うみうみうみうみ(鳴き声)
部屋に入って正面の窓からは一面の海が臨めた。
白いレースのカーテンに切り取られた紺碧のそれが、ところどころに船を浮かべて、泡立った波を浜に打ち寄せたり引いたりする。
窓を閉め切っているのだから、匂いや音は知覚できないはずなのだが、不思議と耳元で空気が震えるように、さざ波が聞こえる気がした。
「ふぅ……」
さすがに東京から沖縄に移動するのは堪えた。
自覚のない疲労を漏らし、俺はふかふかの椅子に腰を沈める。
「あー……」
温泉に浸かったおっさんのような声を上げて、本が一冊入るくらいのバッグを机に置き、瞼に掌を置いた。
油断するとこのまま眠ってしまいそうだ。
「──んあ」
天井を見上げて。
ふと時計を見ると。
一時間が経っていた。
「マジかよ」
眠ってしまいそうだ、どころではなく普通に眠ってしまっていたらしい。
せっかく沖縄に来たのに惰眠で過ごすなど勿体ないにも程がある。
俺は慌てて椅子から立ち上がり、ぱぱぱっと近くの観光地を検索して、いざ遊びに行かんと部屋を出ようとすると。
こんこんこん、と扉がノックされた。
「絢華さん」
「何かあったの?」
「あ、はい。ちょっと」
開けてみると紗英が困ったように首を傾げていた。
背後には他五人が勢揃いしており、それなりの幅員がある廊下を封鎖して、道路交通法違反スレスレである。
「海に行きませんか?」
「海……?」
「ほら、このホテルの前は砂浜じゃないですか。丁度いいですから、みんなで遊ぼうって話になって」
彼女らは背中に隠していたが、どうやら水着を持っているようだ。ワクテカとした表情が眩しい。学生らしく遊びに奔放な精神。
無論、俺も退屈していたところだから、遊びの誘いに否やはない。
ないのだが……。
「私、水着持ってきてないわよ」
「え!?」
「沖縄に来たのにですか!?」
「そもそも『持ってくる』以前に『持ってない』の。所有していないってことね」
霜月絢華は異常に物欲が少ないのか、あるいはなんらかの事情があってミニマリストに目覚めたのか定かでないが、とにかく所持している物が尋常でなく少ないのだ。
当然水着なんてお洒落なアイテムがあるはずもなく、俺は海を臨むホテルに泊まっていながら、海には入れないというもどかしさを味わうことになったのである。
「じゃ、じゃあフロントで買いましょうよ」
「そうですよ。一階にたくさん売ってましたよ」
「……そうね。それもいいかもしれないわ」
この流れで自分だけ行かないのも空気が悪くなるだろうし。
実は海水浴をしたことがないから、結構楽しみだぜ。
◇
日焼けをしないためにUVカットクリームを塗り、漂流物の一切ない綺麗な砂浜に素足で駆けこむ。
指先で砂を掬えばさらさらと落ち、爪先を突っ込むと、まるで何百本もの細かな羽根に撫でられているような、我慢しなければ声が出てしまう、気持ちのいいこそばゆさに襲われた。
ホテル正面の海は浮きで区切られており、巨大なバルーン製のアスレチックが鎮座している。
家族連れが楽しげな声で叫び、カップルが波打ち際で水をかけ合い、老夫婦がビーチパラソルの下で談笑する。
如何にもな光景に、私は思わず歓声を上げてしまった。
「すごーい!」
「あっ紗英待ちなさい! まずは準備運動しないと危ないわよ!」
海に飛び込もうとした直前、焦りなのか忠告なのか、おそらく両方が混ざり合っているのだろう状態の実千に腕を掴まれる。
「大丈夫だって子供じゃないんだから」
「子供でもしないことをアンタはしようとしてたのよ」
「溺れても実千が助けてくれるでしょ?」
「……私の負担大きすぎじゃない?」
アンタ最近体重増えたんだから、水の抵抗がある海に沈んだら絶対に引っ張り上げられないわよ。
と彼女はなかなか失礼なことをのたまった。
けれども私は知っている。
実千もここ最近レッスンが休みだったことで、普段の食事制限の反動とばかりに食べまくり、体重計を親の仇のように睨みつけていることを。
反撃してやろうと口の端を歪め、戦いの火蓋を切ろうとした時。
向こうから黒髪をなびかせ、艶やかに双眸を細める絢華さんの姿が映った。
「……みんな元気ね。若さかしら」
波音を背にして首を傾げる彼女の、臍の上あたりでTシャツを縛り、陽を受けたお腹が眩しく露出する。
エクリュのショーパンから伸びる生足は陶磁器のように滑らかで、膝は汚れ一つない純白。足元はラバーのサンダルを突っかけ、薄っすらと黒のペディキュアが爪先を彩っていた。
視線を上げれば細いフレームのサングラスを装着しており、低めに纏められたポニーテールと、透け感のある赤いリップも相まって、いつもより大人らしい雰囲気に溢れている。
後れ毛が潮風に揺れるのを眺めながら、私たちは、簡単な感想すら言うことができずに、思わず黙り込んでしまった。
「……? 何か変かしら」
「いっ、いいいいいえ!?」
「抜群に似合ってますよ!!」
「ボク見惚れちゃいました!!」
「女神が降臨したって感じですわ!!」
「……綺麗」
「砂浜の視線を独占だな」
不思議そうに、というか訝しそうに目を細める絢華さん。
同性ですら言葉を失う美貌なのだから、当然ビーチに居る人々は彼女の虜になって、重力場のような存在感に巻き込まれていた。
これで歌も踊りも天才的なのだから、天は二物を与えずって云うのは真っ赤な嘘なのだろう。
私は知らず知らずのうちに嘆息した。
◇
ファッションとかよく分からんから適当に勘に従った服装で浜辺に出てみると、何故か六人は息を呑んで沈黙してしまった。
よっぽど何か変なのだろうかと質問してみても、「別になんでもないです」とか「完璧です……ずっとそのままで居てください」とか意味不明なことを抜かす。
壮大な嘘に巻き込まれているんじゃないかしら。
そう疑ってしまうのも無理ない反応だ。
加えて、やたらと周りから視線を受ける気もするし。
これが男だけならともかく、同性からも注目されているのだから、やっぱり何かおかしいんじゃないだろうか。
背中に張り紙とかされてる???
まあ紗英たちは「気のせいです」とか「気にせず遊びましょう」とかぎこちない笑みで言っているし、自意識過剰な俺の勘違いなのかもしれない。
霜月絢華は可愛いもんな。
そりゃ視線くらい集めちゃうか。一身に。
やれやれ……可愛いって罪だぜ。
海に入るため準備運動をすると、ふくらはぎを伸ばしているだけなのに、何故か周りからどよめきが上がる。背筋を伸ばせばそれは怒涛のごとく。
全身の筋肉をリラックスさせた頃には、すっかり疲れ切ってしまっていた。
なんなの?
なんで俺の一挙手一投足で騒めくの??
女癖の悪いハリウッドスターですらここまでガン見はされないぞ???
もう部屋に帰りてー……とか考えていると、苦笑を浮かべた紗英が、腕を引いて海に駆けだした。
「行きましょう絢華さん! 母なる海に浸かれば、大抵の悩みなんて吹っ飛びますよ!」
「これは悩みというか……まあいいわ。そうね、遊びましょうか」
俺もまた首を竦めて、おとなげなく波に素足を晒した。
◇
最初の一波は、思ったよりもずっと冷たかった。
「ひゃっ……!」
思わず声が漏れる。
足首、脛、膝と水位が上がるにつれ、じんわりとした冷感が身体を包み込んでいって、体温が海に溶けていくのを感じた。
沖縄の太陽に温められた空気との落差が心地いい。
「どうですか絢華さん、初沖縄の海は」
「……悪くないわね」
そう言いながらも、絢華さんは慎重だった。
波が来るたび、ほんの少しだけ身体を引く。
サンダルを脱いで手に持ち、素足で砂の感触を確かめるように、一歩ずつ前へ。
「なんとか嘘ついて、絢華さんを五人目のCRYSTAΛメンバーってことにできないかしら。絶対にウケると思うのよね」
「ボク動画回していい?」
「ダメですわ」
即答だった。
映莉子が無表情のまま、亜咲のスマホを押し下げる。
「ちぇー」
そんなやり取りを横目に、私は波打ち際でしゃがみ込み、指先で海水をすくった。
透明で、少しだけ泡立っていて、陽の光を反射してきらきらしている。
「……海って、もっと荒々しいものだと思ってたわ」
「イメージ?」
「ええ。テレビとか、小説とか」
指の隙間から零れ落ちる水を眺めながら、絢華さんはそう呟いた。
「実際は、案外……優しい感じなのね」
「場所と時間帯によりますけどね」
私も特段、海に詳しいわけではないけれど、彼女が不思議そうにしているものだから、格好つけて知ったかぶりをしてしまう。
──その瞬間だった。
「きゃあっ!?」
悲鳴と同時に、水しぶきが派手に上がる。
振り返ると、花凛が波に足を取られ、見事に尻もちをついていた。
「だ、大丈夫!?」
「へ、平気……ちょっと油断した……」
そう言いながらも、顔は真っ赤だ。
砂まみれになった掌を見て、実千が呆れたようにため息をつく。
「アンタ結構運動神経鈍いのね」
「……そんなことはない。油断しただけ」
「それを運動神経が鈍いと評すのよ」
「──よかろう。私の運動センスを証明する」
なんて息巻いて、二人は海の中で手押し相撲を始めてしまった。
亜咲と映莉子なんかは嘯いて囃し立てているし、姉御肌な結愛は面白げに眺めているだけ。
私もギャラリーに参加しようと一歩踏み出し、丁度強い波が打ち寄せ、足の裏が地面から浮いてしまう。
その様子を見て、絢華さんが一瞬だけ目を伏せ――。
次の瞬間、なんの前触れもなく、私の手首を掴んだ。
「……え?」
「転ぶと危ないわよ」
「え、あ、はい」
ぎゅ、と。
思ったよりもしっかりした力で引かれ、私は半歩、彼女の隣に寄せられる。
「こうしていれば、少なくとも一人で転びはしないでしょう」
「それは……確かに」
「貴女が足を取られたら、私も一緒に転んでしまうわね」
心なしか、指先が少しだけ熱い。
海水の冷たさとは別の、体温の感触。
「……絢華さん?」
「何かしら」
「こうやって何人を誑かしてきたんですか?」
「誑かす?」
問いかけると、彼女はサングラスの奥で視線を逸らした。
「そんなのしたことないわ」
「本当に?」
「本当に」
澄まし顔で即答する絢華さん。
でも私はまったく信用できなくて──今の言動を目撃したら、誰でもそうなるだろう──何度も何度も、念を押すように、質問した。
波が、また一つ寄せては返す。
七人分の足跡を、ゆっくりと消しながら。




