糸目系強キャラアイドル(推定)
狂気とも思える十キロランニングを踏破したのは、ホテルを出発してから五十分後のことだった。
私たちはライブ会場前のベンチに座り込んで、今にも風に消えそうな綿毛のように息を整える。
「はぁ、はぁ……」
「もう無理……」
「人は何故生まれるのか……」
「どうしてわたくしはこんなに頑張っているのに、カロリーは応えてくれないんですの……」
すべての女の子が頷いてくれそうな発言を映莉子が漏らす。
向こうのベンチでは、休憩とばかりにASTRA//CODEの二人がアイスを食べていた。
いや何をしてるの???
「か、花凛?」
「何」
「その手に持っているのは……」
「アイス」
「私の見間違いじゃなかったんだ」
もちろん種類によるけれど、アイスは大体三百キロカロリーくらいの熱量を持っている。つまり三十分のランニングに相当するのだ。運動の合間に甘味を食すなど、ダイエットに喧嘩を売っているようなものである。
「なんで食べてるの?」
「疲れた。頑張った私へのご褒美」
「ランニングの成果が半分くらいになったよ」
花凛は目を逸らして、
「気づいてない振りをすればカロリーは吸収されない」
「無理があるって」
「無理は押し通してこそ。アイドルは奇跡を起こす存在。なればカロリーの一つや二つ、無視することもできよう」
「無視してるのは現実でしょ……」
心なしかアイスを舐める速度が低下した。たぶんひと舐めごとに葛藤が彼女を襲っているのだろう。
事前に熱量を調べてしまうと、思う存分味を楽しめなくなってしまうのだ。私も経験がある。
しかし花凛の隣では、結愛が気にせずアイスを頬張っていた。
見せつけるように腹筋を指差しながら。
「私は完璧な体型を維持してるからな。余分にスイーツを食べたところで、太る太らないの次元に居ねぇんだ」
「ぐぬぬ」
「悔しいか花凛。なら筋トレをして基礎代謝を増やすんだな」
「体重が増える」
「その体重ってのは見た目に優先されるものなのか? ただの数値なのに?」
なかなか深いことを言いよる。
私は乙女の哲学に感嘆し、なら自分も食べちゃっていいかと、悪魔の囁きもとい誘惑に負けそうになった。
「後先考えずに行動するのは推奨しないわよ」
そこに絢華さんが声をかけてきた。
彼女も同じく十キロメートルを走破したはずなのに、息切れ一つ見せず、いつも通りのポーカーフェイス。
どうも人数分の水を買ってきてくれたようで、「ありがとうございます」と感謝を伝えつつ受け取る。
「絢華さんはダイエットとか、したことあります?」
「……当たり前じゃない」
「本当ですか? 絢華さんは体型管理完璧なものとばかり」
あの霜月絢華さんでも太ることがあるのであれば、完璧超人でない私が体重のコントロール権を失うのも無理はないか。
なんて自分の失敗を正当化していると、
「じゃあこのライブ会場まで来た理由を説明するわ」
息を整え終えたらしき実千が口を開いた。
彼女は五万人くらいは収容できそうな大きさのドームを指差し、不敵に笑う。
「ここは沖縄最大の箱よ」
「それは知ってるけど……」
「そして今日、東京都第二アイドル育成高校のOG──プロの最前線で活躍している先輩が、ライブを開催する」
「!」
「分かったようね」
私は息を呑んだ。思い出したのだ。先生に沖縄行きのチケットを渡された時、今回の合宿は間違いなく君たちのやる気を引き上げるものになるだろう、と言われたのを。
「つまり……その先輩のライブを観るため、私たちは遠路はるばる十キロの長旅をしたわけだね」
「ええ」
得意そうに首肯する実千。
しかし私には一つの疑問があった。
あまりに大きくて、無視するには存在感の強すぎる疑問が。
「でもさ、もしかして実千……この格好で会場へ行くつもり? 結構汗もかいたしさ、ちょっと恥ずかしいんだけど」
「あ」
「気づいてなかったの……?」
「べ、べべべべべべ別にそんなわけないじゃない」
確実に汗のことなど考えていなかったのだろう、普段は冷静沈着なのに、実千はあたふた強がりを始めた。
いつもの彼女は私なんて比較できないほど頭が回るから、おそらくこの沖縄合宿が頭をふわふわさせてしまったのだろう。
「さすがに運動後に人が多く居る場所に行くのはねぇ」
「わたくし恥ずかしいですわ」
「乙女の尊厳」
「汗拭きシート使えばよくねぇか? みんな持ってるだろ」
「そういうことじゃない、結愛。気持ちの問題もあるし、汗拭きシート程度では完全に匂いを落とすことはできない」
窘めるように花凛が指を一本立てた。
「まさか花凛がいっぱしの乙女みたいなこと言うとはなぁ」
「私は正真正銘、何処に出しても恥ずかしくない乙女」
えっへん、と胸を張る。
以前の彼女は無表情が目立ったが、最近はかなり情動が表出するようになった。
それがいい変化なのか悪い変化なのかは判らないけれど、少なくとも私は、付き合いやすくなったので好ましく思っている。
「シャワーを浴びる程度でよければ当てがあるわよ」
その時、絢華さんが髪を払った。
風に紛れて石鹸のような香りが漂ってきて……石鹸?
曲がりなりにも絢華さんもランニングをしたのだから、多寡の差はあれど、そんなお風呂上がりの乙女みたいな空気を纏っているはずが。
「そこで親切な人に会ってね。シャワーブースを貸してもらったの」
「ええ!?」
思わず私は驚愕と──嫉妬の籠った声を上げてしまう。
どおりでランニングが終わってしばらく姿を見なかったはずだ。
まさか私たちを差し置いて、一人だけ汗を流したなんて!
「酷いですよ絢華さん! その時に連れていってくださいよ!」
「ベンチに倒れ込んでいたから、てっきり動く体力すらないのかと」
「さっぱりできるなら尽きた体力くらい回復しますよ」
「そういうものなのかしら」
「そういうものなんです。乙女ですから」
乙女って便利なものね、と絢華さんは不思議そうに唸った。
◇
あかん死んでまう!!!
俺は自動販売機に手をつきながら絶望していた。
肺は酸素を求めるように喘ぎ、口腔は空気に乾き、舌は何処が由来のものかも判らぬ血の味を感じている。
要するに体力限界滅茶苦茶つらーい、という状態なのだが、霜月絢華の毅然としたプライドが、他人に自分の弱いところを見せようとしない。
十キロのランニングは体力自慢のこの身体すらも凌駕したようだ。
自動販売機で水を買い、一息で以て飲み干す。
胃袋が貪欲に水分を取り込みはじめ、乾いていた額に、じわりと汗が湧いた。
「ふぅ……」
近くにあったベンチに腰を下ろし木陰に涼む。
ぱたぱた手で扇ぐと、沖縄の生暖かい風が頬を撫でた。
確かにこれはこれで興があるのだけれど、体力も枯渇して体温も上昇している状態だと、病的な涼しさ──つまりエアコンをがんがんに利かせた部屋で、肩を震わせる体験をしたいものだ。
そう思ってため息をつくと、突如として、首筋に冷ややかな風が吹きつけた。
「驚かないんだねぇ」
「そうね。気配は感じていたもの」
振り返ると、そこには狐のように目の細い女が立っていた。
彼女の手にはハンディファンが握られており、もう片方の手には袋に収まった氷がある。先程の冷風の原因だろう。
「隣、座っても?」
「どうぞ」
どうせ断っても無理やり座ってきたんだろうな。
そう確信できるくらいの速度で、彼女は隣に腰掛けた。
「どうも、志波紗耶香言います」
「私は──」
「霜月絢華、でしょ?」
どうだ驚いたか、と言わんばかりに首を傾げる紗耶香。
俺は過去の記憶を探って、
「何処かで会ったことがあったかしら」
「いいえ。ありませんとも。私と貴女は今ここで、初めて出会った」
「そう、ならよかったわ」
顔見知りなのに名前を忘れてるなんて失礼極まれりだからな。転生の影響で記憶が混濁している可能性もあるから、それだけが心配だった。
……しかしそうなると気になるのが、どうして紗耶香は俺のことを知っているのだろうか、ということだ。
ネットで活動してはいるものの、ツキシモと名乗っているし、顔写真なんて以ての外である。
俺の個人情報が流出するはずないのだけれど。
「以前、コンサートで見かけたことがあってね。私は観客で貴女は演者。一方通行の認識だから私のことを知らないのは当然だよ」
「ああ……」
霜月絢華はとんでもないお嬢様である。
そしてお嬢様には往々にしてあるように、クラシックだとかバレエだとか、とにかく世間一般で高尚とされる趣味を習わされていたのだ。
無論この身体は才能の塊だから、少し齧っただけのバイオリンですら、ひとかどの実力を発揮した。してしまった。
両親──特に父親のほうは霜月絢華を所有物か何かと勘違いしているらしく、好事家にありがちなように、自分の娘の才覚、ひいては自分の恵まれようを喧伝するため、霜月絢華をクラシックのコンサートに捻じ込んだ。
たぶん紗耶香はその時の観客なのだろう。
であれば俺が彼女を知らず、彼女が俺を知る状況に納得がいく。
「まさか東京から遠く離れた沖縄で遭うなんて」
「ええ。それにその格好……」
「分かる?」
紗耶香は何処か自慢げに衣装を摘まみ上げた。
これぞアイドル、という感じのキラキラとした裁縫。
場所が場所なら問答無用で通報される服装だ。
「そこのドームでね、ライブをするの」
「……だから実千はここを目的地にしたのか」
「絢華?」
「気にしないで。独り言よ」
ぼそっと囁いた声に首を傾げた紗耶香に、気にするなと掌を向ける。
「それで、私に話しかけた理由は終わり?」
「……うーん」
彼女は糸目をほんの僅か開いた。
糸目は強キャラという言説があるが、確かに、普段は封印されている瞳が露出すると、なかなか恐ろしいものがある。
「せっかくの奇遇だし、お茶くらいはしたいんだけど……もうすぐリハーサルが始まるし、喫茶店を探してる時間はないね」
心底残念だ、といった様子でため息をつく紗耶香。
火照った頬に氷の入った袋を当てて、しばらく黙り込む。
「──あ、そうだ!」
瞬間、何か思いついたのか立ち上がり、こちらに指を向けてきた。
おもちゃを突きつけられた猫のように彼女の指をぐにぐに掴んでみると、私で遊ばんといて、と引き抜かれる。
「ちょっと控室に来ない? 案内するよ私。紹介したい人も居るし」
「そうね……」
六人を放置するのは心苦しい。
しかし、彼女らは当分復活しないだろうし、十数分くらいは席を外しても問題ないかもしれない。
加えて先述のとおり、今の俺は病的な冷房に飢えている。
となれば、答えは一つしかなかった。
「少しお邪魔するわ」




