4.幻影
警官たちの威圧的な包囲にも、笠の青年――三島吾郎は微動だにせず、静かに立ち尽くしていた。
先頭に立つ若い警官が、腰の警棒を固く握りしめたまま、吾郎と向き合う金子に小声で問いかけた。
「……か、金子殿のお知り合いですか?」
その問いに、金子は一瞬だけ眉を僅かに動かし、視線を宙に泳がせた。
表情は平静を装っていたが、その内心は波立っていた。
「……いや、その……昔、一、二度会っただけの……知人の子でな!詳しくは……知らんのだ」
金子は言いよどみながらも、なんとか声を絞り出した。
普段は冷静な彼にしては珍しく、明らかに言葉が乱れていた。
若い警官は首をかしげたまま納得しきれない様子だったが、深追いはしなかった。
「そうですか……騒ぎの様子は遠目から見えていましたが、その……動きが尋常じゃなかったですから!何者かと思いましたよ」
「ま……まあな……」
金子は口調を戻しつつ、周囲を一瞥し、他の警官たちの視線を意識する。
迂闊な発言が、自らの正体を暴くことにもなりかねなかった。
彼は今、表向きは新政府配下の巡査であるが、実は吾郎と同じ会津藩の出身であった。
戊辰戦争が起こる直前、藩主・松平容保公の命で、新政府に密偵として入り込み、維新後は出自を隠して警察組織に属している身であった。
金子は、吾郎の父・清忠とは旧知の仲だった。
そのため、吾郎のことは当然知っていた。
藩主の命で江戸、そして東京を中心に活動していた金子は、会津戦争の難を逃れている。
しかし、その凄惨さは後から当然耳にしていた。
だからこそ、その惨劇の中で幼い吾郎が生き延びていたとは露にも思っていなかった。
同時に、目の前にいる男は、自分が知る無垢で純朴な少年だった吾郎とはあまりにも異なっていた。
驚愕と動揺を懸命に押し殺しながら、金子は吾郎に背を向けるふりをして、低く囁いた。
「……後で、あの角の『大黒屋』に来い。表通りを抜けた左手、黒塀の茶屋だ」
吾郎は頷きもせず、ただわずかに視線を動かした。
それだけで、金子には通じた。
警官たちはその場を離れ始めた。
彼らが去ると、つい先ほどまで喧騒に満ちていた通りは嘘のように静まり返った。
野次馬も、強盗たちも、もはや誰一人として残ってはいなかった。
乾物屋の前に佇む吾郎の足元には、破れた米俵と砕けた味噌樽が転がり、店先は見るも無惨な有様だった。
そのとき、奥から店主でゆっくりと姿を現した。
店主は、細身ながら背筋を伸ばし、穏やかで人の好さそうな初老の男性だった。
歳の割に髪はふさふさとしており、灰色に染まり始めた頭を小さな手拭いでぬぐっていた。
「……あ、あの、御仁。先ほどは……誠に、ありがとうございました」
店主は吾郎に対して深々と頭を下げた。
声にかすかな震えが混じっていたが、それは恐れではなく、心からの感謝だった。
吾郎は無表情のまま軽く頷いたきり何も言わず、踵を返そうとした。
その瞬間だった。
「あ、あのっ!」
彼の進路を一人の少女が遮った。
先ほど暴徒から救った、店主の娘である。
着物の裾を握りしめ、俯いたまま、吾郎の前に立ち塞がっていた。
「……本当に、ありがとうございました。貴方様は……その……命の恩人です」
震えた声ながら、懸命に言葉を紡ぐその様子には、幼さの奥に強い意志が感じられた。
吾郎は娘に背を向けようとしたが、娘は再度吾郎の前に立ち、俯いたままその場から動かなかった。
「……どいてくれ」
吾郎が低い声で告げるも、娘は沈黙したまま動こうとしない。
「……」
しばしの沈黙のあと、吾郎は仕方なく目線を下げ、娘の顔を見た。
そして、時間が止まった。
娘の顔が、風に揺れる蝋燭のように、かつての記憶を灯した。
白く整った額、切れ長の目元、淡い紅を差した唇。
そして何より、その目の奥にある、微かに宿る強さ――それら全てが、かつての妹・桜と寸分違わぬものだった。
「……桜……?」
吾郎はかすれた声で、思わずその名を呟いた。
娘は怪訝そうな顔をした。
だが吾郎はその表情すら見ていなかった。
すでに目の奥には、あの時の記憶が去来していた。
妹の桜が目の前で殺され、血の中に沈んでいったあの瞬間。
誰も救えなかった無力な自分。
そして、今目の前に立つこの娘――それはまるで、神が差し出した過去の亡霊のようだった。
風が吹き、街の喧騒が徐々に戻り始めた中で、吾郎の肩がほんのわずかに震えていた。