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相思相殺  作者: 戌亥縁
6/22

6.復讐

 夕暮れの陽が、東京の街並みに赤い影を落としていた。


 瓦屋根の連なる通りが橙色に染まり、軒先の行灯にぼんやりと灯がともる。


 微かに漂う煮染めの匂いと、遠くで響く三味線の音が、文明開化の空気と古き江戸の名残を同時に運んでくる。


 吾郎は、金子に指示された茶屋「大黒屋」の前に立っていた。


 屋号の書かれた看板は煤け、暖簾は薄く色褪せていたが、角が丁寧に繕われ、主の几帳面な気質が伺えた。


 道行く人の足音もここには届かず、まるで時間が止まってしまったかのような静けさが店の前に漂っていた。


 吾郎は黙って暖簾を押し分けると、控えめな鈴の音を背に、薄暗い店内へと足を踏み入れた。


 店内には客の姿はなかった。


 磨かれた床板が、夕日を受けて仄かに光っている。


 静寂に包まれた空間には、湯の沸く音だけが細く響いていた。


 奥の座敷にただ一人、先ほどの巡査・金子が胡坐をかいて座っていた。


 煤けた障子越しに差し込む橙の光が、彼の横顔を柔らかく照らしている。


 湯気の立つ渋茶の湯呑が置かれ、その向こうに、年齢を重ねた男の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。


「こっちだ。……まあ、座れ」


 金子が声をかける。


 吾郎は躊躇なく、その向かいに腰を下ろした。


「この店はな、俺の馴染みの場所でね。昔から世話になってる。ここなら、誰にも話は聞かれん」


 吾郎は黙ったまま、視線を伏せた茶碗の縁に落とす。


 沈黙が少し続いた。


「色々……聞きたいことがある。」


 吾郎の声は低く落ち着いていたが、その底に潜むものは濁りのない決意だった。


 金子はわずかに息を止め、湯呑を置きながら視線を鋭くする。


「まずは……どうして東京にいる?」


 その問いに、吾郎は一拍だけ目を伏せた。


 ゆっくりと視線を金子に戻す。


「……殺したい人間がいるんです。」


 静かな響きが、店の片隅の空気を張り詰めさせた。


 金子は湯呑を持つ手を止め、あからさまに顔をしかめる。


「こ、殺したい……?おいおい……お前、何言ってる。俺は一応、今は警官だぞ。殺したいとか簡単に口にするな。」


 その苦い声にも、吾郎の眼差しは揺らがなかった。


 金子は小さくため息を吐き、茶をすすったあとで目を細める。


「……で、誰なんだ、その“殺したい奴”ってのは。」


 店の外からは夜風が吹き込み、暖簾を揺らした。


 吾郎の心の奥底の闇が、にじみ出るように言葉となる。


「……黒木、利三郎」


 その名を口にした瞬間、金子の手が止まった。


 微かに茶碗の中の湯が揺れる。


 金子は表情を変えずに、無言のまま吾郎を見る。


「……」


「東京に来る前、会津の仲間に会いました」


 吾郎が続ける。


「その人が言っていたんです。東京で黒木の情報を得たいなら、金子さんを頼れと。金子さんは警官として今も東京で潜伏してる。きっと何か知っているはずだと」


 金子は大きく息を吐いた。


「そりゃ……驚いたな。……だが、どうやって俺を見つけるつもりだった?警視庁に尋ねて来でもしたら、取り調べを受けて会津のもんだとバレかねん」


 吾郎は無表情のまま淡々と答えた。


「……警察署の場所は分からなかったので、適当に騒ぎを起こせば、警官が集まってくるはずだと……そう思いました。そうすれば金子さんにも、会えるかもしれないと」


 その言葉を聞いた金子は心の中で呟いた。


(なんて奴だ……)


 ──この男が、あの吾郎?


 俺が知る吾郎は、虫も殺せぬような童だった。


 最後に見たのは、もう十年以上前、維新の戦が始まる前だったが、その時の吾郎は親の背を追って歩くのがやっとの気弱で泣き虫な子どもだった。


 それが今、目の前に座っているのは……恐ろしく肝の据わった男。


 眼差しに揺らぎはない。


 言葉は少ないが、すべてを射抜くような力がある。


「……金子さん、黒木は今どこにいますか?」


 その問いに、金子は口を開きかけて、すぐに言葉を引っ込めた。


 吾郎の視線が刺すように鋭い。


 あらゆる嘘を見通すような光がそこにあった。


 金子の額に、汗が滲んだ。


「そんなこと、お、俺に聞かれてもな……」


 吾郎が金子に尋ねる。


「……会津での戦で、新政府軍を率いたのが黒木利三郎であることは、金子さんも耳にしていますよね」


「あ、ああ……」


 吾郎の声は低く、氷のように冷たかった。


「会津での戦の時、黒木は司令官として、全ての命令を下しました。


 民の家に火を放ち、女子どもも農民も分け隔てなく撃ち殺させた。


 もはや、戦ではない。一方的な虐殺でした。……会津の民の命、数千が一度に奪われました」


 吾郎の目の奥に深い暗い光が宿る。


「……戦が終わっても遺体を埋めることすら許さず、野ざらしにされた。


 あの夏の熱気の中で、肉は腐り、骨になるまで晒されました」


 吾郎の言葉は淡々としていたが、感情を押し殺す恐ろしい静けさがあった。


「黒木の命令で、会津という土地そのものが地獄に変えられた。


 焼かれ、奪われ、生き残った者も餓えさせられた。


 百姓から鍬や釜まで取り上げ、作物を作れないようにした。


 奴は、会津の民を生かす気など初めからなかった。」


 金子の胸が重くなる。


 五郎の語る言葉が、鋭い針のように心に刺さった。


「……黒木は、会津に死を撒いた張本人です。


 俺たちが生まれ育った町を燃やし尽くし、そこに住む人間をことごとく踏みにじった。


 ……何より、父上と母上、妹の桜が、俺の目の前であいつの引いた銃の引き金で殺されました。」


 金子は息を呑んだ。


 旧知の仲であった清忠も、吾郎の目の前で命を落としたのだ。


「黒木を殺さない限り……死んでいった会津の数千の人々も、俺の家族も、浮かばれません。


 戦からずっと……六年もの間、黒木を殺すことだけを考えて生きてきました。


 黒木をこの手で裁かなければ、俺が生きている意味はありません。


 だから、ここまで来たんです」


 張り詰めた空気が、茶屋の薄暗い空間を重く押し潰した。


 五郎の声には震えも激情もなく、ただ研ぎ澄まされた刃のような冷たさがあった。


 淡々と吐き出された言葉は、かえって金子の胸に深く刺さる。


 その痛みに耐えるように、金子は黙り込み、湯呑の縁を指でなぞった。


 重苦しい沈黙が二人の間に落ちる。


 茶屋の障子越しに、夕暮れの色がにじみはじめる。


 金子は長い沈黙の末、やっと口を開いた。


「……わ、わかった」


 金子の声には、どこか震えと焦りがにじんでいた。


「俺も会津の人間だ。……お前が言ったこと、全部わかってるさ。


 会津でのあの戦がどれだけ無惨だったか、どれだけの命が犠牲になったのか、もちろん知っておる……」


 言葉を続ける金子の目は、どこか苦しげだった。


「だがな、いきなり『居場所を教えろ』なんて言われても、そんなことは俺にだって……簡単にわかるわけがない。


 ただの警官なんだからな……」


 その言葉に、五郎はゆっくりと視線を向けた。


「……金子さん」


 その名前を呼ぶ声音に、微かにかつての少年の面影が混じる。


 だがもう、かつてのあどけない少年はそこにはいなかった。


「ただ……お前の気持ちはわかる」


 金子はふっと視線を落とした。


「俺だって、あの時会津にはいなかったが……旧会津の同胞として、あの戦のことを聞くと、腑が煮えくり返る思いだよ」


 金子の声は、どこか上擦っているように響いた。


「……でも、今すぐ俺が何かをしてやれるわけじゃない」


 金子はそう吐き出し、肩を落とした。


「だから……少し、時間をくれ」


 五郎は動かず、その黒い瞳をまっすぐ金子に向けた。


 無言のまま、ただ一度だけ頷いた。


 その気迫に、金子は微かに身を強張らせる。


「……俺の方で調べてみる。


 何か情報を掴んだら、必ず知らせる。


 だからお前は、それまで下手に動くな。


 大人しくしていろ」


 言いながらも、金子の中には複雑な想いが渦巻いていた。


 かつて知っていた少年が、いま冷たい目で仇を探し歩く復讐者になっている。


 しかも、その怒りはあまりに純粋で、逆に恐ろしくもあった。


 金子の言葉を受けて、五郎は一瞬視線を落とした。


 何を考えているのか分からない沈黙が流れる。


 その間に、金子の鼓動がやけに大きく響いた。


 そして五郎は、小さく口を開いた。


「……ありがとうございます。金子さん」


 その声音は、感情を削ぎ落としたように平坦で、しかし確かな決意に満ちていた。


 金子は目を逸らし、わざとぶっきらぼうに言い返した。


「……礼なんて、いらん」


 茶屋の湯はすっかり冷めていた。


 金子は震える指で湯呑をつまみ、唇を湿らせる。


 金子は、話題を変えるかのように徐に口を開いた。


「そ、そんなことよりも……お、お前に会うのは……いつぶりだ?吾郎。


 俺が江戸へ発つ前だから……そうだな、お前が十くらいの頃だったか?


 あのときは小さくて、背丈も茶碗棚くらいしかなかったのに……いやはや、こんなに立派になって!


 まったく驚いたよ。まさかこんな形で再会するとはな……ははは、世の中わからんもんだ」


 金子は、言葉を途切れさせることはなかった。


 湯呑を持ち直した手がわずかに震えている。


 目を逸らしながらも、無理に笑みを作っているのが明らかだった。


 吾郎は、その様子をじっと見つめていた。


 言葉の端々、目線の揺れ、わずかな手の震え。


 金子の戸惑いと恐れを、吾郎は見逃していなかった。


 視線は淡々としていたが、その奥では何かを計っているような、深く静かな光が揺れていた。


「ま、まあ……今日は休め、吾郎。


 長旅で疲れてるだろう。


 この茶屋はな、俺の馴染みなんだ。


 二階が空いてるはずだ。


 後で話をつけてくるから、ここで休んでいろ」


 言い訳にも近い言葉を残して、金子は立ち上がった。


 吾郎は何も言わず、ただじっと金子を見つめていた。


 金子は目を合わせないまま、歩を進める。


 去り際、立ち止まり、背中を向けたままぽつりと呟いた。


「……会津での戦。


 大変だったな。


 父上と母上のこと、気の毒に思う。


 ……お前が立派になって……清忠もあの世で喜んでるだろう」


 吾郎は動かず、ただ座ったまま、その言葉を受けていた。


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