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相思相殺  作者: 戌亥縁
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5.志乃

 静まり返った乾物屋の前で、娘はゆっくりと口を開いた。


「あ、あの……私、白川志乃と申します。先ほどはありがとうございました。」


 志乃。


 その名を聞いた瞬間、吾郎の胸の奥で何かが弾けた。


 当たり前だが、妹・桜の名とは違う──それでも、彼が見ているのは、まぎれもなく死んだ妹の姿だった。


 あの時桜は十四歳で、おそらく志乃より二、三歳は年下だ。


 だが、その顔立ち、髪の流れ、目元の儚い風情。


 すべてが桜の再来だった。


 吾郎は、しばし言葉を失った。


 思考が揺らぎ、喉奥が乾いた。


 焦点の合わない視線で志乃を見ていると、彼女がそっと顔を背ける。


「そ、そんなに見つめられると……ちょっと恥ずかしいのですが……」


 羞恥と申し訳なさを含んだ志乃の可愛げな微笑に、吾郎はハッと我に返った。


「あ、あの!おじさまのお名前を……聞いてもいいですか?」


 ――おじさま。


 わずか数文字が、吾郎の胸に刺さった。


 だが、吾郎はなるべく平静を装って答えた。


「……三島、吾郎。年は……21」


 そう聞くと、志乃が目を見開いた。


「ご、ごめんなさい!おじさまなんて……で、では“吾郎さん”って呼んでいいですか?」


 吾郎は無表情のまま短く頷く。


「わぁ、ありがとうございますっ!」


 志乃は喜びの声を張り上げ、礼をするようにぺこりと頭を下げた。


 その姿が、吾郎の胸に言いようのない痛みを呼ぶ。


 彼女の言葉が続く。


「本当にありがとうございました……!


 父と二人、もうどうなっちゃうかと思ったんです。


 あの人たち、以前はお店によく来てくれてて……すごく優しかったんですよ」


 志乃は話すたびに、照りつける陽の光や頬を撫でる風を味方につけているかのように、活き活きとした輪郭を浮かび上がらせていた。


 その笑顔の影に潜むもの──吾郎にとって、それは桜と重なる少女だった。


 街角のざわめきを背景に、彼女は続けた。


「でも、最近は急に……怒鳴り声で呼びつけるようになって……今日なんか物をむしり取るように奪おうとしてきたんです。


 父も止めるヒマもなくて」


 志乃の言葉に、吾郎は思考した。


 ──実際、あの暴徒たちは“不平士族”、つまり秩禄処分によって俸禄も身分も奪われ、生活を立て直せないまま暮らす元武士たちのはず。


 彼らも、かつての自豪と誇りを捨てきれず、社会の中で満たされぬ劣等感と焦燥を抱いている。


 それが現代になじまない暴力へと爆発し、やがて路上での強奪となって現れる。


 志乃は一息に続けた。


「父なんて、あの人たちが来るといつもニコニコして、『またいつもの常連さんか』って思ってたんです。


 それが急に、あんな乱暴な口調に変わって…。


 あれからもう、夜は眠れなくて……」


 小さな背中が震えている。


 志乃は、声をわずかに震わせていたが、それでも笑顔を浮かべようとしていた。


「でも、吾郎さんが助けてくれたおかげで、私も父も無事です!


 本当にありがとうございます!」


 彼女の明るい声に、吾郎の心はきゅっと痛み、胸に何かが飲み込まれていった。


 吾郎はあと少しで言葉を口にしそうになりながらも、視線を宙に滑らせた。


「……そうか。よかったな。」


 その声は呟きに近かった。


 志乃が首をかしげる。


「え、あ、あの!私と父を助けていただいたお礼を、ぜひ……」


 志乃が言い終わる前に吾郎は答える。


「いや……もういい。迷惑はかけられん」


 吾郎は静かにそう言い残すと、志乃に背を向けた。


 その声音には、拒絶というにはあまりに哀しみが混じっていた。


 まるで、自分自身に言い聞かせるような、そんな響きだった。


 志乃は悲しそうな声で呟いた。


「え……」


 吾郎は歩き出した。


 足取りは重くはなかったが、どこか引き裂かれるような痛みが胸の奥で燻っていた。


 ──目の前にいたのは桜じゃない。


 志乃という、別の人間だ。


 そう何度も自分に言い聞かせても、彼女の笑い声や、瞳の動き、顔の輪郭に至るまで、桜の幻影が重なってしまう。


 それが、辛かった。


 思い出すのだ。


 平和な会津の街で、まだ無垢だった日々。


 雪の中を駆けまわり、語り合った幼き日の桜。


 井戸の水でびしょ濡れになって笑い転げたあの夏の午後。


 夕暮れ、囲炉裏端で寄り添った家族の温もり。


 そして、それがすべて灰に帰したあの日。


 血と火薬と絶望の渦のなかで、桜は自分のすぐそばで、あっけなく息を引き取った。


 志乃を見ていると、そのすべてが蘇る。


 心の奥に押し込め、必死に蓋をしてきた記憶が、容赦なくあふれ出してくる。


 ──桜は、もういない。


 先ほどの娘は似ているだけだ。


 けれど、似ていれば似ているほど、吾郎の心はかき乱される。


 違いを認めることが、死を認めることになるからだ。


 吾郎の拳がわずかに震えた。


 袖の奥で、爪が掌に食い込んでいる。


(……もう会うことはないだろう)


 振り返らなかった。


 志乃の気配が背後に残っているのを感じながらも、吾郎はまっすぐ前だけを見て歩いた。


 志乃は、その後ろ姿をじっと見つめていた。


「あ……」


 声にはならなかった。


 ただ唇が、そう動いただけだった。


 その目は、何かを言いたげで、でも何も言えないまま、懸命にその背を追っていた。


 吾郎は、街の喧騒に紛れるように路地裏へと消えていった。


 志乃は、その背が角を曲がって見えなくなるまで、じっと見送っていた。


 通りに再び活気が戻り始めた。


 道を行き交う人々の話し声や荷車の軋む音が、日常の音として街に染み込んでいく。


 志乃は、寂しげな表情を浮かべながら、店先にしゃがみ込み、店の前に転がっていた米俵や味噌樽を拾い始めていた。


 そのときだった。


 通りの向こう、曲がり角の影から一つの人影が、じっとこちらを見ていた。


 一見すると通行人のように見えるその男は、風呂敷包みを背負い、薄汚れた着物を身にまとっていた。


 だが、その目は違った。


 通りの喧騒の中で、ひときわ異質な静けさを漂わせながら、志乃を凝視していた。


 その視線は、まっすぐに志乃へと注がれていた。


 目元に貼りついたような冷ややかな笑み。


 左頬の傷跡が赤く光り、口元がわずかに歪んでいた。


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