図鑑と食レポ
宿に着き、水を一杯飲んで落ち着いた僕は、ベッドに腰を下ろして魔法鞄から一冊の分厚い本を取り出した。
「えーっと、大蜘蛛、大蜘蛛……え、正式名称違うの?」
ページを捲っていく。大背黒麻痺蜘蛛という項目で、引っかかるように指が止まった。
「あ、これ。さっきの大蜘蛛、これだ」
この本は図鑑である。ただし、未完成の。その図鑑に僕は特別なペンで追加の項目を書き込んでいく。
「意外と知能が高い。剣士と魔法使いを見分け、詠唱を邪魔してくる――っと、これでいいか。ああ、それから。脚は外殻ごと焼くとうまい。肉に毒があるけど、致命的じゃない。一般人が食べたらたぶん麻痺が出るかな。味は全体的にカニに似ている。これでよし」
本当は胴体も焼いて食おうかと思ったけど、人間を捕食しているかもしれないことを考えると、流石に食指が動かなかった。
僕がこの図鑑とペンを授けられたのは、この世界に連れてこられた時。転生なのか転移なのかといえば、おそらく転移なのだろう。ここではない世界で死にかけ、新しい体をもらったけど、幼児からやり直したわけじゃない。この体はもらった時にはすでに十五歳くらいだったし、そこから年を取っていない気がする。ルイというのは前世の名。元は『琉衣』だった。
図鑑をぱらぱらと眺める。空いているページも埋まっているページもある。この図鑑を少しでも多く埋めること、それが神様から僕に与えられた使命だ。毒が効かない体や魔法の能力は、加護によるもの。でもねぇ……たとえ加護をもらっても、いきなり異世界に拉致されて仕事を押し付けられたんだから、納得できるわけがない。
僕は思ったのだ。図鑑をめちゃくちゃにしてやろうと。使命なんて放り出して好き勝手しようと。
その目論見はうまくいかなかった。この図鑑には嘘が書き込めない。仕組みはわからないけれど、わざと間違った情報を書こうとすると消えてしまう。そして僕は使命を無視することもできなかった。だって、いかにも苦労していそうな、顔色の悪い知恵の女神が夢に出てきて懇願してくる。図鑑を完成に近付けて欲しいと。しかもそれを無視し続けると泣くのだ。女神が、ひとの夢の中で。
図鑑の完成がどれだけ必要なことか、他の神々から何を言われているか、配下の天女が言うことを聞かないなんていう愚痴や、創造神の嫌味について、薬神が鬱陶しいという話や戦神が暑苦しいという話、火の神と風の神の浮気事情まで、知恵の女神はぶつぶつと呟きながら嘆き、泣き続ける。寝た気がしないんだよ、あれじゃあ。
仕方がないから、僕はできる範囲で小さな嫌がらせをすることにした。それが、図鑑に嘘ではないけど必要のない、役に立たない余計な情報を書き込むという方法だった。つまりは――有毒か、食べられるか、食べたら美味しいか。そんな項目を勝手に作ったのである。
最初は神々への反抗心で始めたその行動。毒が効かないのをいいことに、目につく植物や魔物の肉をとりあえず食べてみる日々。まさかそれが楽しくなるとは思わなかった。
最近は迷宮での自炊にハマっている。調理道具はキャンプギアみたいで楽しいし、調味料も香辛料も、元の世界にはなかったものがあって、あれこれ試したくなる。魔法鞄のおかげで持ち運びは楽。料理のついでに魔石を回収すればお金にもなる。魔物との戦闘も慣れてきたし、迷宮にしか生えない薬草や毒草、特別な水、キノコや苔が思いのほか美味しかったりすることがある。
もっとも、僕が『美味しい』と感じるものには、致死毒が含まれるものも少なくないんだけど。
そんなわけで、僕は表向きはソロの冒険者として魔法使いのふりをしながら、実際には知恵の女神の手先として図鑑のページを埋めていく作業をしているのである。
パーティを組めない理由は、いくつかある。まず、この図鑑を見られたらまずいということ。文字が一般的なものじゃないんだ。知恵の女神の配慮なのかなんなのか、全部日本語で書かれている。それから、僕と同じ食事ができる人間がいないらしいということ。毒を含むものを食べる僕が異様に見えるのは自覚している。いちいち気を遣いながら食事をするのは嫌なんだ。そして、無視することができないもうひとつの理由は、僕が『男装している』ってことだ。
若い冒険者のパーティに女の子がいたら、ちやほやされて嬉しいなんてことには、たぶんならない。自分で言うのもなんだけど、結構可愛いと思うんだよね、今の僕。パーティ内の恋愛で駄目になる冒険者は多いらしいし、顔が良いのはトラブルの元。性別を知られたら目の色を変えそうなやつにも心当たりがある。人前で着替えたり、怪我の手当てのために脱ぐなんてことは、絶対に避けたい。
だから僕はひとりで迷宮に潜るのだ。食材を現地調達しながら。
「あ。そうだ。卵を買っておこう。それにチーズも……」
図鑑の白紙のページにメモしようとして、書けなくて、なんだかちょっとイラッとした。




