ひぇ~自己紹介怖いよ~
早朝の寒さを振り切って走る。
凍てつく風は肺を凍らせ、吐く息を白く染める。
私は額に滲む汗をタオルで拭い、上ってきた参道の階段を見下ろして、僅かな眠気をため息にして吐いた。
鼻腔には雨上がりのような、何処か湿っぽい匂いが充満していた。
「…………」
境内という神聖な空気のせいもあるのだろうか、地平線を超えて昇る朝日に目を細めると、どうしてか身体の不浄なものが溶けていく気がして、ランニングに強張った筋肉を伸ばし、大きく深呼吸する。
毎朝四時に起きてランニング。
長時間のダンスに耐えうる身体づくり。
画面に映る母親の姿を見て、幼心にアイドルを目指しはじめてから、一度も欠かしたことのないルーティーンだ。
「何やってるんだろう、私」
でも最近は自分の行動に疑問を抱いていた。
何かを目指して努力するのはいい。褒められこそすれ、誰も責めたりはしないだろう。
「……CRYSTAΛ」
忘れたくても忘れられない名前。
自分が一番の努力を積んでいるのは間違いない。間違いないからこそ、私は今まで誰に劣ることもなかった。
しかし数週間前、私は──ASTRA//CODEは、一番人気から陥落した。
認められない。
私たちは誰よりも努力している。
結愛の頑張りは私も知るところだし、それがぽっと出のアイドルなんぞに負けるわけがない。
けれど現実は残酷だ。結果は無情に突きつけられ、ASTRA//CODEは二番人気で幕を閉じた。一番人気はCRYSTAΛだった。
実力を決める要因が才能と努力と運の三つだとすると、偉大なアイドルである母を持つ私が才能に乏しいというのは、どうにも認めがたいことである。
努力量も半端なものでなく、ここ数年でアイドルを目指しはじめた新参者を下回ることもない。
よって負けた原因を書き下ろし曲と振り付けと断定し、考え足らずな挑発行為にも繋がった。無意識に。
「……どれだけ頑張っても、無駄なのかな」
普段は隠している弱音を漏らす。
肉親が偉大であるのは自信やモチベーションに繋がるが、時として大きな壁にもなる。
『花凛じゃ憧れの存在にはなれない』と誰かが囁く声が聞こえた。
その度に、挫けそうになる精神を自傷じみた研鑽で潰してきた。
「駄目だ、余計なこと考えちゃ」
沈みそうになる思考を払って、頬をはたき、ポケットから丸めた縄跳びを取り出す。
縄跳びはアイドルのトレーニングに非常に向いており、心肺機能の向上はもちろん、リズム感の醸成に役立つのだ。
だから私は毎日、最低三十分の縄跳びを日課にしていた。
「ふっ、ふっ、ふっ」
まずは普通に前飛び。
それから二重飛び。
交差跳び後ろ跳びはやぶさ──。
「痛っ」
ぽてんと縄が足に引っかかる。
ジャンプするのを止めて、呆然と地面を見下ろした。
「……怪我?」
何か重たい物を常に落とされているような、周期的な鈍い痛みが、足の甲を襲っている。
しゃがんで靴と靴下とを脱ぎ、素足を朝日に晒して、外傷がないか確認しても、特段の変化はなかった。
しかし気のせいではない。痛みはどんどん強くなっていく。
「…………」
私は朝のトレーニングを中止し、学校に遅刻の連絡を入れた。
結論から述べると痛みの原因は疲労骨折だった。
過剰な努力が祟り、中足骨に罅が入っていたそうだ。
医師から告げられたのは二ヶ月の安静。ランニングや縄跳びはもちろん、軽い運動でも控えてくれとのことだった。
「お前さ、頑張りすぎなんだよ」
昼休みになり喧騒に包まれる教室。
机をくっつけ正面でお弁当を食べていた結愛が、「花凛にはいい薬だろ」と肩を竦めた。
「頑張りすぎ?」
「そ。ASTRA//CODEだってもともと六人居たじゃん。誰も花凛に付いていけなくて、今では二人になったけど」
「みんな意識が低すぎる。真にアイドルになりたいなら、無駄な時間を努力に捧げるべき」
「それが行き過ぎなんだって。アイドルの卵ったって高校生だぜ? しかも花も恥じらう女子高生だ。少しは休んで遊ぶべきなの」
ぱくぱくとお弁当の唐揚げを摘まむ結愛。
彼女のお弁当箱の中身は茶色を基調とするもので、一方、私のものは栄養とカロリーだけを考慮して作られていた。
そういえば甘い物なんてしばらく食べていない。
「でも、もうすぐ定期考査」
「それは……まあ、仕方ないだろ」
結愛は気まずそうに視線を逸らす。
ここ東京都第二アイドル育成高校の定期考査は通常のそれとは違って、最重視されるのはアイドルとしての実力だ。
例えば歌唱力。例えばダンスの技術。いずれにせよ私にとって得意な戦場であり、ASTRA//CODEが一位から陥落したことはなかった。
でも、私が疲労骨折で考査を受けられないとあらば、それは頂点から脱落することを意味する。
「ASTRA//CODEは一番じゃなきゃ駄目」
「一番じゃなきゃ、って……聞き飽きたよ」
「疲労骨折なんて骨折にカウントしない。だから私は激しく踊っても問題ない」
「問題はあるだろ。大ありだ」
はあ、と結愛はため息をついた。
半眼をこちらに向け鼻を鳴らす。
「なあ。前から訊きたかったんだ。どうしてそんなに頑張る? お前のお母さんが偉大なアイドルってのは耳タコだ。でもさ、花凛も立派な卵だろ。焦らなくたっていつかは孵化して──」
「いつかじゃ駄目なのッ」
自分が大きな声を出してしまったことに気付いて。
周囲から向けられる好奇、あるいは困惑の眼差し。
私は唇を噛みしめて、浮いた腰を下ろした。
「……ごめん」
「いいよ。私も悪かった。親しき中にも礼儀あり、だもんな」
こちらが珍しく感情的になったことも気にしていないように──事実、私の突飛な行動に慣れているだけかもしれないが──結愛は苦笑する。
「でもさ、実際問題、考査は諦めたほうがいいって。ここで無理しちゃあ治るもんも治らないぜ」
「でも……」
「誰も花凛のことを責めないよ。怪我が理由で一度くらい王座から転落しても、運が悪かったって慰めてくれるさ」
違う。違うの。私が諦めたくないのは──。
口を開こうとして、つぐむ。
自分以外の誰にも理解されない事情だし、理解されたくもない。
だから私は様々な言葉の代わりに、塩ゆでしただけのブロッコリーを咀嚼した。
その時だ。
教室のドアが開けられ、担任の先生と一人の女性が入ってくる。
「おーい注目ぅ」
教壇に立った先生はクリップボードで机を叩いた。
雑談に興じていた生徒らも「なんだなんだ」と視線を集中させる。
思惑が成功したことにほくそ笑み、先生が伴った女性を掌で指した。
「紹介しよう。教育実習生だ」
「えーっ!? 教育実習!?」
「大学生ってコト!?」
「プロデューサーの卵だ!」
途端、教室が爆発する。
やいのやいのと盛り上がり、
「──自己紹介をします」
その一言で氷点下に落ちた。
静寂が耳に痛い。先程までの騒ぎようが嘘のように、私たちは沈黙する。
何故、楽しそうなことに脳を支配された高校生が、こんなにも急に静かになったのだろうか。
理由は簡単だ。女性の放つ気配が、美貌が、私たちから言葉を奪うのに十分だったから。
「こんにちは。霜月絢華と申します」
そしてこの教室に現れたのは、昨日私が職員室に案内した、学校で迷子になった絢華さんだった。
◇
昼休み。
廊下で先生と話しながら、自己紹介の段取りを打ち合わせる。
「緊張とか大丈夫?」
「まあ、一応」
嘘である。真っ赤な嘘である。
俺の心臓は爆発寸前と錯覚するほど暴れまわり、鼓膜は血流の勢いを感じ取り、何故か鼻腔は血の臭いに包まれていた。
要するに超絶怒涛の緊張状態だ。
しかし正直に喋るのも恥ずかしいし、俺は澄ました顔で、余裕でございますと嘘八百を並べ立てる。
「凄いね。こんなに落ち着いた教育実習生初めてだよ」
「恐縮です」
先生は笑って、慣れた様子で教室のドアを開いた。
彼女の背中について入室する。教室の中は賑やかな雑談に溢れており、これぞ高校という感じだった。
アイドル育成高校でも関係ないんだな、こういうのは。
「おーい注目ぅ」
さすがの貫禄で生徒の視線を一身に集める先生。
「紹介しよう。教育実習生だ」
「えーっ!? 教育実習!?」
「大学生ってコト!?」
「プロデューサーの卵だ!」
彼ら彼女らは爆発したように盛り上がった。
こちらに視線をちらり、友達に視線をちらり、口元でひそひそ。
俺は人前に出るのが苦手なので、たった三十人少々のクラスでも、なかなかに緊張してしまうのだ。
しかし、いつまでも黙っているわけにはいかない。
俺は勇気を出して口を開いた。
「──自己紹介をします」
すると。
水を打ったように。
教室が静寂に落ちる。
えっなんか自分やっちゃいました!?
と慌てるほどの黙りようだ。
おそらく普段の教育が行き届いていることの証明なのだろうが、それにしても、聞き分けのいい学生たちである。
心臓をばっくんばっくん荒ぶらせ、静かに深呼吸して、
「こんにちは。霜月絢華と申します」
「…………」
……あ、あれ?
自己紹介したんだが?
まったく反応ないのは寂しいのだが?
学生たちは一人たりとも俺の名乗りに反応してくれず、ただ静かに、肉食動物が去るのを待つ小動物のように、息を殺して黙っていた。
背中に汗を流して口元を引きつらせる。
助けて先生。さすがにこの状況の対処法とか知らないっす。
そんな心の声が聞こえたのか、ぱんぱんと拍手をした先生は、「それじゃあ、これから二週間お世話になるから。仲良くするんだぞ~」と俺の紹介を華麗に終わらせた。
「じゃあ霜月さん」
「はい」
「私は職員室に戻るけど、貴女はどうする? 教室に残って生徒らと親交を深めてもいいし」
無茶言わないでくださいよォ。
俺にこんなアウェー無理ですって。
即断即決で断ろうとした時、視界の隅に見覚えのある姿が映った。
あれは確か昨日助けてくれた女の子。
名前は──三ヶ嶋花凛だったか。彼女もまた瞠目して、こちらに熱い視線を投げてきている。
「そうですね。知り合いの子も居るので、少し話をしていきます」
「知り合い? 凄い、もう出来たんだ」
そーゆー特技がある奴はプロデューサーに向いてるぞ~、と残して先生は教室を出ていった。
別にプロデューサーを目指しているわけではないんだが、正直なことを言うと面倒になりそうだし、お口にチャックしておこう。
俺は苦笑して、花凛の元に足を向けた。
「昨日ぶりね」
「──はい。昨日ぶり、です」
「えっ花凛この人と知り合いなの?」
「昨日ちょっと。校内を案内した」
「へえ……語彙選択が壊滅的な花凛が、初めて会った人と仲良くなるとは……人生何があるか分からないものだね」
友人らしき少女にずいぶんな評価を下される花凛。
文句を漏らしてもよさそうなものだが、何も言わないところを見るに、彼女も納得しているのだろう。
俺は近くの空いている椅子を持ってきて腰を下ろす。
ククク……花凛には悪いが、教室に馴染めるように利用させてもらうぜ!




