2.契約
焦げた血と土の匂いが、鼻腔を刺す。
深い意識の淵に沈みながら、15歳の少年・三島吾郎は、焼け落ちた会津の街を見ていた。
熱を失った身体は、もう人のそれではなかった。
何かが流れ出し、何かが壊れ、ただ静かに終わりを迎えようとしていた。
そのときだった。
風も音もないはずの世界に、奇妙な気配が差し込んできた。
「……起きなさい」
声は、耳で聞こえるのではなかった。
骨の奥に直接囁かれたような、ひどく冷たく、甘い響き。
吾郎が目を開けると、そこはもうあの焼け野原ではなかった。
灰すら舞わぬ"暗闇"。
天地の境さえもわからぬ、虚空の空間。
そこに、ひとりの女が立っていた。
その女は、ただそこに立っているだけで、世界が静まり返るような存在感を放っていた。
漆黒の闇を背景に、ひときわ鮮やかな姿が浮かび上がっていた。
妖艶な紅の着物は、吉原の最上級の花魁すら嫉むであろうほど豪奢な意匠で、金糸銀糸で刺繍された桜と蝶が、淡い光の中で艶めかしく揺れていた。
腰のあたりで大きく締められた帯は、女のくびれをいっそう際立たせ、まるでこの世の理から逸脱したかのような曲線を描いていた。
胸元は大胆に開かれ、雪のように白く滑らかな肌が覗いている。
着物の布が弾けてしまいそうなほど、その胸は豊かだった。
その人間離れした魅力を放つ肢体は、15歳の少年にはあまりに刺激が強すぎた。
肌は白磁のように透き通り、どこにも陰りがない。
長く、波打つような黒髪は背中まで垂れ下がり、闇に溶けるような艶を帯びていた。
動くたび、さらりと流れるその髪が、不自然なまでに整っているのは、もはや人ではない証のようでもあった。
そして、何よりも――その顔。
絶世の美女。
そんな凡庸な表現すら、この女の前では陳腐だった。
目元は切れ長で、まつ毛は扇のように長く、唇は朱を引かなくても紅のように鮮やかだった。
薄く笑ったその顔には、人の情など一片も浮かんでいない。
だが、それでも、抗えぬ魅力があった。
「ようやく会えたわね」
「……あ、あなたは……?」
吾郎はか細い声で問う。
だが、女はふふっと微笑むと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「名前など、どうでもいいの」
「ここは……どこ……?僕は……撃たれたはずじゃ……」
「ええ。あなたは確かに死んだ」
「え……」
謎の美女は続ける。
「けれど、あなたの憎しみは死ななかった。
むしろ、今から"生き始めた"。
あなたの魂に刻まれた憎しみと怒りが、あなたをこの場所へと導いたのよ」
「憎しみ……」
吾郎は、目を閉じる。
両親が撃たれた瞬間。
妹・桜の震える声。
「兄上、みんなを守って」――その言葉を残して倒れた妹の小さな背。
銃を握っていた黒木利三郎の顔。
悲しみと怒りが、胸を締め付ける。
「あなたは、まだ終われない。
そうでしょう?」
女は吾郎の頬に手を添える。
指先はひどく冷たいのに、不思議と心は落ち着いた。
「あなたに力をあげる。
その手で、憎む者を全て殺し尽くしなさい。
あなたの思いを遂げるの」
「……力?」
「ええ。
あなたが望めば、あたしがどんな力でも与えてあげる。
あたしはあなたの望みを叶える存在になる」
「そ、そんなこと……」
「できるわ。
なぜなら、あなたが今ここにいること自体が、もう人の理を超えているもの」
吾郎はしばらく黙っていた。
やがて、唇が動く。
「……奴を殺したい。
黒木を殺して、僕の家族の魂を――」
女はその言葉を遮るように、吾郎の胸に手を置いた。
すると、吾郎の体内に何かが流れ込んでくるのを感じた。
熱い。
鋭い。
重い。
少年の身体の隅々まで行き渡る、鉛のような感覚。
まるで、少年の体に"憎悪"という水が流れ込んでいるようだった。
目の奥が焼けるように痛い。
吾郎の視界は、赤く染まっていた。
「うふふ、よくできました。
これで、あなたは戻れるわ。
でもね……」
女はふっと笑う。
「この契約には、代償があるの。
けれど、今それを知る必要はない。
時が来れば、あなた自身が思い出すことになるから」
吾郎は、真っ赤に染まった虚ろな眼で目の前の女を見据えた。
「……」
「ただ一つだけ言っておくわ。
あなたはもう"人"には戻れない。
それでも、進みたい?」
答えはわかっていた。
吾郎は、静かに頷いた。
女の姿が、闇の中に溶けていく。
「また会いましょうね、吾郎。
あなたが憎しみと共に生き続ける限り、あたしはいつでもそこにいるから――」
その言葉を最後に、吾郎の意識は現実へと引き戻された。
視界が暗転し、すべてが遠のいた。
やがて――風の音と、焦げた木の匂いが鼻を突いた。
「……ッ!」
吾郎はゆっくりと目を開けた。
重く粘るような瞼の裏側には、まだ女の声が残響していた。
彼が目を覚ました場所は、鶴ヶ城のすぐ近く、かつて自宅があった通りのはずだった。
だが、そこはもはや故郷の面影を留めていなかった。
焼け焦げた家々が骨組みだけを晒し、瓦礫と灰が地面を覆っていた。
吾郎は仰向けのまま、しばらく動けなかった。
空が、濁った赤に染まっている。
耳には風の音だけが吹き込んでくる。
生きているのか、死んでいるのか、それすら判然としなかった。
だが、次の瞬間――手の甲が何か冷たいものに触れた。
隣に倒れていたのは、父の清忠だった。
目を開いたまま、既に事切れている。
すぐ傍には、母の遺体。
そして、少し離れたところに妹・桜の小さな身体が横たわっていた。
吾郎の瞳が、震える。
あれは夢ではなかった。
あの惨劇は、すべて現実だったのだ。
「……桜……」
名を呼ぶような声が漏れるが、少女は永遠に応えない。
唇の端に、乾いた血がこびりついていた。
吾郎は震える手で、自分の額に触れた。
生暖かい感触。
血ではなかった。
むしろ、皮膚は乾いている。
額の中心、黒木に撃たれた場所に、くっきりと弾痕のような傷跡があった。
だが不思議なことに、血は既に止まり、傷は固く塞がれていた。