを一枚の証文で奪われるわけではない。
けれど、家を支える収入を失えば、伯爵家として存続することは難しくなる。
「リリア様」
「はい?」
「こちらの証文を、私にお譲りいただけませんか」
「まあ」
「もちろん、リリア様が借り入れていらっしゃる十二万枚についてはこちらで引き受けます。別邸の抵当も外します。そのうえで――」
そこで、クラウスは言葉を切った。
資産ならある。
だが、その多くは船や倉庫、商品、事業への出資に変わっている。
金貨だけでこの証文をすぐに買い戻すとなれば、かなり難しい。
かといって、このまま返済期限を迎えるわけにもいかない。
「よろしいですわ」
リリアが言った。
クラウスが顔を上げる。
「……よろしいのですか?」
「ええ」
あまりにあっさりとした返事だった。
「ですが、条件をまだ――」
「私、お金はいりませんわ」
「では、何をお望みでしょう」
リリアは室内を見回した。
砂糖。
茶葉。
蜂蜜。
果物。
小さな帆船の印。
そして、にこりと笑った。
「こちらの商会をいただける?」
クラウスは一瞬、返事を忘れた。
「……この商会を、ですか?」
「ええ」
「なぜでしょう」
「お砂糖も、お茶も、果物も扱っていらっしゃるのでしょう?」
「はい」
「でしたら、甘いものがたくさん作れそうですもの」
まるで、新しい菓子を選んでいるような口調だった。
クラウスは手元の証文へ視線を落とした。
現金での買い戻しを求められるより、その条件ならばはるかに助かる。
商会を手放すのは痛いが、彼にはほかにも事業がある。
何より、ベルク家そのものが崩れることとは比べられない。
「わかりました」
クラウスは顔を上げた。
「こちらの商会をお譲りしましょう。それに加えて、リリア様の十二万枚の借入はこちらで引き受け、別邸の抵当も外します」
「まあ」
リリアの顔が明るくなった。
「嬉しいですわ」
「その条件でよろしいのですか?」
「ええ。私はこの商会が欲しいですもの」
本当に嬉しそうに笑っている。
クラウスも、ようやく少し肩の力を抜いた。
「正直に申し上げると、助かりました」
「あら」
「資産はございますが、その多くは事業に入っています。現金だけで買い戻すとなれば、少々難しいところでした」
「まあ」
リリアはさらに嬉しそうに笑った。
「では、お互いに嬉しいのね」
クラウスも笑った。
「そうですね」
「よいお買い物ですわ」
「ただし」
クラウスは少しだけ表情を改めた。
「今後、ご自身の別邸を担保になさるほど大きなお買い物をされるときは、もう一人くらい意見を聞かれると安心かもしれません」
「法務官には見ていただきましたわ」
「契約書を確認する方ではなく、そのお買い物自体を止めてくださる方に」
「あら」
リリアはしばらく考えた。
「ヴィオラ様がよさそうですわ」
クラウスは少し笑った。
「そのような素敵なご友人がいらっしゃるなら、安心いたしました」
「ええ。とても頼りになる方ですの」
後日、必要な書類が整えられ、法務官立ち会いのもとで正式な譲渡が行われた。
リリアの別邸に設定されていた抵当は外れた。
交易商会はリリアのものとなり、ベルク家の証文は、クラウスの手へ渡った。
◇
やがて、証文の返済期限が近づいた。
クラウスは兄であるベルク伯爵へ、正式に返済を求めた。
伯爵は、金貨二十五万枚を用意できなかった。
「少し待ってくれ」
兄は言った。
「今、いくつか大きな取引をまとめている。アシュベリー侯爵家との話も進んでいるんだ」
「まだ婚約も成立していないでしょう」
「いずれ成立する」
「それを返済計画に入れているのですか」
兄は答えなかった。
結局、ベルク伯爵は返済期限の延長と、さらにクラウスからの資金援助を求めた。
そこでクラウスは条件を出した。
「私の資産をベルク家へ入れるのであれば、帳簿をすべて見せてください」
「そこまでする必要があるのか」
「あります。これ以上、何にいくら必要なのかわからないまま金を出すつもりはありません」
「家族を信用できないのか」
「信用してほしいのでしたら、見せられますよね」
断れば、猶予はない。
証文の担保を実行されれば、ベルク家は主要な収入源を失う。
兄は、帳簿を開くしかなかった。
そして、次々と出てきた。
複数の借入先へ、同じ将来収入を返済原資として説明していた記録。
アシュベリー侯爵家との縁談がまとまれば入ってくるはずの持参金を、すでに確定した資産であるかのように扱った書簡。
婚姻交渉の際に侯爵家へ提出した財務資料から、意図的に外されていた短期債務。
そのいくつかには、レイモンド自身の署名があった。
それだけではない。
領地視察費として処理された賭場への支払い。
交際費に紛れ込ませた、複数の女性への贈答。
騒ぎを表へ出さないための口止め金。
兄がそれらを黙認し、帳簿を操作していた記録まで残っていた。
ベルク家の問題は、単なる経営失敗では済まなくなった。
王家と貴族会議が動いた。
現ベルク伯爵は、家の財務を偽って婚姻交渉を進めていた責任を問われ、隠居することとなった。
レイモンドもまた、財務隠蔽への関与に加え、伯爵家の資産を私的な遊興へ流用していた事実が認められ、後継者の座を失った。
一方、クラウスは一連の不正に関与しておらず、自らの資産で主要な債務を整理できる能力も持っていた。
国王の裁可を経て、新たなベルク伯爵となったのはクラウスだった。
当然、レイモンドとヴィオラの縁談も、正式な婚約になる前に白紙となった。
◇
「信じられない!」
数日後、リリアの前で、ヴィオラは朝から怒っていた。
「まさかレイモンド様が、あんな方だったなんて!」
「大変でしたわね」
「家の借金を隠していたうえに、私との婚姻を前提に新しくお金まで借りていたのよ! しかも賭事に女遊びまで!」
言いながら、ますます腹が立ってきたらしい。
「よくもまあ、あんな澄ました顔で私の前に出てこられたものですわ!」
「悪い方には見えませんでしたね」
「そうなのよ!」
ヴィオラは勢いよく頷いた。
「あれで見抜けと言うほうが無理よ。いつだって親切だったし、私が何を言ってもにこにこ聞いていたもの」
「お姫様のようでしたわ」
「……あなた、見ていたの?」
「少しだけ」
「なら、わかるでしょう?」
「はい」
素直に頷かれると、それはそれで拍子抜けするらしい。
ヴィオラはむっとした顔で紅茶を飲んだ。
「まあ、結婚する前にわかったのだから、よかったと思うことにします」
◇
新しいベルク伯爵となったクラウスは、あらためてアシュベリー侯爵家を訪れた。
「このたびは、兄と甥が大変なご迷惑をおかけいたしました」
応接室で、クラウスは深く頭を下げた。
「婚姻の話が正式にまとまる前であったとはいえ、ベルク家として弁解の余地はございません」
アシュベリー侯爵が静かに答えた。
「あなたが関与していなかったことはこちらも承知している。むしろ、事情を明らかにしてくれたことには感謝している」
「ありがとうございます」
ヴィオラも、父の隣で小さく頭を下げた。
「伯爵様までお気になさらないでくださいませ。なさったことの責任は、なさった方が負うべきですもの」
「そう言っていただけると救われます」
クラウスは最後まで礼を崩さず、その日の謝罪を終えた。
けれど、両家にはその後も顔を合わせる理由が残っていた。
◇
ベルク家とアシュベリー侯爵家には、もともと共同で進めていた事業があった。
両家の領地を結ぶ街道の整備と、その周辺の市場開発である。
ベルク家の当主が変わったため、契約は一から見直されることになった。
領地経営を父から学んでいたヴィオラも、何度かその話し合いへ同席した。
「こちらの市場を先に広げるより、街道沿いの宿場を整えたほうがよろしいと思います」
ヴィオラが地図を指した。
「商人が泊まる場所がなければ、荷だけ通って領地にお金は落ちませんもの。井戸と馬屋を先に整えれば、自然と小さな市場もできると思います」
クラウスはしばらく地図を見た。
「なるほど。宿場を先に置けば、街道が完成する前から人の流れを作れますね」
「ええ」
「そこまでお考えになれるということは、領地経営をずいぶん勉強されてきたのでしょう」
ヴィオラが少し眉を上げた。
「意外ですか?」
「いいえ」
クラウスはすぐに首を横に振った。
「むしろ納得しました。アシュベリー侯爵がこの場へ同席をお許しになるわけです」
ヴィオラは少しだけ目を見開いた。
「……そう」
「実際の収支までご覧になりますか?」
「もちろんですわ」
「では、こちらを」
クラウスはすぐに帳簿を差し出した。
ヴィオラは、それを当然のように受け取った。
◇
二人が仕事で顔を合わせる回数は、その後も増えていった。
あるとき、商人が新しい輸送契約について強気の条件を出してきた。
「こちらが現在の相場でございます。これ以下では当商会としても――」
クラウスは見積書を一度見ただけで首を横に振った。
「この条件では契約できません」
「しかし、伯爵様。港からの輸送費も上がっておりますので」
「先月から下がっています」
クラウスは別の書類を差し出した。
「こちらの商会からは、御社より七分低い条件をいただいています。長年のお付き合いがありますので、先にそちらのお話を伺おうと思っただけです」
商人の顔がこわばった。
「……少々、お時間をいただけますでしょうか」
「もちろんです。ただし、明日までにお返事がなければ、今回は別の商会へお願いいたします」
穏やかな口調だった。
けれど、一歩も譲らない。
商人が退出したあと、ヴィオラが感心したように言った。
「ずいぶん容赦がありませんのね」
「商売ですから」
「いつも穏やかでいらっしゃるから、もう少し譲られるのかと思っていましたわ」
「必要なところで譲るのは構いませんが、必要のないところで損をする趣味はありません」
「……そういうところは、少し見直しました」
クラウスが笑った。
「少しだけですか」
「全部褒めたら、調子に乗られるでしょう?」
「なるほど」
「何です?」
「いえ」
クラウスはまだ笑っていた。
「そういうところは、可愛らしい方だと思いまして」
ヴィオラが固まった。
「……今、何と?」
「可愛らしいと申し上げました」
「私を子ども扱いなさっているの?」
「いいえ」
即答だった。
「では、なぜそのようなことをおっしゃるのです!」
「そう思ったからですが」
「だから!」
クラウスは少しだけ笑みを深くした。
「一人の女性に申し上げているつもりです」
ヴィオラの頬が一気に赤くなった。
クラウスはそれ以上からかわず、何事もなかったように次の書類へ目を落とした。
それが、また腹立たしかった。
◇
それからというもの、ヴィオラが何か意見を言えば、クラウスはきちんと聞いた。
正しければ採用する。違うと思えば、理由を説明して反対する。
ヴィオラがむきになっても、笑って聞き流したりはしなかった。
ただ、ときどき、
「そういう負けず嫌いなところも、可愛らしいですね」
と言う。
「またそれですの!」
「事実ですので」
「おやめになって!」
「本当にお嫌でしたら、やめますよ」
そう言われると、ヴィオラは少しだけ黙る。
「……別に、そこまで嫌とは言っておりません」
クラウスは笑った。
「では、たまに」
「なぜ続ける前提なのです!」
そんなやり取りをするようになったころには、ヴィオラがクラウスを見つけるたび、ほんの少しだけ顔を明るくすることを。
本人以外は、だいたい気づいていた。
◇
そのころ、王都では、新しい菓子店が評判になり始めていた。
名を、シュガーパフという。
白い箱には、ふわふわと丸い砂糖菓子の絵。
その隅には、小さな帆船の印が入っていた。
看板商品も、店と同じ名だった。
真っ白なマシュマロを、さらに白い綿菓子でふんわりと包んだ菓子である。
見た目は丸く、柔らかく、どこまでも甘そうだった。
◇
それからしばらくして、ヴィオラがエルフォード公爵邸を訪ねてきた。
いつもより少しだけ落ち着かない。
テーブルには、白い菓子箱が置かれていた。
「これ、最近よく見るわね」
ヴィオラが箱の隅にある小さな帆船の印へ一瞬だけ目を落とした。
「シュガーパフですわ」
リリアが蓋を開ける。
ふわふわとした白い菓子が並んでいた。
ヴィオラは一つ取って口に運んだ。
柔らかなマシュマロと綿菓子の甘さのあとに、中心からベリーの酸味が広がる。
「……おいしい」
「でしょう?」
「ずいぶん甘いのに、真ん中だけ酸っぱいのね」
「ええ」
ヴィオラはもう一つ取った。
「何だか癖になるわ」
それから、ようやく思い出したように鞄へ手を伸ばした。
「そうではなくて。今日は、これを渡しに来たの」
差し出されたのは、一通の招待状だった。
封蝋には、アシュベリー侯爵家とベルク伯爵家、二つの紋章が並んでいる。
「まあ」
リリアが顔を上げた。
「ご結婚なさるのね」
「……そうよ」
ヴィオラの頬が少し赤い。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
珍しく、素直な返事だった。
リリアが招待状を開く。
クラウス・ベルク伯爵。
ヴィオラ・アシュベリー侯爵令嬢。
二人の婚礼の日が記されていた。
「楽しみにしておりますわ」
「……本当に?」
ヴィオラは少しだけ目を逸らした。
「招待状を渡したら、来てくださいますわよね?」
いつもの勢いが、ほんの少しだけ弱くなる。
リリアは柔らかく笑った。
「もちろんですわ」
「絶対?」
「ええ。必ず」
ヴィオラの顔が明るくなった。
けれど、すぐに咳払いする。
「当然よ。私の結婚式なんだから」
「ええ」
ヴィオラは照れ隠しのように、もう一つシュガーパフを取った。
「それにしても、これ、本当に癖になるわね」
「お気に召して、嬉しいですわ」
「……だから、どうしてあなたがそんなに嬉しそうなのよ」
しばらくして、ヴィオラは席を立った。
「では、私はそろそろ失礼するわ」
「はい」
「結婚式、絶対に遅れないでよ」
「気をつけますわ」
「途中で妙な商人に捕まったりしないこと」
「はい」
「その返事が一番不安なのよ」
ヴィオラが呆れたようにため息をつく。
そこで。
「あ、そうだわ」
リリアが声を上げた。
「何?」
「ヴィオラ様に差し上げたいものがありましたの」
「私に?」
「ええ」
リリアは部屋の奥から、小さな箱を持ってきた。
「どうぞ」
ヴィオラは不思議そうに受け取り、蓋を開けた。
その瞬間、甘い花の香りが、ふわりと広がった。
ヴィオラの動きが止まった。
「……リリア」
「はい?」
「これ」
「よい香りでしょう?」
「これ、あのときの香油でしょう!?」
「ええ」
「買ったの!?」
「買いましたわ」
「リリア!」
部屋中に声が響いた。
「私、あれほど言ったでしょう! 金貨五枚で買えるものを三十枚で売りつけられていたのよ!」
「でも、とてもよい香りでしたから」
「そういう問題じゃないわ!」
リリアは楽しそうに笑った。
「それに、私にとっては、ずいぶんお得に買えたのよ」
「どこがよ!」
リリアは自分のそばに置いてあった小さな瓶を取り上げた。
ヴィオラの手にあるものと、同じ瓶だった。
「おそろいですわ」
「……」
ヴィオラは黙った。
怒っていたはずなのに、手の中の箱をしばらく見つめている。
「お気に召さない?」
「そうは言ってないでしょう」
ヴィオラは箱を大事そうに鞄へしまった。
それから、改めてリリアへ向き直る。
「でも、次からは絶対に私に相談してから買いなさい!」
「はい」
「絶対よ!」
「わかりましたわ」
「本当に、私がいないと駄目なんだから!」
リリアは、いつものようににこにこ笑った。




