田舎の鼠と都会の鼠と路地裏の鼠
ネットの隅でこそこそ活動しているクソ雑魚ナメクジ。
それが俺だ。
温かい陽の光を嫌う路地裏の鼠みたいな奴が、もしもハンドルネームを把握されていたらどのような反応をするだろうか?
答えは全身ガクブル震わせてあわや失禁寸前まで追い込まれる、だ。
白目を剥きそうになるのを気力で抑えながら、俺は静かに問いかけた。
「……ツキシモって誰かしら」
「えっ。絢華さんの活動名じゃないんですか?」
「確かに名前は似ているけれど、そんな捻りのないネーミングをこの私がすると思うの?」
「でも……二曲目の概要欄に……」
スマホの画面を突きつけてくる紗英。
気絶しそうな視界の中、表示された概要欄に目を通すと──。
『二曲目です。特に自分とは関係ないんですけど、CRYSTAΛってアイドルグループが最近おすすめですよ(ステマ)』
まったく以て記憶にない文章が書かれていた。
あの時は新曲が完成した嬉しさで変なテンションになっていたが、それにしても珍妙奇怪な概要欄である。
推敲してから投稿することの重要性が身に染みた。
「これって、絢華さんが私たちの名前を広めようと書いてくれたものじゃないんですか……?」
「あわわわわわ」
──エゴサーチしてたらこの曲が出てきて、その動画の投稿主を見てみたら、凄い絢華さんっぽい声と名前の人だったので、てっきりツキシモさんの正体は絢華さんなのだとばかり……。
紗英は申し訳なさそうに笑っている。
スマホを仕舞って頭をぺこり。
「すみません、勘違いしてました」
「…………」
「凄い作曲センスの持ち主なので、CRYSTAΛに書き下ろし曲を作ってもらえれば、映莉子のお父さんも認めてくれるかもしれない、って──都合のいい思い違いをしちゃってました」
うーん、賞賛が気持ちいい。
確かにネットの活動名がバレたのは恥ずかしいけれど、別に実害が出たわけではないのだから問題ないのでは?
承認欲求が満たされたことで、びくびく小さくなっていた鼠の精神が自信を取り戻していく。
「──待ちなさい」
「え?」
とぼとぼステージに戻ろうとする紗英を引き留めた。
彼女は目を丸くして振り返る。
「さっきは気恥ずかしくて嘘をついたけれど……そうよ、ツキシモは私」
「やっぱり」
「あと書き下ろし曲なんだけど、ごめんなさい、それは無理だわ」
「え」
紗英──ではなく贄田実千が声を漏らした。
自分でも無意識の声だったのか、丁寧に手入れされた金髪を指で摘まんで、恥ずかしがるように顔を隠す。
「あっ、その……実千はツキシモさんの大ファンなんです。書き下ろし曲をお願いできないか、って言いだしたのは実千で」
「ちょっと紗英! 秘密だって言い含めておいたじゃない!」
実千は掴みかかるような勢いで紗英の肩に手を置いた。
耳は羞恥に染まり、瞳孔はぐるぐる。
誰が見ても混乱していると判断する慌てようだった。
書き下ろし曲を断ったのはひとえに俺に自信がなかったからなのだが、目の前でここまで動揺されると、気持ちが揺らいでしまう。
「……実千」
「は、はいぃ!?」
「敬語なんて使うキャラだったかしら、貴女」
傲岸不遜、とまで言うつもりはないが、少なくとも俺を前に挙動不審になるタイプではなかった。
そんな実千が胸の前で指を合わせ、さながら童女のような仕草をするものだから、天秤が大きく傾き、一つの決意をする。
「ツキシモ──私のファンだというのは、本当?」
「……さすがにいつ新曲が投稿されるか分からないから常にチャンネルページを睨んでるほど筋金入りのファンってわけじゃないですけどまぁ一般的にはそう呼称されても致し方ないくらいは好きってだけで別に紗英が言うほど大ファンじゃ」
「実千?」
油断してた。
油断してたところに濁流のごとく言葉が放たれたものだから、九割九分を聞き取れなかった。
目を白黒させて実千を眺める。
彼女は「しまった」とでも言いたげに口を押えていた。
「絢華さん、どうしてもお願いできないでしょうか」
再び頭を下げてくる紗英。
腰は九十度に曲げられ、気持ちが伝わってくる。
「映莉子がアイドルを続けるために──と言うと脅迫のようで嫌なのですが、本当に、私たちには絢華さんの力が必要なんです」
その言葉に合わせて、CRYSTAΛの全員が頭を下げてきた。
思わず一歩たじろぐ。
暇潰しにしていた遊びが、とんでもない事態を引き起こしてしまった。
「……頭を上げてちょうだい。傍から見たら怪しい宗教の儀式みたいになってるわ」
「でも──」
「曲は作るから」
「本当ですかっ!?」
紗英が弾丸のように飛びついてきた。
想起するはよく懐いた大型犬。
勢いに負けて腰から床に落ち、俺は呻き声を漏らす。
「す、すみません!」
「いいわ。それよりも早く退いてくれるかしら。同性とはいえ、淑女がみだりに抱き着くものじゃないわ」
アイドル志望だからか体重は驚くほど軽かったのだが、だからといって俺の中身は元男なのだ、年頃のお嬢さんと近づきすぎるのもよろしくないだろう。
紗英はどもりながら飛び退り、実千がそんな彼女をはたいた。
「アンタ誰にでも抱き着く癖止めろって言ったでしょ」
「む、無意識でぇ……」
「なおさらたちが悪い」
CRYSTAΛの四人は涙を浮かべて笑いあっている。
まるで危機が去ったかのような雰囲気だが、これで俺がろくでもない曲を提供したら、いったいどんな空気になるのだろうか。
「──まさか、こんなことになるとはね」
胃の底に重たいものを感じつつ、俺は嘆息した。
◇
「──まさか、こんなことになるとはね」
小さい呟きが鼓膜を打った。
喪服めいた真っ黒なドレスに身を包んだ絢華さん。
彼女は私たちの中には入らず、傍観者よろしく佇んでいる。
絢華さん……というかツキシモさんに書き下ろし楽曲を作ってくれとお願いしたのは、何も実利だけが目的ではない。
霜月絢華という女性は、気を離したら何処かへ消えてしまいそうな、危うい雰囲気を纏っているのだ。
退屈そうに世界を睥睨する双眸や、鮮烈に過ぎる美貌。
にもかかわらず存在感が薄い瞬間もあって、そういうときは毎回、あのように苦々しい表情をしている。
私は絢華さんの身に何があったかを知らない。
きっと調べてはいけないことだと思うし、もしも話してくれる時が来るのなら、本人の口から聞きたい。
でもその時が来るまでは──煙のように掻き消えそうな彼女を、CRYSTAΛという楔で世界に留めておきたい、なんて。
「ちょっぴり重いかな」
自分でもどうかと思うけど。
若干他人に引かれちゃうかもしれないけど。
それほどまでに私は、霜月絢華という太陽に惹かれ、脳を灼かれてしまったのだ。
「紗英? どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
急に黙り込んだ私を不審に思ったか、実千が訝しげに尋ねてきた。
思えば驚くべきことだ。ずたずたに引き裂かれていた幼馴染の仲を、絢華さんが修復してくれたのだから。
もちろん彼女は意図していないだろうけど、意図せず誰かを救ってしまう、救えてしまう魅力が絢華さんにはある。
だからこそ世界に退屈して、あるいは絶望して、あのような陰のある雰囲気を纏うようになったのかもしれない。
私は不意に浮かんだ可能性を握りしめて、今度はあの人を絶望させまいと、希望に輝くアイドルを目指すのであった。




