霜月正樹
──お父さん、○月○日にどこどこライブ会場に来てください。来なかったら家出します。絶対に来てくださいね。
霜月正樹はそう書かれた手紙を見下ろして、ため息をついた。
娘はまた何かやっているのか。
ある種の諦めが漂う表情だった。
最近は仕事も忙しいし、無視をするのは簡単であるが、絢華は強情な子だ、家出をすると表明した以上、確実に家出するだろう。
間違いない。
確信があった。
理想的な、とは言えないけれど、正樹は一端の親である。
娘が家出するかもしれない──というかする未来があって、みすみす見過ごせるはずもなかった。
彼は絢華の指示どおり、都内某所のライブ会場に足を運んだ。
そのライブ会場はあまり大きな箱ではない。
地下に造る都合上、広さを確保できないライブハウスほどではないが、何百人何千人と客を入れようものなら、すし詰め状態となること必至。
それくらいのライブ会場である。
薄暗闇の客席に腰を下ろし、正樹はどうしたものかと腕を組んだ。
アイドル。
男女問わず一度はその道に憧れるものだが、次第に夢は薄くなり、いずれ諦めるのが通過儀礼とも言える。
しかし娘はあの霜月ゆい──夜凪ゆいの血を継いでいるのだ。
利発的で、機微を察する器量のよさもあるし、何より親の欲目で、絢華にはアイドルの才能があるように思われた。
正樹が東京都第二アイドル育成高校への進学を許せば、たちまちトップアイドルの道を駆けあがっていくだろう。
もはや約束された未来である。
けれど。
やはり心配なものがあった。
「親馬鹿ですね」
「なかなか言うな」
「ええ。傍目から見れば誰でもそう思いますとも」
傍らに座っていた老紳士が笑う。
執事服を纏った彼は、主人であるはずの正樹に対してですら、さほど取り繕った口調を用いない。
正樹もまたその態度を許していた。
幼い頃からの付き合いなのだ、許さないはずがない。
「お嬢様は大丈夫ですよ」
「だが……」
「正樹様は難しく考えすぎなのです。ゆい様も、アイドルをして病気になったのを、決して後悔しておりませんよ」
むしろ正樹様の心配は、ゆい様への侮辱に当たるでしょう。
老紳士は泰然として言った。
「そうか──」
正樹は天井を見上げる。
会場内は前述のとおり暗闇だ。
たとえ天井を見上げようが、特段視界の変化があるわけではないのだが、彼はそうしたかった。
そうして、しばらく沈黙が流れた。
正樹は何も言わない。
老紳士も何も言わない。
ただ、ゆったりと、静かな時間が過ぎた。
◇
パッ、と。
ステージに一本のスポットライトが向けられる。
中央に立つのはもちろん霜月絢華だ。
覚悟の漲る表情でマイクを握り、観客の姿も見えないだろうに、正確に正樹たちへ眼差しを送り、吼えた。
『お父さんッ』
私はお父さんの無理解が許せない。
私とお母さんを一緒にしないで。
お父さんが私を心配してるのは知ってる。
でも私は大丈夫。
私は立派なアイドルになれるから。
あまりの声量に音割れをしながらも、絢華は渾身の想いを吐露し、観客席で息を呑む正樹を睨みつけた。
その姿すら美しい。
絶大なる、才能。
あるいは夜凪ゆいも三ヶ嶋綾乃すら凌ぐ。
──音楽が流れはじめた。
正樹はそれを聞いたことがあった。
忘れられるはずもない。
妻の所属していたアイドルユニット、APEXIAのデビュー曲である。
『────!』
ステージには一人。
独りで絢華が踊っている。
複数人で歌うことを想定されている曲なのだから、一人ですべてのパートを担当しようとすると、およそ人間には不可能な、息継ぎのできない歌唱になる。
加えてダンスだ。
息継ぎのできない状態で歌を歌い、馬鹿にならない運動量のダンスを踊り、それでもなおアイドルらしく、つらく苦しい表情は見せず、ひたすら楽しそうに、ステージを広く飛び回っていた。
「ああ……」
正樹は感慨深そうに瞼を閉じる。
鼓膜を叩くのは、絢華の歌声。
──それに重なるように、ゆいの面影が蘇った。
天才の子供が必ず天才だと言うつもりはないが、少なくとも霜月絢華は、霜月ゆいの鮮烈な才能を受け継いで、アイドルに高い適性を持っているようだった。
ゆいのライブ映像を見たのか、あるいはユニットメンバーから直接教育を受けたのが影響しているのか、絢華のパフォーマンスは、まるで彼女の母親が憑依しているようで、正樹の心の深いところを打つ。
「正樹様」
「ああ、分かってる」
もはや彼に否定の二文字はなかった。
絢華の迫真の表情から判る。
どれだけ血の滲む努力を積んできたか。
どれだけアイドルに懸ける気持ちが強いのか。
如何な頑固な親だろうが、あそこまで懸命に頑張ってきた娘の努力を無碍にできる者などそうは居まい。
仮に居たとしたら、そいつは頑固でも親でもなく、ただただ自分の都合で子供を支配したいと願う、歪み曲がった異常者だ。
正樹はそうではなかった。
そうではなかったからこそ、霜月絢華はアイドルになり、結果として、ああいう未来に至ってしまったのだから。
三人だけの観客が見守るステージにて、暗闇に落ちる観客席のことすらも今は忘れて、自分のパフォーマンス次第でアイドル活動が許されるかどうかの瀬戸際に居ることも忘れて、絢華は、ひたすらに〝アイドル〟に熱中していた。




