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相思相殺  作者: 戌亥縁
8/22

8.再会

 夜が明けて、まだ朝日が斜めに射し込む頃。


 吾郎は大黒屋の二階の小さな部屋で目を覚ました。


 昨夜は、久しぶりに布団にくるまって眠ったせいか、身体の芯まで休まった気がする。


 無心に深い眠りに沈んでいたようだった。


 襖の外は、まだ仕込みの湯気が立つような静かな音がしていた。


 吾郎は布団をたたみ、支度を整えると階段を降りる。


 一階に降り立った途端、吾郎の視界を鮮やかに射抜いたのは、箒を手に軽やかに動く少女の姿だった。


 志乃——あの乾物屋で助けたばかりの娘だ。


 思わず、息が詰まる。


 夢でも見ているのかと疑うほど、その姿は昨日の記憶と寸分違わなかった。


 志乃は縮緬の小袖を身にまとい、袖をたくし上げてせわしなく掃除をしていた。


 肩に流れる黒髪は丁寧にまとめられていて、額に垂れる柔らかな毛が、掃除の動きに合わせて小さく揺れている。


 それは、昨日の動揺と恐怖をまるで感じさせない、明るく元気な少女の姿だった。


「な、なぜ……?」


 声にならない声が、吾郎の喉を擦れた。


 志乃は、にこやかに箒を扱いながら時折他の給仕に声をかけていた。


 店に染みついた朝の空気の中で、志乃だけが眩しく浮かび上がる。


 志乃がふと視線に気づき、ぱっと花が咲くように笑顔を向けてきた。


「あっ……おはようございます、吾郎さん!」


 その鐘の音のように美しい声に、吾郎の胸が強く締めつけられる。


 一瞬にしてさまざまな思考が渦を巻いた。


 志乃はぱっと笑顔を咲かせ、明るく声をかけてきた。


 その快活さに、吾郎は思わず言葉に詰まる。


「……な、なぜここに?」


 ぎこちない問いに、志乃はきょとんとして首を傾ける。


「え?……な、なぜって……ここはうちのお店ですもの」


 志乃は当然のことのように笑う。


 その笑顔に吾郎は戸惑うしかなかった。


「うちの父は乾物屋もやってますけど、ここ大黒屋の主でもあるんです。


 乾物屋の方は忙しいから、こっちは私と女中の皆さんに任されていて……」


 志乃は得意げに説明を続ける。


 吾郎は心の中で驚愕していた。


 まさか、金子に紹介された宿が志乃のいる茶屋だったとは。


 志乃と話していると、周囲で掃除をしていた給仕の女性たちが次々に振り向いた。


 志乃や吾郎よりも年上に見える。


「あ!この人が志乃ちゃんを助けてくれたっていう"達人"さん?」


「ちょっと!……話に聞いたより、ずっと男前じゃない!」


 吾郎に対して、好奇心に満ちた声が次々に浴びせられた。


 吾郎は思わず視線を泳がせ、声を詰まらせる。


「い、今はお掃除をしましょう!


 もうすぐお店開ける時間なんですから!」


 志乃が慌てて取りなすと、女中たちは仕方なさそうに笑い合いながら、再び箒を持って散っていった。


 志乃は改めて吾郎に向き直る。


「昨日、金子さんがうちのお父さんと話してたんです。


 しばらくの間、吾郎さんに二階のお部屋を貸してほしいってお願いしてくれて……。


 父も昨日のことの御恩がありますから、二つ返事で承知してましたよ!」


 志乃の瞳はきらきらしていた。


「私も、吾郎さんにお礼がしたかったですし……もちろん異存はありません!」


 吾郎はその言葉に、またしても胸の奥が揺さぶられた。


 金子の計らいには感謝すべきだ。


 黒木の行方を探る拠点が見つかったのは僥倖だった。


 だが、まさかこんなかたちで——志乃のいる場所で——過ごすことになるとは。


 桜の幻影を、毎日突きつけられるようなものだ。


 しかも、茶屋の二階から出入りするには、当たり前だが、志乃や給仕たちのいる座敷を通らねばならない。


 顔を合わせずに済むはずもない。


 桜ではないと頭では分かっていても、その面影に引き戻されるのが辛い。


 もう二度と会わないつもりだったのに。


 吾郎は無言で視線を逸らした。


 志乃は不思議そうに、しかし人懐こい笑顔で首をかしげ、吾郎をじっと見上げていた。


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