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相思相殺  作者: 戌亥縁
9/22

9.大黒屋

 大黒屋の二階の六畳ほどの小部屋。


 そこに身を落ち着けてから、吾郎は奇妙な感覚に囚われていた。


 この六年間、黒木への復讐を胸に生きてきた。


 会津から東京に至るまでの旅でも、野宿も厭わず、憎しみと戦いを糧に漂っていた己が、今こうして屋根の下に眠り、柔らかい布団に身を置いている。


 まるで己ではない誰かの人生を借りているようだった。


 朝になれば、志乃の透き通った声で「おはようございます!吾郎さんっ!」と迎えられる。


 女中の笑い声と湯気の匂い、茶碗の音。


 そんな当たり前の営みの中に身を置くこと自体が、吾郎にとっては戸惑いの連続だった。


 志乃は、店の看板娘という言葉がこれほど似合う娘もいないほどに明るかった。


 気配りが細やかで、働き者で、誰にでも屈託のない笑顔を見せる。


 その笑顔に、最初は吾郎も酷く戸惑った。


 妹の桜と同じ面影を映す志乃に、無意識に目を逸らし、声を掛けられても冷たく応えることしかできなかった。


 だが——志乃はそんな吾郎を恐れなかった。


 むしろ、自分にぶっきらぼうに接する吾郎をおかしそうに笑い、「もう、吾郎さんは照れ屋さんですねっ!」などと屈託なく返してくる。


 その度に、吾郎の胸にこびりついた氷の塊が少しずつ溶かされるような感覚を覚えた。


 志乃には、強さがあった。


 女中の一人・菊から聞いた話によれば、元々大黒屋は志乃の母が切り盛りしていたが、志乃が幼い頃に病で亡くなったという。


 父は乾物屋にかかりきりで、志乃には長らく寂しい時期が続いたという。


 志乃はそんな状況にも関わらず、父や家計を支えるため、自分から進んで母が遺した大黒屋を切り盛りすると申し出たという。


 志乃はまだ若い娘だ。


 けれど、その背には少女らしからぬ覚悟が宿っている。


 だからこそ、周囲の女中たちも志乃を心から支え、妹のように慈しんでいた。


 大黒屋の女中は二人。


 菊と薫。


 二人は、志乃よりも十以上は年上で、おそらく吾郎よりも五つは離れているようだった。


 彼女たち二人は志乃に深い愛情を注ぎ、志乃もまた彼女たちに全幅の信頼を寄せていた。


 彼女たちの間には、血の繋がりを超えた家族のような温かさがあった。


 忙しい店の最中でも、志乃は常に笑顔を絶やさなかった。


 店に集まる客は、志乃目当ての者も多く、茶屋の扉が開くたびに「志乃ちゃん、今日はいるかい」と声を掛ける男たちもいた。


 志乃は決して高慢にならず、誰にでも公平に接し、時には厳しくも励まし、店を支えていた。


 その明るさと優しさが、大黒屋の空気を温め、人々を集める磁石のようになっていた。


 吾郎は、そんな志乃と女中たちを遠巻きに眺めながら、不思議な胸のざわつきを覚えていた。


(……なんだ、この感覚は)


 羨望、と言えばいいのだろうか。


 あの戦で、己は家族を失い、全てを奪われた。


 父も、母も、そして妹も。


 だがここには、お互いが他人であるにも関わらず、家族に似た強い絆がはっきりと存在していた。


 血ではないのに、心の深いところで繋がっている人々の姿を見ていると、自分にはもう決して得られないものを見せつけられているようで、吾郎は苦しくなった。


 それでも——志乃も女中たちも、吾郎を遠ざけなかった。


 会うたびに


「おかえりなさい」


「吾郎さん、こんばんは!」


「よく眠れましたか」


 と声を掛けてくれる。


 夜には賄いの膳を運んでくれ、時には湯呑にお酒を注いでくれる。


「これ、おかわりいかがですか」


「若いんだから、もっと召し上がらないと!」


 そんな優しい言葉に、吾郎はどう返せばいいか分からず、「ありがとう」と、ぎこちない一言を発するのがやっとだった。


 無償で泊まらせてもらっている身である以上、吾郎も黙って甘えることはできなかった。


 次第に、朝の掃除や荷物の運び込みなどの雑務を手伝うようになった。


 だが、それだけでなく何か別で返礼をしなければ、と思った。


 だが志乃も、女中たちも、


「ふふ、お礼なんて要りませんよ」


「元々二階の部屋は空いていたし、大黒屋が賑やかになって嬉しいわ!」


「男手が増えて、こっちも助かってるもの」


 と、当たり前のように言ってくれる。


 その言葉は吾郎の胸に重く響き、どうしようもなく救いのように思えた。


 そしてもう一つ、奇妙な安堵があった。


 この茶屋では、誰も吾郎の素性を詮索しなかった。


 どこから来て、何をしてきたのか。


 なぜ、東京に来たのか。


 そういった問いを、誰も投げかけてこなかった。


 それは、吾郎にとってどれほどありがたかったか。


 志乃は忙しい店の中でも、度々吾郎のことを気にかけてくれた。


「ご飯、足りていますか?」


「夜は冷えますから、風邪引かないでくださいね」


 母のような、姉のような、あるいは妹のような、温かい声。


 心が震える。


 ある夜、大黒屋の座敷で片付けをしていると、女中の薫が話しかけてきた。


「ねね、吾郎さん。志乃のこと……どう思います?」


 問いかけに、吾郎ははっとして顔を上げた。


「……どう、というのは……」


 薫は小さく笑った。


「うちの宝みたいな子ですから。あの子が笑っていると、私たちまで元気になるんですよ」


 その言葉に、吾郎もわずかに頬が緩むのを感じた。


(宝か……)


 志乃の快活な笑い声。


 女中たちの落ち着いた優しさ。


 店の土間を駆け抜ける湯気と、人々の談笑のにおい。


 会津で血と死の中に身を置いた吾郎にとって、それはあまりにも遠い「人の暮らし」だった。


 なのに、その輪の中に入れてもらえた自分がいる。


(ここは、俺には……眩しすぎる)


 そんな思いを抱えながらも、志乃や女中たちが呼ぶ声に背を向けることはできなかった。


 大黒屋という空間は、悲しみと復讐に支配されていた吾郎の胸に、確かに温もりを注いでいたのだ。


 ——これほど恐ろしくも優しい場所が、他にあるだろうか。


 そして夜になると、再び小さな二階の部屋に戻る。


 布団の上で天井を見つめるたびに、志乃の笑顔が脳裏に浮かび、妹の桜を思い出して胸が軋む。


 苦しい。


 だが同時に、その苦しさの中に微かな救いのようなものがあった。


 吾郎は深く息をつき、ゆっくりと目を閉じた。


 外では、夜番の太鼓が遠くで鳴っていた。


 もしもこの平穏が一瞬だけでも長く続けばと。


 そんな淡い願いを、吾郎は生まれて初めて抱いた気がしていた。


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