軋轢
霜月絢華はメンバーの脱退を乗り切った。
乗り切ったことで、以前よりもレッスンが増えた。
ただでさえ限界を超過していたのに、少なくなった一人分を背負うように、昼も夜もなく努力するようになった。
もはや、努力などではなく、自罰とも言える域にまで。
◇
出射千絵はあまり真面目な生徒ではなかった。
授業は昼寝の時間。
レッスンはサボるのがデフォルト。
それで結構な成績を残すものだから、教師にとっては頭痛の種であり、もしも本気で頑張ったのならば、今よりも遥かによい結果を叩きだせるだろうと、期待の星でもあった。
はたして、彼女は期待を叶えた。
APEXIAとしてトップアイドルに限りなく近づいた。
同時に。
限界にも、近づいた。
「……うわ」
足首が青黒く変色している。
常の無表情を崩して、千絵は顔を顰めた。
あるいは、彼女がサボっていたのは、本能的に自身の限界を悟っていたからなのかもしれない。
最近のAPEXIAは異常だ。
異常なほど、出世街道を驀進している。
トップアイドルに至る者は常識で語れないことが多いが、平均を取ると、その地位に達するまで六年から八年程度が平均になるだろう。
しかし、彼女らは、活動を始めてから半年足らずで、トップアイドルと呼ばれるようになった。
凄い、とか。
天才、とか。
そんな言葉で貶めていい結果ではない。
APEXIAの並外れた躍進は、ひとえに霜月絢華という特異点が居たことによる、副次的なものであろう。
仮に小和瀬麻美が居なくとも、出射千絵が居なくとも、霜月絢華ただ一人さえ居れば、彼女はトップアイドルになれた。
暴論を言ってしまえば、独りだけでもいいのだ。
むしろ他の人間は邪魔者でしかない。
荷物を抱えた状態で、絢華はここまで辿り着いた。
もちろん周囲もそれを分かっている。
分かっているから、千絵たちのことを「お荷物」と呼んで、噂して、嫉妬した。
「……私も、終わりかな」
線香花火を暴風の中に放り込んでしまった。
本来ならば、身体で風除けをして、細く長く燃やすべきだったそれを。
霜月絢華という竜巻の傍で燃やして。
燃え尽きて、しまった。
お荷物と囁かれて、黙って足手まといの立場に甘んじるわけもなく、千絵たちは以前よりもいっそう努力して、血を吐いて、無駄なものを切り詰めて、なりふり構わず、遥か先を行く絢華に追いつこうとした。
しかし、それも終わりだ。
エンジンが焼き付いた。
タイヤは動く気配を見せない。
風船が割れたように。
やる気というものが、決定的に、消え去った。
◇
小和瀬麻美はおずおずと告げた。
出射千絵が、APEXIAを辞めるということを。
智美の時とは違い、退学こそしていないようだが、直接顔を出してこないということは、もう会いたくないと言っているに等しいだろう。
「そっか」
霜月絢華は笑った。
微笑んで、眉を下げる。
子供がおいたしたのを目撃したような。
些事に困る表情だった。
「ねえ、麻美。やっぱり私が悪いのかな」
「……絢華は──」
「こう何度も続くと、そうなんだろうね。私には言わずに、そっと、麻美にだけ教えてさよならだもんね。私に原因があるんだろうね」
絢華の手が震えていた。
しかし本人は気付いていない。
もしくは、気付いていて放置しているのか。
「私はアイドルに向いてなかったのかな」
「そんなこと、ないよ」
「でもメンバーがどんどん抜けていく。きっとリーダーの私のせい。結果は残してるから、人格的な問題かな。あは、自覚ないや。それが駄目なんだろうね。ねえ麻美、私のどこが悪いのか教えてよ」
縋りつくように、絢華は麻美の肩を掴む。
ぎりぎり。
爪が繊維を捻じ切って軋む音。
麻美は、痛みに顔を歪め、口を開いた。
「絢華」
「…………」
「絢華」
「…………」
「絢華っ!」
びくり、と。
絢華は視線を上げた。
「ごめんね」
私たちが、貴女に付いていけないから。
貴女を独りにしたくないのに。
ごめんね。
本当に、ごめんね……。
謝罪の意味は、ついぞ分からなかった。
◇
天井のタイルの数を数えた。
数えるたびに数が変わった。
安楽椅子がぎこぎこと鳴る。
血管に凍らせた鉄が流れている。
私はバルコニーに出た。
三日月が夜空に浮かんでいた。
他の星はなかった。
月の明かりにすべてが塗りつぶされていた。
雲はない。
冷えた空気が肌を冷やす。
三日月の黒いところ。
あれはなんだろう。
黒い星だ。
月の上に黒い星が重なっている。
どこからか鐘の音が聞こえてきた。
鈍い音だ。
寺のそれではない。
定期的に響く。
「あ」
私は気が付いた。
それは鐘の音ではなかった。
自分のうちから聞こえていた。
心臓の音だった。
死んだ心臓が生き足掻く音だった。
鼓膜を内側から叩く。
舌の上には砂の味がした。
最近は泣くこともなくなった。
塩の結晶となって心のいずこかに消えた。
鮮明に輝いていた思い出が薄くなる。
鮮烈に光っていた憧れが色褪せる。
アイドルってなんだっけ。
私が目指していたものだっけ。
今の私ってなんだろう。
トップアイドルとか呼ばれている。
じゃあ今のが目指した姿なのか。
こんなのが目指したものなのか。
こんなものがお母さんに。
誰かが私を見ている気がした。
遠くの空から。
目を細めて笑っている気がした。
「さむい」
私は部屋に戻ることにした。




