燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや
会場にはおかしな緊張感が漂っていた。
参加者が顔を強張らせるのは至極当然ことであるが、それだけでなく、審査員席の五人もどこか落ち着かない。
他の審査員と目くばせしながら、手元の資料をしきりに確認する。
「来た……」
誰の呟きだったのだろうか。
会場の扉から、漆黒の貫頭衣に身を包んだ天喰伽藍が現れた。
眼帯によって遮られた瞳とは逆、抜身のナイフと見紛う鋭い視線に、誰もが沈黙を強要される。
この会場で行なわれるのは第一回戦だ。
間違いない。間違いない。
間違っているのは、去年の覇者である伽藍が、とても緒戦だと思えない雰囲気を纏っていること。
導火線の焼け切った爆弾のように、いつ爆発するか、何をしたら爆発するのか判らない恐ろしさ。
周囲は皆揃って呼吸を浅くした。
そんなことは露知らず、あるいは理解していて無視しているのか、腹の据わった伽藍はパイプ椅子に腰を下ろす。
暇潰しにスマホを弄ることもなく、ただ目を瞑る。
沈黙が沈黙を呼び、会場はまるで空気がなくなってしまったかのように、苦痛を覚えるほどの静寂に包まれた。
◇
「なにこれ……」
私たちが会場に入ると、異世界にでも迷い込んでしまったのか、コールタールのように空気が粘ついて肌に纏わりついてきた。
身体がここに居ることを拒否している。本能的な恐怖。
第一回戦は五つのチームがそれぞれライブをし、審査員が採点をして、総合点の高かった上位一チームが次の戦場に駒を進める仕様上、この会場に居るチームは全員ピリピリした敵意を向け合っているはずだった。
しかし、むしろ正反対に、彼女らは抱き合って肩を震わせている。
理不尽に襲われる市民のように、双眸に涙を浮かべて。
重たい空気の中心に座っているのはやはり天喰伽藍さんで、彼女が組んだ足を入れ替えたりするたびに、みんなの意識が集まった。
「ブラックホール……?」
「皇帝様って感じね……」
なんとなく普段どおりの声量で呟くのが憚られて、私と実千は周囲に漏れないよう小さく囁き合う。
にもかかわらず、伽藍さんは瞼を開いて、こちらに眼差しを向けてきた。
底のない深い闇のような双眸。
まるで絢華さんを彷彿とさせる、限りなく退屈げな。
「貴様らの実力、見せてもらおうか」
ゆったりと立ち上がる伽藍さん。
壁に掛けられた時計は初戦の開始を宣告していた。
いつの間に。
あまりの緊張感が時間感覚を圧縮していたらしい。
彼女の声で審査員も理性を取り戻したのか、慌てて立ち居振る舞いを正すと、参加グループの名前を呼びだしはじめる。
伽藍さんは無言でステージに上がった。
もしや、あの格好のままライブをするつもりだろうか。
確かに普段着ではなさそう──あるいは日常からああいう格好をしているのかもしれないけど──だが、アイドルに相応しい服装かというと、少し疑問が残る。
それに彼女はたった独りだ。
最大十人程度が縦横無尽に動けるステージに、たった独り。
大海原にぽつんと浮かぶヨットのような、空間に溶けてしまいそうな淋しさ。
とても人を夢中にさせる「アイドル」ができそうな雰囲気ではない。
でも──。
◇
会場が暗転した。
雨森紗英たちはおとなしく席に座り、陰影に翳るステージを眺める。
次第に空気が震えはじめ、やがて、それがバイオリンの音だということに気が付いた。
『────』
静かな入り。
アイドルの曲にしては珍しい、静謐を主とする曲だった。
『────』
スポットライトに照らされた天喰伽藍は、夜に紛れる黒の貫頭衣も相まって、顔と手だけが宙に浮いている。
表情は無。ひたすらに無。
無色透明な声色と、一切の色のない面差し。
ぜんまい仕掛けの機械が踊っているのではないだろうか。
紗英はふと、そんな錯覚に陥った。
『────ぁ』
黒に染め上げられた繭に籠って、安寧とした静寂に身を包む。
伽藍のパフォーマンスは沈黙に終始していた。
それが嵐の前の静けさだと観客が思い知ったのは、僅かなさざ波が起きてからだった。
『────!』
反転。
光の渦。
爆ぜるようなドラム。
大雨のごとく響くピアノ。
一瞬にして光の支配するところとなったステージは、先程の閑寂との落差が大きい分、観客の意識を白く染め上げた。
さっきまでは闇が主役だった。
今は伽藍が主役である。
主役の一挙手一投足から目が離せない。
視線が奪われる。意識が飲み込まれる。
これが優勝者のライブ──。
紗英は息を呑んだ。
はたして勝てるのだろうか、と当然の疑問すら湧いて。
そうして、音が止まった。
曲が終わったのだ。
たった独りでステージに立っていたとは思えない、綺羅星のような存在感。
「…………」
普通の大会ではパフォーマンスが終わってもペンが紙を滑る音しかしないが、伽藍の圧巻の演技はそんな常識を破壊して、他のアイドルだけでなく審査員にすら拍手をさせるほどだった。
万雷の拍手が伽藍を包み込む。
完璧なパフォーマンス。
満点のライブ。
しかし、会場の一番後ろ、壁にもたれ掛かっていた霜月絢華だけは、ずいぶんと退屈そうな表情をしていた。
──懐かしいものを見たわね。
と囁きながら。




