3.東京
会津戦争から六年。
明治七年、東京。
かつて江戸と呼ばれたこの地は、旧幕府の残り香をかすかに残しながらも、新たな時代のうねりの中で姿を変えつつあった。
明治維新という名の大改革は、徳川三百年の歴史を覆し、薩摩・長州を中心とした新政府が樹立された。
西洋化の名のもとに、制度も風俗も日々塗り替えられていった。
この年、東京には日本初の近代警察組織「警視庁」が設けられた。
欧州の制度に倣ったその組織は、六大区十六小区に警察署を配し、巡査による巡回と犯罪予防が本格的に始まった。
街には制服を纏った巡査が立ち、秩序と威厳を帯びた存在として市民の目に映っていた。
だがその裏で、士族の不満は燻り続けていた。
職を失い、名誉を失い、居場所を奪われた者たちは、時に刃を手に取り、時に徒党を組み、都の片隅で暴力に訴えた。
華やかな文明開化の表通りの裏では、依然として陰が蠢いていた。
治安は改善の兆しを見せつつも、そこかしこに火種は残っていたのである。
そして今日もまた、その火種は繁華街の一角を襲っていた。
「この味噌樽はもらって行くぞ!ありがたく思え、爺!」
「おいおい、こんな腐りかけの米しか置いてねぇのかよ!」
乾物屋の前で、五人の粗暴な男たちが怒声を上げ、店内を荒らしていた。
顔は煤け、着物は擦り切れ、腰には手入れもされぬ脇差。
目には正気の光がなかった。
腰に差された脇差が、かつて彼らが武士であった名残を語っていた。
店主が両手を広げて立ちふさがるが、その身体は小刻みに震えていた。
「お、お願いです……!それだけは……!」
「うるせえッ!」
男の一人が、背中の袋で店主の顔面を殴りつけた。
鈍い音と共に、店主は石畳に崩れ落ち、鼻から血を流して呻いた。
「偉そうにしやがって……俺たちは、死に物狂いでお前らみたいな連中のために戦ってやったってのによ……!」
「その通りだ!薩長の馬鹿どもに尻尾振ってりゃ、こんな目に遭わずに済んだんだよ!」
男たちの言葉には、酒気と怨嗟が混ざっていた。
彼らにとって、奪うことは復讐であり、誇りの残骸だった。
「お!こいつ……いい面してやがるじゃねぇか」
ふと、店の奥を物色していた一人が、物陰に隠れていた娘を見つけた。
「あ……ああ……」
年の頃は十六、七。
端正な顔立ちに、清楚な着物。
あどけなさの残る目が、恐怖で見開かれていた。
「へえ……こんな上玉が隠れてたとはな」
「や、やめろ!娘だけは……!」
店主の叫びが虚空に吸い込まれた瞬間、少女の腕が無理矢理引きずり出された。
「い……いやあッ……!」
少女のか細い声。
だが、野次馬たちは誰も動かない。
目を逸らし、距離を取り、己の無関係を祈るばかりだった。
その時。
「……いい加減にしろ」
低く、鋭く、よく通る声がその場の空気を裂いた。
群衆の最後方、黒い羽織袴を纏った一人の男が立っていた。
顔は広い笠に隠れて見えない。
「あ……なんだと?誰だあ?」
「おい、今何か聞こえたなあ?こん中に誰か死にたい奴がいるってことか?」
暴徒の男たちが店から出て群衆の方に歩み寄る。
群衆は海を割ったように暴徒達を避け、その先には声の主である笠の男が立っていた。
笠の男は暴徒の圧力には屈せず、淡々と言葉を続ける。
「貴様ら、腐っても士族であろう。
民に手を上げるとは、恥ずかしくないのか?」
その言葉は、男達の逆鱗に触れるのに十分だった。
「ははは!!何様のつもりだ、貴様は?……安心せい、今殺してやる!」
暴徒の一人が抜刀し、怒号と共に笠の男に斬りかかった。
――だが、その刹那。
その場の空気が、ふっと歪んだように見えた。
笠の男の身体が、まるで霧か幻影のように揺れ、斬撃は虚空を裂くだけだった。
その直後、何が起きたのか理解する間もなく、暴徒の顎に笠の男の掌底が突き上げられた。
乾いた破裂音と共に、男の首が不自然な角度でのけ反り、その巨体が数尺後方へ吹き飛んだ。
「はっ……?」
呻きにも似た声を漏らす暴徒たち。
次の二人が前後から飛びかかる。
だが――遅い。
笠の男は一歩も動かず、体をひねるだけで前方の攻撃を躱すと、背後の男の手首を寸分の狂いなく捉えた。
関節が悲鳴を上げるような音とともに、男の腕を極めながら、まるで小石を払うような一撃で大柄な体を空中に放り投げる。
男は回転しながら屋台の壁に激突し、板が軋んで砕けた。
もう一人には、足をわずかに踏み込んだだけで懐に入り、脛を鋭く払う。
男の体が宙に浮いた瞬間、刹那のためらいもなく踵が腹部にめり込んだ。
骨が砕け、空気が押し潰されるような鈍音が辺りに響き渡る。
男は地面に落ちる前に意識を失っていた。
すべては、一息で終わった。
残された暴徒たちは、一歩も動けずに立ち尽くしていた。
戦いというより、圧倒的な力による処刑だった。
観衆から、息を呑むようなどよめきが漏れた。
誰もが見た。
それは間違いなく人間の動きではなかった。
観衆が見たのは、もはや「人」ではない何かだった。
「……な、なんだ今の……?」
「あの笠の男、なんて強さだよ……」
圧倒的な力の差を見せつけられ、暴徒たちは完全に戦意を喪失しているようだった。
地面に倒れた仲間を見下ろし、唖然としながら後ずさる者もいれば、震える手で脇差に手をかける者もいたが、誰ひとり抜こうとはしなかった。
あまりにも速い身のこなし。
その場にいた誰もが、笠の男の一挙手一投足に釘付けとなっていた。
だが次の瞬間、鋭く割れるような怒声が空気を裂いた。
「貴様ら!何の騒ぎだ!」
「全員、その場を動くな!」
警官たちが十名ほど、道の両端から駆け込んできた。
黒羽織に短銃、警棒を携え、隊列を組む様子には威圧感があった。
騒ぎを聞きつけ、急行してきたのだろう。
その姿を見て、他の無傷の暴徒たちは顔を歪めた。
「……ちっ、まずい!」
「おい、逃げるぞ!このままだと皆、獄に放り込まれる!」
「くそが……あの野郎のせいで!」
誰ともなく怒号を残し、男たちは転げるようにその場から散っていった。
敗残兵のような姿で、背を丸めて雑踏の中へと消えていく。
その場には静寂が訪れた。
だが、笠の男――彼だけは動かなかった。
逃げようともせず、ただ静かに、まるで地に根を張った古木のようにその場に立ち続けていた。
警官たちが一斉に黒塗りの木製警棒を構え、笠の男に取り囲む。
「おい、貴様!貴様も共犯か?笠をとれ!!」
警官隊を率いている一人の中年の巡査が警戒を解かぬまま前に出ると、じりじりと距離を詰め、男の笠に手をかけた。
――空気が張りつめた。
誰もが息を呑んだ。
ゆっくりと、中年巡査が笠を外す。
現れたその顔を見た瞬間、巡査は目を大きく見開き、そして声を震わせた。
「お……お前……!!まさか……吾郎か!?」
笠の男――三島吾郎は、まっすぐにその男の目を見据えて頷いた。
「……お久しぶりです、金子さん」
低く落ち着いた声だった。
だがその声には、不思議な力がこもっていた。
言葉そのものよりも、その存在感が場を支配していた。
金子と呼ばれた男は、唖然としたまま、目の前の男の顔を凝視した。
六年前。
会津戦争の惨劇にあった時の吾郎の面影は、もはやわずかにしか残っていなかった。
かつては、あどけなさの残る少年だった――頬に丸みがあり、眼差しにはまだ世界の残酷さを知らぬ幼さがあった。
だが今、その顔は精悍に引き締まり、まるで刀の刃のような鋭さをたたえていた。
鼻筋は通り、顎のラインはしなやかな緊張感に満ちていた。
額の端には、かつて撃たれた銃弾の痕が、焼き印のように深く刻まれていた。
六年という歳月が、少年を男へと鍛え上げていた。
だがそれは、ただの成長ではないようだった。
死地をくぐり、憎悪を抱えて生き延びた者だけが持つ、“死の匂い”を纏っていた。
金子はその姿に、言葉を失った。
まるで亡霊でも見るかのように一歩後ずさり、声を絞り出すように呟いた。
「い……生きてたのか……お前……」
吾郎は微笑まなかった。
ただ静かに、金子の言葉を受け止めた。
その目には、涙も、怒りもなかった。