7.哪吒
夜が更け、東京の街は静寂に包まれていた。
時折、遠くから聞こえる人力車の車輪の軋みや犬の鳴き声が、かえって静けさを際立たせている。
茶屋「大黒屋」の二階。
窓は障子で閉ざされていたが、外から差し込む月明かりが薄く室内を照らしていた。
木の床は夜露のように冷たく、布団の上に横たわる吾郎の身体に、旅の疲れと緊張がじわりと滲んでいた。
薄く掛けた夜具の中で、吾郎は静かに天井を見つめていた。
枕元に置かれた小さな油灯が、揺らぐ橙の光で天井に淡い影を落としている。
あのあと、金子が茶屋の店主に話をつけてくれて、二階の部屋を吾郎に貸し出してくれることになった。
――落ち着かない。
部屋の静けさとは裏腹に、吾郎の胸の内は波立っていた。
金子の動揺、黒木の名を出したときのあの沈黙。
確かに何かを知っている。
吾郎には確信があった。
そのときだった。
部屋の隅、暗がりの中にある何もないはずの空間が、ふいにゆらりと揺らいだ。
まるで時の流れそのものがねじ曲がったかのように、そこだけ空気がざわめき、軋みを上げる。
畳の上を這う冷気が吾郎の肌に触れたその刹那、闇の中に細い裂け目が走る。
それはただの暗闇ではなかった。
黒よりもさらに深い黒、光すら呑み込むような異質な穴。
まるでこの世の理から外れた、別の層への通路のようだった。
空気は音もなく引き裂かれ、そこから、ぬるりと影のように女が現れた。
足音も立てず、気配すらない。
だがその存在は確かに、現実の重みを持って部屋に侵入してきた。
音もなく、その切れ目から一人の"女"が姿を現した。
長い黒髪が夜の闇に溶け込みそうなほど艶やかで、白磁のように滑らかな肌。
緋色の着物を身にまとい、どこか現実離れした美貌が、月光を浴びて妖艶に浮かび上がる。
それは、かつて会津戦争の最中、吾郎が頭に銃弾を喰らい死の淵をさまよったときに出会った謎の美女だった。
女は何事もなかったかのように、布団に横たわる吾郎のそばに、すっと腰を下ろした。
「どう、吾郎。順調かしら?」
その声音は甘く、どこか楽しげだった。
「昼の動き。随分力の加減が上手になったわねえ」
どこか小馬鹿にしたような声音だった。
「前なら、手加減できなくてすぐ殺しちゃってたのに、流石に慣れたのね」
女は、笑いながら言った。
吾郎は黙ったまま、反応を見せない。
「……あの金子って親父、明らかに動揺してたわねえ。
思わず笑っちゃいそうになったわ」
女はくすくすと笑い声を上げた。
高く、乾いたその笑いは、静寂に包まれた室内で異様に響いた。
「黒木には、たどり着けそうかしら?」
女は身を屈め、横になる吾郎の顔を覗き込むようにして問いかけた。
吾郎はそれでも彼女を見ず、天井を見つめたまま静かに言った。
「……わからない。でも、金子さんは確実に何かを知っている」
女は微笑んだ。
「うふふ。そのようね」
そのまま、女は吾郎の黒髪に指先を滑らせる。
女の手は冷たくも温かくもなく、ただひたすらに滑らかで、現世の感触とは思えないものだった。
「でも……」
ふと、女の笑みが陰りを帯びる。
「……なんだ?」
吾郎が目を閉じたまま問い返す。
「今日はもう一つ、面白いものが見れたわ。あの、志乃って娘」
その名を耳にした瞬間、吾郎のまぶたがぴくりと震えた。
「ふふ。あんなに動揺した吾郎、いつぶりかしら」
女は楽しげに言った。
「……」
「ねえ……あたしは、黒木よりもあっちの方が楽しみかも……」
「哪吒っ!」
吾郎は布団から勢いよく身を起こし、女の方を鋭く睨みつけた。
彼の鋭い視線を受けても、女――哪吒は顔に笑みを浮かべていた。
「もう、怖い顔しないでよ。怒った顔も素敵だけどね」
そう言って、哪吒は静かに近づき、吾郎の身体をそっと抱きしめた。
その大きな胸が、吾郎の頬に柔らかく触れる。
甘い香が、静かに鼻腔をくすぐった。
「大丈夫よ。あたしがそばにいるから、全部うまくいくわ」
その言葉には、何か底知れぬ力が込められていた。
抱きしめられた吾郎の身体から、張りつめていた気が次第に抜けていく。
それが安堵なのか、支配なのか、彼自身にも分からなかった。
やがて、吾郎は力を抜き、目を閉じた。
旅の疲れもあってか、彼はそのまま静かに、深い眠りへと落ちていった。
哪吒は吾郎を抱いたまま、月明かりに濡れる障子を静かに見つめていた。
その唇に浮かんだ笑みは、まるで人ではない何かのように、静かに、しかし底知れぬ喜びを孕んでいた。