崩壊
教室に辿りついた。
ドアを開けようとして、逡巡。
手は無様に宙を切った。
──小和瀬麻美は夜凪ゆきを嫌っている。
先程から何度も何度も脳内で繰り返される呪いの言葉が、目の前にある薄っぺらい扉一枚を、まるで経典に語られる大岩のような、分厚くて触れることすら叶わない、触れてはならない存在のように思わせた。
しかし、いつまでも躊躇しているわけにもいかない。
絢華は覚悟を決め、ドアを開ける。
すると──。
「……ようこそ、来てくれました」
後ろ手に立つ麻美の姿が。
夕暮れが彼女を照らす。
麻美の浮かべる笑顔が、自身の浅薄なそれと重なって、同時に、道中耳にしてしまった罵詈雑言が思い出されて、不条理なテクスチャが覆いかぶさるように、彼女自身はそんなつもりないのかもしれないけれど、敵意を向けられているような錯覚をしてしまい、絢華は双眸を伏せた。
「今日はね、絢華に──」
麻美の声は届かない。
ぐわんぐわんと、揺れる。
不定形に。
意味を取れない。
嘲笑が頭蓋骨の中を反射して、増幅して、意識を染め上げていく。
今までのトラウマ──APEXIAのメンバーがどんどん居なくなっていく光景が、恩師だと仰いでいた先生が自らのもとを去っていく光景が、何度も何度もリフレインする。
ゆえに、親愛の情を向けてくる麻美にも、自分を嫌う感情が隠れているんじゃないかと、絢華は思い込んでしまった。
「──というわけで、これが」
「麻美」
「ケーキ……何?」
「麻美も、本当は、私のことが嫌いなんでしょ」
初めは聞き間違いかと思った。
麻美は、まず第一に、己の耳を疑った。
だってあの霜月絢華から飛び出た言葉だとは信じらなかったから。
常にアイドルを目指し、どんなことがあっても挫けず、純粋な笑顔を湛える霜月絢華から、そんなマイナスな言葉が。
「あ、絢華? 何を……」
「もう隠さなくていいよ。なんかさ、疲れちゃった。必死になって頑張ってきたけど、みんな望んでなかったんだね。だからみんな……智美も、千絵も、綾乃さんも、私から離れていったのかな」
自分の声が届いていない。
麻美は息を呑む。
「みんなして天才、天才ってさ、才能が羨ましいとか、そんなに才能があったら苦労したことないんだろうねとか、私の努力を否定しないでとか、迷惑なんだよとか、同じ時代に生まれたくなかったとか、みんなみんな、自分勝手に、私の悩みも知らないで、得意顔で、悲劇のヒロインみたいな振る舞いで、罪人に石を投げつけるみたいに、私が抵抗しないからって、ネットに誹謗中傷を書き込んで、聞こえるように陰口を叩いて、それでお前たちの現状が変わるはずもないのに、努力不足を私のせいにして、実力不足を私のせいにして、現状を変えない自分から目を逸らして、目立つからって理由で私を除け者にして、憶測を真実のように語り、噂が独り歩きして、いつしか立派な真実になって、それを根拠に私を責め立てて、笑いものにして、必死に頑張ってきたのに、私の努力だけは無視をして、無きものにして、霜月絢華は、夜凪ゆきは生まれ持っての才能だけでトップアイドルになったんだと、それまでにあった無数の苦労を見て見ぬふりをして、階段を上ってきた過去を見ようともしないで、まるで初めからそこに居たみたいに、嫉妬して、みっともなく泡を噴いて、友達にも嫌われて、距離を取られて、それでもそんな人たちのために頑張ろうって決めたのに、私の感情も知らないで、調子に乗ってるだとか勘違いしてるだとか、得意満面になってデマを流して、自分たちが悦楽に浸るための話題にして、私はいったいなんのために頑張ればいいのさ。おかしいじゃんそんなの。なんで私だけがこんなに責められなくちゃいけないの。私の何が悪かったの。天才だとかおだてられて、天才だとか貶められて、望んでそんな形になったわけじゃない。才能が欲しかったわけじゃない。みんなと同じように夢を抱いて、みんなと同じように努力して、みんなと同じように苦労しているのに、どうしてその部分にだけは注目してくれないの。どうして成功した部分だけを取り立てて、私を世間知らずの、努力もろくにしない勘違いした馬鹿だって嘲るの。天才だって距離を取ったのはそっちじゃん。天才だってラベリングをしたのはそっちじゃん。だから私だって、そんな期待に応えようと、天才アイドルみたいな振る舞いを心がけたのに、それを理由に勘違いだの厚かましいだの、いったい私はどうしたらよかったんだよ。教えてくれよ。何も教えてくれないじゃん。みんなはいったい、私に何をしてほしいんだよ!」
一息に。
絢華は、言い切った。
両目には零れんばかりの涙が浮かんでいる。
握りしめた拳は震えて。
彼女の精神状態を表しているかのように。
はあ、はあ、と肩を上下させて。
麻美を睨みつける視線には、以前までの友愛はなく。
まるで、ぶたれるのを恐れる子供のような、どこまでも深い、深い断裂を感じる視線だった。
「ああ」
麻美は後悔する。
もう、自分の声は届かない。
そう悟って。
「ごめんね」
「あっ」
麻美は空に光るものを残しながら、教室を走り去った。
静寂だけが満ちる。
床に、白い箱が転がっていた。
開けると、中には、ぐちゃぐちゃになった、元はケーキだったのだろう何かが、二人の絆そのものみたいに、壊れていた。
◇
あれから数年が経過した。
霜月絢華は人前に出られなくなった。
眼差しが、怖い。
勝手に身体が震える。
ゆえに、彼女はアイドルを辞めた。
辞めざるを得なかった。
学校にも行かなくなり、部屋から出ることも少なくなって、最終的には、陽射しを嫌う吸血鬼のような生活を送るようになった。
これまでの実績と成績で卒業こそできたが、本来受かったであろう大学のレベルからはずいぶん下げて、通信制の大学に進学することに。
絢華の家柄であれば学歴などがなくても暮らしていくには十分だったのだが、正樹は相変わらずの頑固さ──あるいは、笑顔を見せなくなった娘を慮ってか──を発揮し、どこの大学でもいいから卒業しなさい、と命を下したのだ。
時たまに顔を出す必要があるくらいで、ほとんど画面越しのやり取りだけで終始するシステムは、絢華にとって気楽なものだった。
「はあ……」
目立つのが怖い。
最近の彼女は黒い服ばかりを着ている。
以前、好き好んで着ていた色とりどりの衣服は、クローゼットの肥やしにすらなれず、灰になって、埋め立てられているだろう。
表情筋も動かなくなったから、過去の姿しか知らない者が今の絢華を見ても、とても同一人物だとは思うまい。
「──あれ」
安楽椅子に座って瞼を閉じていた絢華。
そっと目を開き、一言。
「またか」
何時間が経った?
時計を確認すると、記憶の中のそれから二時間が経過していた。
かちりこちりと。
不気味な音を立てて、秒針が喚いている。
「どんどん長くなってる」
記憶のズレ。
不一致。
矛盾。
齟齬。
言い方はなんでもいいが、とにかく、ここのところ、霜月絢華の記憶が──意識が、突如として途絶え、そして復活するという現象が起こっていた。
加えて気味が悪いのが、どうも、意識がない間も「自分」は活動しているようなのだ。
前の霜月絢華のように。
笑顔を湛えた自分ではない自分が。
「…………」
絢華は己の身体を掻き抱く。
指先に触れる肩は冷たい。
僅かに震えていた。
ほのかに息を吐き出す。
霜月家お抱えの医師によると、彼女を襲う症状は、解離性同一性障害のようなものではないか、と診断された。
少しばかり特徴に差異が見られるから、必ずしも正確ではないらしいが。
いずれにせよ、霜月絢華が霜月絢華として過ごせる時間が減っているのには間違いなかった。
──原因は明白だ。
アイドル。
それに伴うトラウマ。
忌避の眼差し。
脳裏にこびり付いたそれらが、彼女の人格と記憶とを分裂させているのだろう。
……恐ろしい。
いずれ、自分という存在は消えてしまうのではないか。
絢華は歯の根噛みあわぬ恐怖が、冷たさが、血管の中を這い巡る錯覚をした。
──けれども、同時に。
安堵を覚えていたのも確かなのだ。
このまま時間が過ぎて、トラウマを抱えた霜月絢華が居なくなれば、また、いつかみたいに夢に向かって走れるのではないかと。
希死念慮めいた安堵を感じている。
◇
外出することが少なくなったので、絢華は、余暇時間の潰し方に苦心していた。
普段は安楽椅子に腰かけ、ぼうと過ごしているのだが、さすがにそれだけでは一日が長すぎる。
ゆえに──これまではあまり触れてこなかった、漫画やら小説やら映画やらを見るようになった。
つらい現実から逃れて、都合のいい異世界などに逃避できる作品は、彼女にとって都合がよかったのだ。
寝しなに妄想をすることが増えた。
目覚めたら自分は姿を消していて。
そこに居るのは、完全無欠の、誰もが理想とするアイドルで。
けれども──朝日に網膜を焼かれて、いつも落胆する。
ああ、また駄目だった。
また目覚めてしまった。
見たくもない世界を見てしまい、知りたくもない真実を知ってしまい、聴きたくもない声を聴いてしまい、考えたくもない事を考えてしまう。
「ここじゃない世界に行きたいな」
もしも、誰も自分を知らない世界に行けたなら。
もしも、自分が誰も知らない世界に行けたなら。
霜月絢華が霜月絢華たり得る地続きの感覚が消え失せて、それこそ創作世界のように、いまだ未知の領域を切り開き、まるで主人公みたいに、人々の心を折る悪役じゃなく、主人公になれたなら。
あるいは、主人公などではなく、物語の端っこにひっそり居るような、脇役でもいいだろう。
あるいは、物語に深みを与える、意味深長な言動をするキャラクターでもいいだろう。
とにかく、霜月絢華でさえなければ。
周りの人を不幸にするだけの天才じゃなくなれば。
アイドルを志す理由がなくなれば。
自己矛盾に押しつぶされる原因がなくなれば。
──この記憶が消えたなら。
私が、居なくなれたなら。
きっとそれは、素敵なことでしょう。
◇
かくして。
眠りから覚めた霜月絢華は。
これまでの記憶を一切合切失って。
自分が転生者であることに気が付いた。
これにて第六章完結です。
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