8.再会
夜が明けて、まだ朝日が斜めに射し込む頃。
吾郎は大黒屋の二階の小さな部屋で目を覚ました。
昨夜は、久しぶりに布団にくるまって眠ったせいか、身体の芯まで休まった気がする。
無心に深い眠りに沈んでいたようだった。
襖の外は、まだ仕込みの湯気が立つような静かな音がしていた。
吾郎は布団をたたみ、支度を整えると階段を降りる。
一階に降り立った途端、吾郎の視界を鮮やかに射抜いたのは、箒を手に軽やかに動く少女の姿だった。
志乃——あの乾物屋で助けたばかりの娘だ。
思わず、息が詰まる。
夢でも見ているのかと疑うほど、その姿は昨日の記憶と寸分違わなかった。
志乃は縮緬の小袖を身にまとい、袖をたくし上げてせわしなく掃除をしていた。
肩に流れる黒髪は丁寧にまとめられていて、額に垂れる柔らかな毛が、掃除の動きに合わせて小さく揺れている。
それは、昨日の動揺と恐怖をまるで感じさせない、明るく元気な少女の姿だった。
「な、なぜ……?」
声にならない声が、吾郎の喉を擦れた。
志乃は、にこやかに箒を扱いながら時折他の給仕に声をかけていた。
店に染みついた朝の空気の中で、志乃だけが眩しく浮かび上がる。
志乃がふと視線に気づき、ぱっと花が咲くように笑顔を向けてきた。
「あっ……おはようございます、吾郎さん!」
その鐘の音のように美しい声に、吾郎の胸が強く締めつけられる。
一瞬にしてさまざまな思考が渦を巻いた。
志乃はぱっと笑顔を咲かせ、明るく声をかけてきた。
その快活さに、吾郎は思わず言葉に詰まる。
「……な、なぜここに?」
ぎこちない問いに、志乃はきょとんとして首を傾ける。
「え?……な、なぜって……ここはうちのお店ですもの」
志乃は当然のことのように笑う。
その笑顔に吾郎は戸惑うしかなかった。
「うちの父は乾物屋もやってますけど、ここ大黒屋の主でもあるんです。
乾物屋の方は忙しいから、こっちは私と女中の皆さんに任されていて……」
志乃は得意げに説明を続ける。
吾郎は心の中で驚愕していた。
まさか、金子に紹介された宿が志乃のいる茶屋だったとは。
志乃と話していると、周囲で掃除をしていた給仕の女性たちが次々に振り向いた。
志乃や吾郎よりも年上に見える。
「あ!この人が志乃ちゃんを助けてくれたっていう"達人"さん?」
「ちょっと!……話に聞いたより、ずっと男前じゃない!」
吾郎に対して、好奇心に満ちた声が次々に浴びせられた。
吾郎は思わず視線を泳がせ、声を詰まらせる。
「い、今はお掃除をしましょう!
もうすぐお店開ける時間なんですから!」
志乃が慌てて取りなすと、女中たちは仕方なさそうに笑い合いながら、再び箒を持って散っていった。
志乃は改めて吾郎に向き直る。
「昨日、金子さんがうちのお父さんと話してたんです。
しばらくの間、吾郎さんに二階のお部屋を貸してほしいってお願いしてくれて……。
父も昨日のことの御恩がありますから、二つ返事で承知してましたよ!」
志乃の瞳はきらきらしていた。
「私も、吾郎さんにお礼がしたかったですし……もちろん異存はありません!」
吾郎はその言葉に、またしても胸の奥が揺さぶられた。
金子の計らいには感謝すべきだ。
黒木の行方を探る拠点が見つかったのは僥倖だった。
だが、まさかこんなかたちで——志乃のいる場所で——過ごすことになるとは。
桜の幻影を、毎日突きつけられるようなものだ。
しかも、茶屋の二階から出入りするには、当たり前だが、志乃や給仕たちのいる座敷を通らねばならない。
顔を合わせずに済むはずもない。
桜ではないと頭では分かっていても、その面影に引き戻されるのが辛い。
もう二度と会わないつもりだったのに。
吾郎は無言で視線を逸らした。
志乃は不思議そうに、しかし人懐こい笑顔で首をかしげ、吾郎をじっと見上げていた。