夜凪ゆい
霜月家に子供が産まれた。
女の子で、絢華と名付けられた。
絢華は賢い子供だった。
よく学び、よく遊び、よく笑う子供だった。
少しばかり腕白な行動も目立ったが、全体的に見て手のかからない子供だった。
絢華の母親──霜月ゆいは病弱だった。
出産の時、身体に大きな負荷がかかり、それ以来、病院で過ごすことが多かった。
ベッドに横たわりながら、窓の外で遊ぶ小鳥を眺めたり、静かに本を読んでいる姿が印象的だった。
絢華はそんな母が大好きだった。
ゆいも娘が大好きで、頭を撫でるとくしゃりと笑う絢華の顔が好きだった。
ある冬のことである。
ゆいが危篤に陥った。
絢華はすぐに駆け付けた。
「おか、おかあさん……!」
大きな目に零れそうな涙を湛え、枯れ木のように弱り細った母親の手を取る。
いつも笑顔に満ちた絢華の顔面蒼白な様子は、太陽が西から昇ってきたような、ちぐはぐな違和感を伴った。
ゆいの顔もまた顔面蒼白だった。
血の気が引き、呼吸は荒い。
遠くから見れば死体と見分けがつかなかっただろう。
「絢華……」
「し、しんじゃやだ!」
「死なないわよ……滅多なこと言うもんじゃありません……」
彼女は絢華の頭に掌を乗せる。
「だ、だいじょうぶなんだよね?」
縋りつくように腕を抱きながら、絢華は鼻声で問うた。
もちろん大丈夫──そう答えようとしたゆいは。
咳と一緒に血を吐いた。
黒かった。
「おかあさん!?」
「ふふ、大丈夫よ……」
「だいじょうぶなわけないじゃん!! ちぃはいて、だいじょうぶなわけないじゃん!!」
「私は強いんだから。このくらい、屁でもないわ……」
ベッドの傍らには絢華だけでなく、父と医者も居た。
彼らは一様に硬い表情をしている。
まるで〝先は長くない〟とでも言うように。
絢華は敏い子供だ。
病室のそうした空気を敏感に感じ取っていた。
だからこそ泣いた。
泣いて、ゆいに縋りついた。
「ねえ、絢華」
「しゃべらないでよ! ちが!!」
「お父さんは貴女にいろいろ習い事をさせてるけど、貴女は一度も休んだことがないわね。嫌がってはいるけれど」
どうしてこんなときに。
絢華は焦燥に苛まれる。
「わかった! おかあさんがげんきになったら、ならいごともいやがらずにちゃんといくから!!」
「違うの。逆よ」
「ぎゃく……?」
「絢華はまだ小さいんだから、もっと我儘を言っていいの。言ってほしいの。お父さんなんか嫌い、って反骨心を剥き出しにしていいのよ」
父は微妙な顔だった。
しかし、横やりは入れない。
何かを覚悟するように黙りこくっていた。
「私がこんな身体だからかしら。背伸びして、子供らしい振る舞いもしないで、私たちが喜ぶようなことばっかり」
「ち、ちがうよ! だってかけっことかしたり──」
「私たちが喜ぶようなこと、って言ったでしょう。貴女がかけっこするのは決まってこの病室の下。私が見える場所でだけ」
絢華はぎくりとした。
あるいは、隠し通していたつもりなのかもしれない。
途端に目を逸らしはじめる彼女に、母は苦笑する。
「私たちを気遣ってくれるのは嬉しいわ。最高の孝行娘よ。でもね、もし私の存在が絢華を縛り付けているのなら、それは嫌なの」
彼女は娘と目を合わせた。
穏やかな眼差しだった。
凪いだ海のような、包容力のある。
「だからね、絢華。私から一つお願いがあるの」
「おね、がい……?」
「ええ」
ゆいはにっこりと笑う。
「我儘を言って。自分の好きなことをして。他人の目なんて気にしないで。私たちに迷惑をかけて。……今の貴女はまるでお人形。私はもう長くないかもしれないけれど、絢華には幸せになってほしいの」
だから、とびっきり幸せになってね。
ゆいは笑った。
それっきりだった。
もう笑うことはなかった。
息をすることも、暖かな掌で絢華を撫でてくれることもなかった。
雪の降る、凪いだ夜のことだった。
絢華は一晩中泣きつづけた。
◇
中学生になり、霜月絢華は東京都第二アイドル育成高校に進学しようとしていた。
家から一番近いのと、定期的にトップアイドルを輩出する実績と、加えてもう一つが理由である。
「なんで許してくれないのっ!」
「霜月家の人間にアイドルが相応しいわけないだろう」
絢華は感情の赴くままに机を叩いた。
あんまりに強く叩いたものだから、掌が真っ赤に染まる。
ふーふーと息を吹きつけながら、彼女は父親を睨みつけた。
輝かしいアイドルたちが世間を賑わせて久しいが、いまだに頭の固い人間は一定数存在している。
特に上流階級の住人に顕著な傾向だ。
絢華の父親──霜月正樹などは、『頑固』と辞書で引いたら一番最初に例に出てくるような人間であるため、当然、娘にアイドル活動を許すはずもなかった。
「お母さんの遺言を忘れたの!? それとも人の心がないの!?」
「アイドル以外の我儘だったらいくらでも聞いてやる……だから、アイドルは諦めなさい」
「やだやだやだやだっ!!」
しかし、正樹が強情に否定し続けるのには訳があった。
ゆいの死因である。
霜月ゆい──当時は夜凪ゆい──は東京都第二アイドル育成高校に通っていて、病弱な身体でありながらもトップアイドルに上り詰めた。
無理が祟って早期に引退することにはなったが。
ゆいは満足していた。
後悔などなかった。
後悔しているのは正樹である。
トップアイドルの縁で出会った二人だが、アイドルさえしていなければ、もっと長く生きられたのではないか。
彼はそんな悔恨に苛まれている。
ゆいが通っていた東京都第二アイドル育成高校に進学する?
娘も同じ末路を辿ってしまうのではないか。
正樹の胸中は絢華を想う気持ちで溢れていた。
「お父さんの分からず屋!」
もう一度机を叩いて、絢華は踵を返す。
勢いよく閉められる扉。
反転、静寂に沈む部屋。
「…………」
「ずいぶんと楽しげではないですか」
「楽しげ? 僕がかい?」
傍らに控えていた、豊かな髭をたたえた老人が笑う。
齢幾つか知れぬ風貌だが、背筋は鉄棒が貫いているかのように真っすぐである。
しっかりとした体躯を執事服に包み、如何にもな見た目。
幼い頃からの付き合いである執事の指摘に、正樹は首を傾げた。
「ゆい様とそっくりな言動です」
「……まあ、確かに。血かな」
「あの強情さは正樹様譲りだと思われますが」
「ええ? 僕ってそんな強情かい」
「意地っ張りと言い換えてもいいかもしれません」
はははは。
執事は快活に笑う。
「…………」
正樹は何かを考えるように黙り込んでいた。




