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四都物語異聞:無明の森

見えない壁は心を隔て、触れ合う手と手が未来(あした)を紡ぐ

『四都物語異聞:無明の森』

 見えない壁は心を隔て、触れ合う手と手が未来(あした)を紡ぐ


     1


 学舎の帰り道、結衣はいつもより少しだけ遠回りをして、裏手の小道を選んだ。さっきあったあの出来事が、重い石のように彼女の心を深く暗い場所に沈めていたからだ。あんなことが現実に起こったとは信じられない。信じたくない。

 乾いた土を踏む自分の足音だけが、やけに大きく響いていた。

 半刻ほど前のことである。

 学舎の裏庭には誰も寄り付かない古井戸がある。陽が高い時間でも、何故か不気味な雰囲気を醸す場所である。

 その古井戸のそばには村の子どもたちが集まっていた。

 普段は陽気な笑い声の絶えない彼らが、その時ばかりは奇妙な静けさの中にいた。結衣もその輪の中にいた。いや、正確には輪の少し外側で、その光景を見ていた。

 彼らの標的はいつものように「彼女」だった。

「彼女」の肌はほんのりと赤みを帯び、黒く艶のある細い髪が肩にかかっていた。縦に細い金色の瞳は遠くを見るように虚ろだった。「彼女」たちの目は遠くを見るのは得意だったが、近くを見るのは苦手だった。そして何より、その手足は他の子どもたちより長く、全身はしなやかで、しかしどこか華奢に見えた。

 村の大人たちが「気味が悪い」「手長(てなが)(ざる)」と陰口を叩く特徴を、「彼女」はそのまま持っていた。

 (つち)蜘蛛族(ぐもぞく)である。

「おい、(あかり)! これを取り返してみろよ!」

 村で一番腕白な拓真(たくま)が、木でできた小さな人形をこれ見よがしに掲げた。それは燈が大切にしている人形だった。拓真は古井戸に近づくと、何の躊躇もなく放り込んだ。

 ぽちゃんと小さな水音がした。

 燈は何も言わず、ただ、その細められた目で、井戸の底を懸命に見つめている。

「ほら、お前は手が長いんだろ? 井戸の底の人形を取るのなんて簡単だろうが!」

 別の男の子がはやし立てる。子どもたちの間に、薄ら笑いが広がる。子どもらしさのない薄汚い笑いだ。

 結衣はただ、立ち尽くしていた。胸の奥底にある何かが「いけない」と叫んでいる。このひどい仕打ちを許してはいけないと警鐘を鳴らしている。

 しかし、結衣は何もできなかった。ただ、井戸を覗き込んでいる少女を見るだけだった。

 燈の表情からは、感情らしい感情は読み取れない。いつもと同じ表情。意地悪をされても何も言わない。(さげす)まれても反応しない。でも、その瞳の奥にはわずかな心の震えが見えたように、結衣には感じられた。

 この古井戸の底を覗きこもうとする愚かな者は、この村にはいない。ここは不吉な場所とされ、中を覗き込むと病になるという言い伝えがあったからだ。それは単なる迷信ではない。実際に数年に一度、嵐のような勢いの病に村は襲われてきたのだ。それを知っている子どもたちは、自分から呪いに飛び込もうとは決してしない。

 だが燈は、躊躇いなく井戸の縁に身を乗り出した。そんなに深くない井戸である。彼女の長い腕が、井戸の暗闇へと伸びていく。

 その指先が、人形に触れようとした、その時。

「その人形、呪われてるぞ!」

 拓真の言葉に、燈の手がぴたりと止まった。

「呪いなんて……ない」

 燈の言葉に、子どもたちにざわめきが起こる。

「うそだ。土蜘蛛族が触れたものは穢れるって聞いたぞ」

「おれも聞いた。土蜘蛛族が呪われたものに触れると、村に災いをもたらすって、じいちゃんが言ってたぞ!」

「この前の不作だって、土蜘蛛族が勝手に畑に入ったからなんだろ」

 大人たちの言葉を、そのまま信じ切っている子どもたちの冷たい声が辺りに響く。

 根拠のない不安が、着物に着いた染みのように、その場にいた者たちすべてに拡がっていく。見えない重圧が、燈の背中をじわじわと追い詰める。

 燈は、手を引っ込めざるを得なかった。人形を拾えば、どんな言いがかりをつけられるか、わからなかった。

 そして、燈は小さく(うつむ)いてしまった。それでも彼女は泣かなかった。子どもたちの蔑みにも耐えていた。微かに肩を震わせながら。

 こんな情景を見せつけられながらも、結衣は何もできなかった。怖かったのだ。もし、自分が燈を(かば)えば、次は自分が彼らの標的になるかもしれない。そんな恐ろしさが、結衣の口を堅く閉ざし、足を地面に縫い付けた。自分だけが、この理不尽さに違和感を覚えている気がした。

 他の子たちは、本当に燈が「悪い存在」だと信じているようだった。

 結局、人形は井戸の底にそのまま残された。

 燈は何も言わず、静かにその場を去っていった。その小さな背中が遠ざかるのを見て、結衣は胸を締め付けられるような痛みを感じた。自分の無力さに、自分自身の臆病さに、どうしようもなく(さいな)まれた。

 時間が経っても、結衣の痛みは消えなかった。

 学舎の裏庭を離れ、人気(ひとけ)のない谷へと続く小道に出ると、結衣はもう我慢ができなかった。

 堰を切ったように、温かいものが頬を伝い落ちる。罪悪感と、悔しさと、そして誰にも言えない悲しみが、涙となって溢れ出した。

 谷の淵、普段は誰も近づかない樫の木の根元に座り込み、結衣は声もなく泣き続けた。

 夕暮れの空は、鈍色の雲に覆われ、今にも泣きだしそうだった。

 ひんやりとした風が、泣き腫らした頬を撫でていく。

 どれくらいそうしていただろう。涙でぼやけた視界の隅で、ふと、何かが揺れたような気がした。

 結衣が顔を上げると、そこに立っていたのは燈だった。

 燈は、長い手を後ろで組んで、結衣の前に立っていた。そのほんのりと赤い肌は、夕闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。遠くを見る癖のあるその瞳が、今はまっすぐに結衣を見つめていた。

「……どうしたの?」

 燈の声は、ひどく穏やかで澄んでいた。辛い目に()わされたばかりだというのに。その表情には怒りも、悲しみも、影さえ見えない。ただ、不思議そうに、結衣を見つめている。

「なにが、悲しいの?」

 その言葉が、結衣の胸に深く突き刺さった。悲しいのはこの子のはずなのに。泣いているのは見ていただけの自分なのに。なぜ、燈が自分を気遣うのだろう。その純粋な問いかけが、結衣の張り詰めていたものを全て壊した。

 結衣は、さらに激しく泣き崩れた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、燈……」

 謝罪の言葉しか出てこなかった。何に対して謝っているのか、自分でもうまく説明できない。ただ、目の前のこの少女に、自分がいかに情けなく、臆病であったかを詫びたかった。

 燈は、結衣の傍らにそっと座り込んだ。そして、結衣の震える背中に、長く細い指で、そっと触れた。

「大丈夫だよ」

 その声は、とても優しかった。明るい陽射(ひざ)しのように、温かかった。

「私、慣れてるもん」

 燈の言葉に、結衣はハッと顔を上げた。燈は悲しげに微笑んでいた。その微笑みには、差別を受け慣れた(あきら)めと、それでもなお失われない矜持(きょうじ)があった。

 結衣の胸に、言いようのない心の震えと、深い感情が押し寄せた。


 その日を境に、結衣と燈は谷で会うようになった。

 結衣は、学舎からの帰り道、こっそりと谷へと足を向けた。燈は、決まってそこにいた。

 二人は多くを語らなかった。

 初めは二人の立場がそうさせた。しかし時が経つにつれて、芽生えた友情が立場は越えた。言葉数は少なくとも二人の心は通じ合ったのだ。谷で過ごす穏やかで満ち足りた時間は、結衣と燈の絆をより強めていった。

 燈は川で見つけた珍しい石や、森の奥で摘んだ色鮮やかな木の実を結衣にくれた。結衣も、母が作ってくれた菓子を持っていった。そして、燈たち土蜘蛛族が村の学舎では決して学ぶことのできない、遠い都の物語や、空を自由に飛ぶ鳥の話を、結衣は知っている限り話して聞かせた。

 燈は、そうした話を聞くときだけは、その瞳を普段よりも大きく見開き、キラキラと輝かせた。

 ある時、結衣は不思議な体験をした。

 いつものように燈と谷で遊んでいた時に、結衣は突然具合が悪くなった。強烈な吐き気と倦怠感が彼女を襲い、結衣は堪らず、その場に(うずくま)った。そんな結衣の様子に燈は心配そうに駆け寄る。燈の言葉がやけに遠い。普通の状態ではなかった。

 結衣を座らせたあと、「ちょっと待っててね」と告げると、燈は谷をうろうろし始めた。

 燈が傍からいなくなって、結衣の心には言い知れぬ不安が湧いてきた。こんなに具合が悪くなったのは初めてだった。体が自分のものじゃないように感じる。うまく息ができない。周りの様子もなんだかよく見えない。自分はどうなってしまうのだろう。

 気づけば結衣は知らないうちに横になっていた。体の力が抜け、(くず)おれるように伏してしまったのだろう。

 結衣は燈にそばにしてほしいと思った。一人にしないでと燈を求めた。

 いつしか結衣の目尻には涙があった。

「ごめんね、結衣。もう大丈夫だよ」

 燈の声が聞こえた。その声は結衣に安心を与えてくれる。恐怖は幾分か薄まった。

 どこから用意したのか、燈の(てのひら)には水があった。それは、澄んでいながらも微かに虹色に輝き、甘く清らかな、そしてどこか土の匂いがする水だった。

「これを飲んで。大丈夫だから。森の命の力が凝縮された、特別な水なの。ゆっくり、でも確実に体を癒してくれるから」

 いままで何度も燈から「大丈夫」と言われてきた。彼女がそういう時は、本当に大丈夫だった。

 結衣は言われるままに水を飲んだ。少し甘い水だった。

 しばらくすると、結衣の体調は嘘のように回復した。何故体調が悪くなったのか。燈が持ってきてくれた水が何なのか。どうして回復したのかはわからない。だが、結衣には確かな真実が一つあった。燈が自分を救ってくれたのだ。

 それからも、結衣と燈の交流は長く続いた。二人は共にたくさん遊び、たくさん学んだ。

 土蜘蛛族の子どもには与えられない書物があることや、先生が彼らに特定の知識を教えないようにしていることを結衣は知っていた。だからこそ、結衣は与えられる限りのものを燈に与えた。

 燈が結衣の話に喜んで瞳を輝かせるたびに、結衣の心も温かいもので満たされた。燈からも多くのことを学んだ。それは互いが互いを尊重するという二人にとっての何よりの宝だった。

 昔から存在する土蜘蛛族への差別。それはとても根深いものだった。燈は結衣とのこの時間のことを誰かに話したりはしなかった。結衣が村の子どもたちに攻撃されることがないようにという彼女の気遣いだった。そんな燈の思いが、結衣にとって何よりも大きな救いであり、心の支えとなっていた。

 二人の秘密の時間は、谷の川のせせらぎのように、穏やかに流れていった。だが、谷を挟む村の空気は、日を追うごとに重くなっていた。

 学舎では、相変わらず土蜘蛛族の子どもたちを蔑むことが横行していた。教師は見て見ぬふりをするだけ。さすがにあからさまな差別はしない。まるでそこに存在しないかのように扱った。

 存在を認知されないことが、いかに人を傷つけるか、結衣は知っていた。

 燈たちが不公平の標的になるのを見るのは、結衣にとって胸が締めつけられるような痛さだった。だが、何も言えなかった。言えば、自分も同じように扱われるかもしれないという恐怖が、結衣の口を閉ざした。

 村に何か異変が起こると、それはすべて土蜘蛛族のせいにされた。それは遥か昔からの慣習。日常的なことだった。近頃はまた村で差別的な発言が溢れている。

「最近、谷川の水が濁っていて、魚が死んでいる」

「山の木の実が腐っている」

「天気が悪くて、作物が育たない」

 これらはすべて土蜘蛛族のせいだと、大人たちは不穏な噂を囁き合っている。

 父も母も、食事の時に土蜘蛛族への不満を口にすることが増えた。それを聞きながら、結衣は黙って食事を摂った。

 ある日、結衣がいつものように谷へ向かおうとすると、不意に母に呼びとめられた。

「結衣、最近、どこかで寄り道していないかい?」

 母の目は普段よりも鋭く、結衣の顔をじっと見つめていた。

「な、なんで……?」

「服に土がついていることが多いし、何より、おまえ、最近妙にぼんやりしている時があるからね。危ない場所には行かないでおくれよ」

 母の言葉は、それだけだった。しかし、結衣の心臓は激しく波打った。谷への道は、誰もが「危ない」と口にする場所だ。その谷が、人間族と土蜘蛛族を隔てていた境界でもあるからだ。

 もしかしたら、誰かに見られていたのかもしれない。燈とのことを知られるのは恐怖だった。

 結衣は、その日も、その次の日も、谷へ行くことができなかった。行くのが怖かったのだ。もしも燈と会っていることがばれてしまったら、どんな叱責を受けるかわからない。そんな臆病な自分が情けなかったが、どうすることもできなかった。

 日が傾き、谷の向こうの空が茜色に染まる頃、結衣は自宅の裏庭から、そっと谷の方を見た。

 西の岸、燈の集落があるはずの場所は、すでに濃い影に沈み、ひっそりとしていた。


     2


 村での土蜘蛛族への差別は、もはや日常になった。

 いままでは陰口と無視という、陰の悪意だったものが、明け透けな嫌がられや悪意のある悪口になった。

 大人の態度は、すぐに子どもたちに伝染した。

 やがてある時を境に、さらに激化する。いつの間にか、燈をはじめとする土蜘蛛族の子どもたちが学舎から姿を消したのだ。がらんとした学舎の中では、いないものを侮辱するという、世にも醜い行為が日常化している。

 学舎だけではない。村のいたるところで働いていた土蜘蛛族の大人たちも、姿を見せなくなっていた。それをいいことに、村人たちの土蜘蛛族への嫌悪は、日に日に増すばかりだった。井戸端会議の陰口は、公然の罵声と化した。

「穢れた異形(いぎょう)の者め!」

「村に災いをもたらす、元凶だ!」

 そんな声が、風に乗って、あるいは子どもたちの遊び歌のように、結衣の耳にも届く。谷へ続く小道の入り口は、嫌がらせのように汚物が撒かれた。

 以前とは比べられない程の不穏な空気の中、結衣の目に映るのは、ただ深く(くら)い人の心の闇だけだった。

 燈と会えない日々が続き、自身の無力感と、村を覆う狂気的な空気に、結衣の心は深く沈んでいく。どこを見ても存在する絶望に、心が冷えていくのを感じていた。

 そんな時、早良村を得体の知れない病が襲った。それは、村人が長年、森の恵みを蔑ろにし、谷を汚し続けた結果、森の理が乱れ、穢れた瘴気が村中に蔓延したことから始まったと、後に土蜘蛛族の長老は語った。

 病はまず、村の共同井戸や川の水源が濁り始めた頃から、原因の分からない高熱と全身の倦怠感として現れた。まるで重い衣をまとったかのように体がだるく、指一本動かすのも億劫になる。やがて視界が霞み、色鮮やかだった世界が水に溶けたようにぼやけていく。五感が鈍っていく奇妙な病だった。

 特に、汚染された水に触れたり、その水で調理されたものを口にしたりした者から、急速に感染が広がり、発症から数日で、意識が遠のき、うめき声すら出せなくなる。

 陰陽師は「悪しき瘴気(しょうき)に触れたゆえの病」と判断し、四角四堺の祈祷をした。村の医者は「一過性の流行り病」と診断し、匂いの強い薬草を煎じて飲ませた。しかし、そのどちらも全く効かず、高熱は下がらない。

 村長は何を勘違いしたのか「闇払い」を雇い、狐や狸を狩ったが、日に日に病に倒れる村人が増えていく。

 広場の外れには、病に臥せった者たちを収容する粗末な小屋が建てられた。そこからは、苦悶の呻き声が、昼夜を問わず漏れ聞こえ、村人の不安を煽るばかりだった。

 村人たちは、この病の発生を真っ先に土蜘蛛族の仕業だと疑った。

「やはり穢れた者どもが、村に災いをもたらしたのだ!」

「土蜘蛛族の呪いに違いない!」

 いわれのない中傷が、癒えぬ病のせいで、やがて彼らにとっての真実となった。

 不安は恐怖と結びつき、嵐のように村中に虚言が響き渡る。それは土蜘蛛族への憎悪へと転嫁され、差別は頂点に達した。彼らの住む谷を「忌み地」と呼び、一層の隔絶を試みるどころか、今にも討ち入りかねないほどの殺伐とした空気が村を覆った。

 それだけではない。病を恐れる村人は、「病に(かか)った同胞」をすら差別の対象とした。病人に近づくことをためらい、親しい者同士でさえも、互いを遠ざけ始めたのだ。

 村全体が、見えない闇に囚われたかのように沈黙し、恐怖と絶望が蔓延していく。もはや為す術はなく、ただ死を待つばかりの状況だった。

 そんな中、結衣は考え込んでいた。村で蔓延している病は、かつて谷川で自分も発症していたのではないか。それを癒してくれたのは燈の力だったのではないか。

 そういえば、燈が話してくれたことがある。自分たち土蜘蛛族に伝えられる奇妙な能力のことを。

「わたしね、森の声が聞こえるの」

「森の声?」

 森がしゃべるはずはないと思いながらも、結衣は聞き返した。燈が自分に嘘を()くはずがない。

「そう。葉っぱの囁き、水の歌、土の呼吸。ただの音じゃないよ。森が生きている、その息吹や喜び、そして苦しみの声が、わたしの心に響いてくるの。結衣にも聞こえるでしょ?」

「聞こえないよ。葉っぱが風に揺らされてる音は聞こえるよ。水が流れる音も。地面がたまに揺れる音も。でもそれは囁きでも、歌でも、呼吸でもないよ」

 結衣の言葉に、燈が笑顔になった。優しい、見ている自分が幸せになれるような眩しい笑顔だった。

「聞こえてるじゃない。それが囁きや歌なの」

「えー、ちがうよ」

「耳を澄ますと、ちゃんと聞こえるよ。一生懸命に見れば、ちゃんと見えてくるよ」

 燈は目を細めて楽しそうに話してくれたっけ。

 思い出したら淋しくなった。燈に会いたいと思った。

「それにね、わたしのおじいちゃんが言ってた。地面から湧き出す不思議な水を飲むと、喉の渇きだけじゃなくて、心の渇きも癒してくれるんだって」

「それ、美味しいの?」

「わかんないよ。わたしは飲んだことないもん。結衣ならわかるんじゃない? だって結衣は飲んだことあるもの」

「あ、私が倒れた時に、燈が飲ませてくれた水? ちょっと甘くて美味しかった」

 その後、燈が話してくれたのは、その水で土蜘蛛族が飢饉や疫病から救われたという古の物語だった。

 ちゃんと聞いて、ちゃんと見る……か。

 村の人たちが土蜘蛛族のことをちゃんと見ていたら、こんな風に、いがみ合わなかったのかもしれない。ちゃんと話を聞いていたら、仲良くできたかもしれない。この病だって、

 もしかしたら、燈がしてくれたみたいに、水を飲むだけで治ったかもしれない。ちょっと変えてみるだけでいいのかもしれない。

 そこまで考えてみて、結衣は思った。

 人間族が持ち得ない、自然の奥深くに息づく知識の囁きがあるのかもしれない。

 (わざわい)を鎮めるための(いにしえ)の唄があるのかもしれない。

 そう考えた時、燈が瞳を輝かせて語ってくれた「力」が結衣の中で一つの形となった。それは一筋の希望の光。

「土蜘蛛族が、この病を癒してくれるかもしれない!」

 その声は、広場に集まっていた多くの人たちに響き渡った。

 喧騒が静寂に変わる。

 村人たちは一様に眉を(ひそ)めていた。そしてまた、喧騒がやってくる。いや、喧騒ではなく狂乱だった。村人たちは、狂った者を見るような目で結衣を見た。

「馬鹿を言うな! あの穢れた者たちがこの病を持ち込んだんだ!」

「そうだ! 奴らが癒せるはずがない」

「その証拠に、奴らがいなくなってから、病が増えたじゃないか」

 口々に罵詈雑言が飛んでくる。

 結衣の言葉は希望にはならなかった。火に油を注いだかの如く、村人の怒りを煽ってしまった。

「なんで……」

 結衣は唇を噛んだ。

「なんで、みんなは行動しないの! 何もしなかったら、みんな死んじゃうんだよ! 家族が苦しんで、村の人たちが悲しんで、最後にはみんな死んじゃって! それでいいの?」

 結衣の叫びは静寂を呼んだ。

 建物の中から隔離された人たちの、死にゆく人たちのうめき声が聞こえてくる。家族の中から歔欷(きょき)の声が聞こえてくる。もう打つ手はないのだ。

 この大人たちを頼っていても、もう先はない。

 結衣はたった独りで行動することを決意した。


     3


 結衣は広場を飛び出し、足がもつれるのも構わず、ただひたすらに谷へと走った。その胸にあるのは、村のみんなを救いたいという純粋な願いと、大人たちの理不尽なまでの拒絶に対する怒りだった。あの病は、少しずつだが、確実に村人たちの命を蝕んでいる。もう死人も多く出ている。躊躇(ためら)っている時間などないのだ。

 谷へ続く小道を前にして、結衣は足を止めざるを得なかった。

 村人の黒く薄汚い、心の深い部分を目の当たりにして、結衣は眉間に深い皺を作った。

 そこは、もはや「汚物が撒かれた」という生易しいものではなかった。所々に石や枯れ木が(うずたか)く雑に積み上げられ、まさに城壁と化していた。この城壁は土蜘蛛族を閉じ込めるためのものであろうが、いまの結衣には、自分の行動を妨げるものと感じられた。

 しかし、そんな障害物も、いまの結衣を止めることはできない。

 荒い息を吐きながら、結衣はそれらを飛び越え、あるいは脇に避けながら、ひたすらに谷の奥へと進んでいく。

 日も傾きかけた谷は、昼間とは違う表情を見せていた。木々の隙間から差し込む光は細く、土蜘蛛族の集落があるはずの場所は、すでに深い影に包まれていた。

 結衣の心に、一瞬の不安がよぎる。こんな状況で、本当に彼らが助けてくれるのだろうか。

 しかし、燈の顔が脳裏に浮かぶと、その不安はすぐに掻き消えた。燈が教えてくれたあの優しい水、そして、彼女の瞳の奥にあった純粋な光を、結衣は忘れていなかった。信じたかった。

 やがて、小道の先に、土蜘蛛族の住む集落の入り口が見えてきた。木の柵で囲まれた簡素な集落だが、村とは異なる独特の静けさと、土の匂いが結衣の鼻をくすぐる。

 結衣はためらうことなく、開かれたままの入り口へと足を踏み入れた。

 集落の中は、静まり返っていた。人の気配はあるものの、村のように活気があるわけではない。夕餉の準備だろうか、どこからか薬草のような、わずかに苦い匂いが漂ってくる。

 奥の方から、複数の視線が向けられていることを結衣は感じた。警戒と、わずかな敵意を含んだ視線だ。結衣は深呼吸をして、震えそうになる足を無理やり前に進めた。

 集落の中心にある、ひときわ大きな木のある広場に、数名の土蜘蛛族の大人たちが集まっていた。彼らは結衣を見ると、一瞬の戸惑いの後、ざわめき始めた。その中には、以前、谷で燈と一緒にいた、顔馴染みの大人もいた。

 結衣は、彼らの前に立つと、精一杯の勇気を振り絞って声を上げた。

「お願いです! 村を、私たちの村を助けてください!」

 結衣の声は、震えていたかもしれない。しかし、その言葉には、村の窮状と、土蜘蛛族の力を信じる切実な願いが込められていた。

 土蜘蛛族の大人たちは、すぐには答えない。彼らの顔には、長年の差別と抑圧が刻み込まれたような、複雑な感情が浮かんでいた。結衣の言葉を聞きながらも、彼らの目には、結衣の姿を通じて、早良村の人々が犯した差別を見ているかのように、冷たい光を宿していた。

 その中の一人が、ゆっくりと前に進み出た。白い髪と深い皺が刻まれた顔の老爺が、静かに結衣を見据える。

「……人間(ひと)の子よ。お前の言う村とは、我々と共生しながら、(さげす)んだあの村のことか?」

 その声は、重く、そして乾いていた。

「今、早良村が病に苦しんでいることは知っている。だが、なぜ我々がお前たちを助けねばならぬ? 長きにわたり、我らを(けが)れと呼び、蔑み、子どもらを(ののし)ってきたのは、お前たち人間族ではないのか」

 老爺の言葉は、鋭い刃となって結衣の心を切り裂いた。

 反論の余地もない。それは事実だった。そして結衣自身も見て見ぬ振りをしていたのだった。

「この谷へ続く道には、お前たちが撒いた汚物が、今も腐臭を放っている。我らの子どもらが学舎から姿を消したのは、お前たちの狂気が、子どもらに向かうのを恐れたからだ」

 老爺の言葉は続く。

「かつて我々はお前たちの引き起こした『森の理の乱れ』という厄災を鎮めた。にもかかわらず、人間族は我らを『禍をもたらした者』と罵倒し、差別をした。我らは一度手を差し伸べたのだ。それを払い除けたのはお前たちではないか」

 土蜘蛛族の間に、静かな怒りが満ちていく。その視線は、結衣一人に向けられているのではなく、結衣という「人間」を通して、全ての人間族への積年の恨みを映しているようだった。

「でも……」と言いかけて、結衣は言葉に詰まった。彼らの怒りは、当然のことだった。あまりにも正当なものだった。でも……それでも、このまま諦めるわけにはいかない。村では、今この瞬間にも、多くの命が失われているのだ。

「私たちは……私たちは間違っていました。本当に、ごめんなさい……」

 結衣の謝罪は、空虚な謝罪に聞こえたかもしれない。しかし、そこに偽りはなかった。彼女の目には、涙が滲んでいた。

「でも、この病が村を……。村の全ての人を殺してしまいます。小さな子どもたちも、お年寄りも、みんな……! 燈が私にくれた水の力が欲しいんです。みんなを助けてほしいんです!」

 結衣の必死の願いは空しく響くばかりだった。土蜘蛛族は誰も反応してくれない。それどころか、「ざまあみろ」とつぶやく声が聞こえた。

 それでも結衣は地面にひざまずき、必死に頭を下げた。

「どうか、どうかお力を貸してください!」

 結衣の涙は地面に落ち、小さな染みを作る。

 沈黙しか返ってこなかった。それは協力の拒絶を意味していた。

 その時、集落の奥から、一人の少女が走り出てきた。

「結衣!」

 それは、まぎれもなく燈の声だった。その声に反応するように、結衣は顔を上げた。

 燈は、驚きと心配の入り混じった顔で、結衣のもとへと駆け寄ってくる。その瞳には、再会を喜ぶ光と、結衣の姿から村のただならぬ状況を察した焦りが浮かんでいた。

「燈……」

 燈は、老爺や他の大人たちの制止も聞かず、結衣のもとへと駆け寄った。結衣が必死に訴え、涙を流している様子を見て、燈は何も言わず、ただ結衣の隣にそっと跪いた。長く細い腕が結衣の震える肩に触れ、結衣と同じように頭を下げる。

 結衣と燈が並んで深く頭を下げている姿に、老爺は目を細めた。そして、その静かな声が、広場に響いた。

「……燈よ。この人間族の子は、我らに助けを求めている。お前は、この人間の子を信じているのか?」

 老爺の問いに、燈はゆっくりと顔を上げた。その顔は、真っ直ぐに、老爺の目を見返している。

「お爺さま。結衣は……結衣は、私を『ちゃんと見て』くれた、唯一の人間(ひと)です」

 燈の声は、澄んでいて、どこまでも穏やかだった。しかし、その言葉には、誰にも揺るがすことのできない、確かな決意の響きがあった。

「結衣は、私の話を聞いて、森の声を一緒に聞いてくれた。私が心を痛めた時、誰一人近寄ろうとしない中で、結衣だけが心配してくれた。そして、あの時、私を信じて、私が与えた水を飲んでくれたんです」

 燈は、老爺……祖父に向かって、そして集落の大人たち一人ひとりの顔を見ながら、言葉を続けた。

「人間は、恐れから誤解し、過ちを犯します。私たちよりも弱い存在なのかもしれません。でも、結衣は、私を信じ、私と共に過ごして、その過ちに気づいた。この病は、人間族だけでなく、この地で生きる全ての命にとっての脅威です。私たち土蜘蛛族が持つ知恵は、この森の恵みであり、それを必要とする命があるのなら、手を差し伸べるのが、この地の民としての務めではないでしょうか」

 燈の言葉に、土蜘蛛族の大人たちの間に、再びざわめきが起こった。しかし、それは先ほどの怒りや不信のざわめきとは異なっていた。燈の言葉は、彼らの心に、長年の憎しみとは別の感情を揺り動かしているようだった。彼らは互いの顔を見合わせ、深く考え込む。

 祖父は、目を閉じ、深く息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開くと、その視線は、結衣と燈を交互に見た。二人の少女の間に、確かな信頼と、揺るぎない絆があることを、彼は感じ取ったようだった。

「……わかった」

 祖父の声が、静かな集落に響いた。

「お前たちの言葉を、信じよう。この人間族の娘が、燈と同じように森の理を尊ぶ心を持つというのならば……。そして、燈が人間族の娘を信じているのならば……。この病が、森の理を乱すものならば、我らは手を貸さねばなるまい」

 厳しいながらも、どこか諦めにも似た表情でそう告げた。しかし、それは、彼らが長年守り続けてきた知恵を、今、この危機において、再び人間族のために使うという、重い決断だった。

「ただし……」

 燈の祖父は結衣に目を向けた。

「人間族は、我らの手を取ることができるのか? それができぬのならば、我らのこの話し合いも無意味になる」

 結衣の目が泳いだ。そこまで村人たちが愚かだとは思いたくはない。しかし、それを完全に否定することはできなかった。

「ともあれ、手を差し出すことはしよう。——皆の衆、準備だ」

 土蜘蛛族の大人たちは、祖父の言葉に頷き、静かに広場へと集まり始めた。彼らの顔には、未だ警戒の色が残るものの、その瞳の奥には、わずかな希望の光が灯り始めていた。

 結衣は、安堵と感謝と不安の入り混じった涙を流しながら、燈と固く手を握り合った。

 二人の友情が、今、村全体の未来を左右する大きな希望へと変わろうとしていた。


     4


 土蜘蛛族の人々は、病に伏した村人たちを収容する粗末な小屋へと向かった。その先頭には、祖父と燈、そして結衣が並んで歩く。

 谷から村への道は、先ほど結衣が駆けてきた時と同じく、石や枯れ枝、汚物が散乱していた。中には、わざとらしくさらに汚物が撒かれた場所もあった。

 結衣は、その光景を目にして、ハッと息を呑んだ。彼女の顔に深い罪悪感が浮かび上がる。

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」

 結衣は、思わず声に出して謝罪した。その声は震え、途切れそうだった。

 土蜘蛛族の人々の間には、明らかに動揺が広がった。何人かは立ち止まり、汚物で汚された道を見つめ、顔を歪ませた。怒り、侮辱されたことへの憤り、そして長年の抑圧からくる諦めが、彼らの瞳に宿る。

「こんな仕打ちをしておきながら、今さら助けを求めるとは……!」

 低い声で呟く者もいた。彼らの間には、重苦しい沈黙が広がり、一触即発の空気が漂う。

 結衣は、その場の凍り付くような空気に、絶望に似た感情を覚えた。やはり、無理だったのか。これまでの行ないを思えば、当然の反応だ。彼女は力なく俯き、唇を噛みしめた。

 その時、燈が結衣の手をぎゅっと握りしめた。その手から伝わる温かさに、結衣はハッと顔を上げた。燈は、祖父や、後ろに続く土蜘蛛族の人々を、一人ひとり見つめた。その澄んだ瞳には、迷いはなく、ただ強い決意が宿っていた。

「お爺様……そして、みんな。この病は、人間族だけの災いではありません。森の声が、苦しんでいます。このままでは、森の理が乱れ、この地で生きる全ての命が脅かされるでしょう」

 燈の声は、静かだが、祖父の声と同じように、確かな響きを持っていた。

「たしかに、人間たちは私たちを蔑み、傷つけました。その怒りや悲しみを私も持っています。でも、私たち土蜘蛛族は森の恵みを守り、この地の調和を保つ役目を担っています。彼らがどれほど私たちを退けようとも、この病を鎮めることが、私たちの使命ではないでしょうか」

 燈は、まっすぐに祖父を見つめた。

「そして、結衣です。結衣は私たちを信じて、この谷へと来てくれました。人間の中にも、私たちを『ちゃんと見てくれる』者がいる。その希望を、私は結衣から学びました。この病を癒すことは、人間たちの過ちを許すことだけではありません。未来への、新たな道を拓くことだと、私は信じています」

 祖父は、燈の言葉に静かに耳を傾けていた。彼の目には、積年の恨みと諦念と、孫娘の純粋な願いが交錯していた。そして、ゆっくりと、その視線を燈から、汚れた道、そして村へと向けた。

「……燈よ。こんな人間たちを、我らが救う意味があるのか?」

 祖父の声は、静かだが、その問いは重かった。それは、土蜘蛛族の人々が長年抱えてきた、積年の問いでもあった。

 燈は、再び祖父の目を見つめ返した。

「意味は私たちが作るものです、お爺様。このまま彼らを見捨てれば、憎しみは残り、いずれまた同じ過ちを繰り返すでしょう。しかし、私たちが手を差し伸べれば、彼らは変わるかもしれない。そして、この地で、共に生きていく道を見つけられるかもしれない。それが、森の調和を保つ、新たな形になるはずです」

 祖父は、目を閉じ、深く息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開くと、その視線は、結衣と燈を交互に見た。そして、二人の繋がれている手を見た。二人の少女の間に、確かな信頼と、揺るぎない絆があることを、彼は感じ取った。

 祖父は頷いた。燈の言葉の奥に、彼ら土蜘蛛族が、ただ森の理を守るだけでなく、人間との新たな関係性を築くという、より大きな未来への可能性を見出したのかもしれない。

「……わかった」

 祖父の声が、静かな森に響いた。

「お前たちの言葉を信じよう。この人間族の娘が、我らと同じように森の声を『聞く』ことができるというのならば……。燈がこの娘を信じているのならば。そして何より、この病が森の理を乱すものならば、我らは手を貸そう」

 彼の表情は少し和らいだように見えた。

 人間族の築いた「城壁」を越えて土蜘蛛族が村に到着した時、村人たちは土蜘蛛族の姿に驚き、恐怖と困惑の混じった視線を投げかけた。広場には、まだ病に倒れていない者たちが集まっており、彼らの間には動揺が広がった。

「なぜ、あの者たちがここに?」

「また何か企んでいるのか?」

 といった囁きが聞こえる。村の医者や陰陽師も、不審そうな目で彼らを見つめていた。

 燈の祖父は、広場に足を踏み入れると、静かな、響き渡る声で語り始めた。

「早良村の人々よ。我らは、この地で長きにわたり生きてきた土蜘蛛族である。今、そなたたちの村を襲う病の苦しみは、森の声として我らにも届いている。故に、我らは、森の恵みと、我らが持つ古の知恵をもって、この病を鎮めんと参った」

 祖父の言葉に、村人たちはざわめいた。

「森の恵み?」

「古の知恵?」

 村人たちにとって、土蜘蛛族の言葉は得体の知れないものでしかなかった。不安と不信の空気が、再び村を包み込む。

 その時、燈が祖父の隣に一歩進み出た。そして、澄んだ声で、村人たちに語りかけた。

「村の皆さん。私は燈です。そして、彼女は私の大切な友、結衣です」

 燈は結衣の方を向いて、そっとその手を取った。

「結衣は、この病で苦しむみなさんのために、危険を顧みず、私たちの集落まで来てくれました。結衣は、私を、そして私たち土蜘蛛族を信じてくれた。だから、私たちも、結衣の願いに応え、この村を救いたい」

 結衣は、燈に促されるように前へ出た。震える声だったが、彼女の目には強い決意の光が宿っていた。

「お願いです、村のみなさん。土蜘蛛族の方たちは、私たちを助けるために来てくれたんです。彼らの力は、きっとこの病を癒してくれます。どうか、彼らを信じてください!」

 結衣と燈、二人の少女の言葉は、村人たちの心を少しだけ揺り動かしたようだった。燈が結衣の手を握り、「大切な友」と呼んだこと、そして結衣が必死に土蜘蛛族を擁護する姿は、彼らに微かな希望と、これまで抱いていた土蜘蛛族への固定観念に疑問を抱かせた。

 それでも、長年の差別意識は根深く、すぐに消えるものではない。村人の中には、未だ不信感を露わにする者もいた。

「だが、あの者たちが触れたものは穢れると聞く! 病がさらに悪化したらどうするのだ!」

「そうだ! 陰陽師や医師でも治せぬ病を、あの異形(いぎょう)の者どもが治せるはずがない!」

 罵声が飛び交い、再び広場は混沌に包まれそうになった。その中には、「この前の不作だって、土蜘蛛族が畑に入ったせいだ!」と叫ぶ男の声も混じっていた。

 長年、病や不作といった村の不幸を土蜘蛛族のせいにすることで、自分たちの不安を解消してきた村人たちにとって、この状況は理解しがたいものだったのだ。彼らの差別は、理不尽な恐怖と、生き延びるための心の弱さから生まれていた。

 その時、燈の祖父は静かに手を挙げた。その動作は穏やかだが、確かな威厳があった。

「無理強いはせぬ。我らの力を信じられぬのならば、それも致し方ない。しかし、病は待ってはくれぬ。このままでは、多くの命が失われるだろう」

 祖父は、病に伏した者が収容されている小屋の方へ視線を向けた。小屋からは、苦悶の呻き声が、途切れることなく聞こえてくる。

「我らが試み、万が一にも病が悪化したとしても、それ以上を失うものはお前たちにはないだろう。しかし、もし我らの知恵が病を癒すならば、その命は救われる。選ぶのはお前たちだ」

 祖父の言葉は、村人たちに現実を突きつけた。既に多くの者が病に倒れ、死の影が村を覆っている。もはや、失うものなど何もない。このまま手をこまねいていれば、滅びるだけだ。土蜘蛛族への不信感と、このままでは全てを失うという絶望が、村人たちの間でせめぎ合った。

 やがて、一人の老人がおずおずと前に進み出た。彼の顔には、これまでの土蜘蛛族への嫌悪と、今現在の家族の苦しみが複雑に混じり合っていた。

「わ、私の孫が……孫が高熱で、もう何日も苦しんでおります。どうか、どうか、試してみてくだされ……」

 その老人の言葉を皮切りに、次々と病に苦しむ家族を持つ者たちが、(すが)るような目で土蜘蛛族を見つめ始めた。彼らの目には、藁にも等しい最後の希望を求める思いが宿っていた。

 しかし、その希望を打ち砕くかのように、広場の隅から、数人の男たちが進み出た。彼らは、酒に酔っているのか、顔を赤らめ、憎しみに満ちた目で土蜘蛛族を睨みつけた。

「何を戯言を言っている! この穢れた者どもに助けを求める必要がどこにある! 我らの村を滅ぼすつもりか!」

「そうだ! 病はあいつらが持ち込んだに違いない! 助けに来たなどと、よくもぬけぬけと!」

 男たちの罵声が、広場に響き渡る。その言葉は、まるで熱に浮かされたかのように、根拠のない憎悪に満ちていた。彼らは、土蜘蛛族への差別を捨てきれず、目の前の奇跡よりも、長年の偏見に固執していた。

 結衣は、その男たちの言葉に、強い怒りを覚えた。彼女の心臓は激しく波打ち、全身が震えた。

「あなたたちは、恥ずかしくないの!?」

 結衣の声が、広場に響いた。その声には、怒りと、愚かさへの悲しみが込められていた。

「わざわざ、私たちを助けに来てくれた人たちに、どうしてそんなひどいことを言うの?  あなたたちの家族が苦しんでいるのに、村が滅びようとしているのに。これがあなたたちの現状把握なの?」

 結衣は、男たちを睨みつけた。彼女の瞳には、涙が滲んでいたが、その奥には、決して引かない強い光が宿っていた。

「この人たちは、私たちを救ってくれるかもしれない、たった一つの希望なんです! それに唾を吐くようなことをして、本当に、それでいいと思っているの? みんな死んじゃうんだよ⁉」

 結衣の悲痛な叫びは、広場にいた人々を沈黙させた。男たちは一瞬たじろぎ、言葉を詰まらせた。その場にいた他の村人たちも、結衣の言葉に我に返ったように、男たちを非難するような視線を向けた。

 そして、沈黙を破り、何人かの村人が、病に倒れた家族の名前を叫び始めた。

「うちの娘を……どうか、お助けてください!」

「私の夫を……このままでは死んでしまう!」

「お願いします! どんなことでもいたしますから、どうか、お力をお貸しください!」

 広場のあちこちから、悲痛な、そして縋るような声が次々と上がり始めた。恐怖と絶望が、彼らの長年の偏見を打ち砕いたのだ。その声は、一人の老人の懇願から始まり、やがて村全体を包む大きな波となった。

 男たちは、その圧倒的な声と、周囲の非難の視線に、何も言えなくなった。顔を赤くし、居心地悪そうに身をよじらせるばかりだった。

 燈の祖父は頷くと、結衣に視線を送った。結衣は目に涙を溜めながら燈の祖父を見た。

 老爺はわずかに微笑むと、土蜘蛛族を促した。

 燈が結衣と共に小屋へと向かった。彼らの後を、他の土蜘蛛族の大人たちも続いていく。

 小屋の中は、重苦しい空気が充満していた。苦悶のうめき声と、病の匂いが結衣の鼻を突く。病に伏した人々は、顔は紅潮し、目は虚ろで、意識も朦朧としているようだった。

 燈は、病人の一人、特に症状が重そうな幼い子どもの傍らに跪いた。そして、祖父から受け取った小さな竹製の器に入った、透き通った水を、子どもの口元にそっと運んだ。それは、かつて結衣が飲んだ時と同じ、微かに甘い匂いのする水だった。

 村の医者や陰陽師、そして一部の村人たちが、固唾を飲んでその様子を見守っていた。彼らの顔には、期待と、そしてもしもの時の責任を恐れる感情が入り混じっていた。

 そして全員に「水」が与えられた。


 すぐに劇的な変化は訪れなかった。

 この子どもの苦しげな呼吸は、依然として荒いままだった。数刻が過ぎ、半日、そして一日が過ぎても、病状は好転するどころか、むしろ悪化しているようにさえ見えた。

「やはり、ダメだったのだ! 穢れた者どもめ!」

 広場の隅にいた男たちが、再び声を荒げた。

「見ろ! かえって悪くなっているではないか! やはり、災いをもたらすだけだ!」

 その男たちの声に煽られ、村人たちの間にも、再び動揺と不信感が広がり始めた。希望が薄れ、絶望が顔を覗かせる。

「もう、帰ってくれ! これ以上、村を穢さないでくれ!」

 誰かが叫んだ。その声は、あっという間に広がり、次々と土蜘蛛族を追い返そうとする声が上がり始めた。

 結衣は、必死に土蜘蛛族を庇おうとしたが、その声はかき消されてしまう。燈もまた、静かに、しかし悲しげに村人たちを見つめていた。祖父は、何も言わず、ただ静かに、しかし深く息を吐いた。

 そして、ついに、村人たちは石を手に取り始めた。

「出て行け! この疫病神め!」

「二度とこの村に近づくな!」

 石が、土蜘蛛族に向けて放たれた。それは、彼らの長年持ち続けた差別意識と、希望を打ち砕かれた憎悪が混じり合った、暴力的な感情の表れだった。

「やめて! お願いだから、やめてください!」

 結衣は叫び、土蜘蛛族の前に立ちはだかろうとした。しかし、燈がそっと彼女の手を引き、首を横に振った。

 燈の祖父は、静かに土蜘蛛族の者たちに視線を送り、退くように促した。

 土蜘蛛族の人々は、投げつけられる石を避けながら、静かに、しかし速やかに村を後にした。彼らは一切の反論もせず、ただ黙って谷へと引き返していった。結衣は去っていく彼らの背中を、涙で滲んだ目で見送ることしかできなかった。彼女の心は、深い悲しみと、村人への怒りで満たされていた。


     5


 土蜘蛛族が村を去った後、村は重苦しい静寂に包まれた。土蜘蛛族を罵倒し、石を投げつけた男たちは、勝利したかのように息巻いていたが、病の苦しみは依然として村を覆っていた。

 しかし、その日の夜半から奇跡が起こり始めた。

 変化は最初に水を与えられた子どもからだった。高熱が嘘のように引き、苦しげだった呼吸が穏やかになった。翌朝には、その子がかすかに目を開け、意識を取り戻したのだ。

「うちの子が目を……目を開けた!」

「水」は、即座に効く劇薬ではなく、森の生命力がゆっくりと体内に浸透し、病の根源を静かに癒していくものだった。そのため、一時的に体内の毒素が活性化し、病状が悪化したように見えていたのだ。

 小屋の中から、驚きと歓喜の声が上がった。

 その声は、あっという間に村中に広がり、広場にいた村人たちにも伝わった。最初は半信半疑だった村人たちも、実際に病が癒されていく様子を見て、驚きと興奮に包まれた。

 数日のうちに、次々と病人が回復していった。土蜘蛛族の与えた水と薬草は、確かに病の根源を断ち、村人たちを死の淵から救い出したのだ。村は、活気を取り戻し始めた。

 病が去り、村に活気が戻るにつれて、村人たちの心には、言いようのない空白と、深い後悔の念が広がっていった。自分たちがどれほど愚かで、恩知らずな行いをしたのか、日を追うごとに痛感したのだ。かつて土蜘蛛族を罵倒し、石を投げつけた男たちは、夜毎、悪夢にうなされ、日中は村人の白い目に耐えかねて、姿を隠すように過ごしていた。

 村人たちの傲慢や軽率さが、村を救ってくれ者たちを深く傷つけ、ましてや追い出してしまったという事実は、重い十字架のようにのしかかった。

 早良村の村長は広場の中央に立ち、すべての村人の前で谷のある方角に深く頭を下げた。

「我々は、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。土蜘蛛族の人たちがくれた、貴い命の恩を、あのような形で踏みにじってしまったことを、心よりお詫び申し上げる」

 村人たちもまた、それに続いて頭を下げ、広場はすすり泣く声に包まれた。彼らは、もう土蜘蛛族を「異形」と呼ぶことはなかった。彼らの知恵と優しさが、どれほど尊いものだったかを知った今、長年の偏見は、深い感謝と自責の念に変わっていたのだ。

 村人たちは、土蜘蛛族への償いを始めた。

 まず、谷へと続く道を徹底的に清めた。かつて土蜘蛛族を遠ざけるために撒かれた汚物や石は全て取り除かれ、代わりに、村の者たちが交代で毎日、道の手入れをするようになった。季節の恵みが収穫されると、村人たちは谷の入り口まで運び、丁寧に供えるようになった。それは、彼らが二度と過ちを繰り返さないという誓いであり、土蜘蛛族への真摯な感謝の表れだった。

 結衣は、村人たちの変化を静かに見守っていた。土蜘蛛族への怒りや悲しみが完全に消えたわけではなかったが、村人たちの心からの感謝と、変わろうとする努力を、彼女は理解していた。

 結衣は毎日、谷へと続く道の入り口まで足を運んだ。そして遠くの森の奥を見つめた。あの日以来、燈とは会っていない。土蜘蛛族は更に森の奥深くに入ってしまったようだった。しかし、彼女の心には、いつかきっと再会できるという確かな希望があった。

 結衣は、手作りの小さな木の実細工を道の脇に置いた。それは、燈との友情の証であり、感謝のしるしだった。

 村人と土蜘蛛族の関係は、一夜にして劇的に変わったわけではない。長年の差別感情と不信は、容易には消え去らないものだ。だが、病という共通の苦難を乗り越えた村人たちは、初めて土蜘蛛族を「隣人」として認識し始めた。彼らは、土蜘蛛族の住む谷の森を大切にし、豊かな恵みに感謝するようになった。そして、結衣と燈の間に生まれた絆こそが、村と谷を繋ぐ、新たな未来への光であることを、村人たちは理解し始めていた。

 結衣は、毎日、谷に向かって心の中で燈に語りかけた。

「燈、いつかまた会える日まで、どうか元気でいてね。そして、私たち人間の過ちを、許してくれる日が来ますように。私たちは、もう二度と、あなたたちを傷つけたりしないから」

 結衣の祈りは、風に乗って谷へと運ばれていくようだった。早良村の新たな歴史は、まだ始まったばかりだ。それは、過去の差別を乗り越え、未来へと続く、困難だが希望に満ちた共生の道のりを示す、小さな一歩だった。


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