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相思相殺  作者: 戌亥縁
2/19

2.契約

 焦げた血と土の匂いが、鼻腔を刺す。


 深い意識の淵に沈みながら、15歳の少年・三島吾郎は、焼け落ちた会津の街を見ていた。


 熱を失った身体は、もう人のそれではなかった。


 何かが流れ出し、何かが壊れ、ただ静かに終わりを迎えようとしていた。


 そのときだった。


 風も音もないはずの世界に、奇妙な気配が差し込んできた。


「……起きなさい」


 声は、耳で聞こえるのではなかった。


 骨の奥に直接囁かれたような、ひどく冷たく、甘い響き。


 吾郎が目を開けると、そこはもうあの焼け野原ではなかった。


 灰すら舞わぬ"暗闇"。


 天地の境さえもわからぬ、虚空の空間。


 そこに、ひとりの女が立っていた。


 その女は、ただそこに立っているだけで、世界が静まり返るような存在感を放っていた。


 漆黒の闇を背景に、ひときわ鮮やかな姿が浮かび上がっていた。


 妖艶な紅の着物は、吉原の最上級の花魁すら嫉むであろうほど豪奢な意匠で、金糸銀糸で刺繍された桜と蝶が、淡い光の中で艶めかしく揺れていた。


 腰のあたりで大きく締められた帯は、女のくびれをいっそう際立たせ、まるでこの世の理から逸脱したかのような曲線を描いていた。


 胸元は大胆に開かれ、雪のように白く滑らかな肌が覗いている。


 着物の布が弾けてしまいそうなほど、その胸は豊かだった。


 その人間離れした魅力を放つ肢体は、15歳の少年にはあまりに刺激が強すぎた。


 肌は白磁のように透き通り、どこにも陰りがない。


 長く、波打つような黒髪は背中まで垂れ下がり、闇に溶けるような艶を帯びていた。


 動くたび、さらりと流れるその髪が、不自然なまでに整っているのは、もはや人ではない証のようでもあった。


 そして、何よりも――その顔。


 絶世の美女。


 そんな凡庸な表現すら、この女の前では陳腐だった。


 目元は切れ長で、まつ毛は扇のように長く、唇は朱を引かなくても紅のように鮮やかだった。


 薄く笑ったその顔には、人の情など一片も浮かんでいない。


 だが、それでも、抗えぬ魅力があった。


「ようやく会えたわね」


「……あ、あなたは……?」


 吾郎はか細い声で問う。


 だが、女はふふっと微笑むと、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「名前など、どうでもいいの」


「ここは……どこ……?僕は……撃たれたはずじゃ……」


「ええ。あなたは確かに死んだ」


「え……」


 謎の美女は続ける。


「けれど、あなたの憎しみは死ななかった。


 むしろ、今から"生き始めた"。


 あなたの魂に刻まれた憎しみと怒りが、あなたをこの場所へと導いたのよ」


「憎しみ……」


 吾郎は、目を閉じる。


 両親が撃たれた瞬間。


 妹・桜の震える声。


「兄上、みんなを守って」――その言葉を残して倒れた妹の小さな背。


 銃を握っていた黒木利三郎の顔。


 悲しみと怒りが、胸を締め付ける。


「あなたは、まだ終われない。


 そうでしょう?」


 女は吾郎の頬に手を添える。


 指先はひどく冷たいのに、不思議と心は落ち着いた。


「あなたに力をあげる。


 その手で、憎む者を全て殺し尽くしなさい。


 あなたの思いを遂げるの」


「……力?」


「ええ。


 あなたが望めば、あたしがどんな力でも与えてあげる。


 あたしはあなたの望みを叶える存在になる」


「そ、そんなこと……」


「できるわ。


 なぜなら、あなたが今ここにいること自体が、もう人の理を超えているもの」


 吾郎はしばらく黙っていた。


 やがて、唇が動く。


「……奴を殺したい。


 黒木を殺して、僕の家族の魂を――」


 女はその言葉を遮るように、吾郎の胸に手を置いた。


 すると、吾郎の体内に何かが流れ込んでくるのを感じた。


 熱い。


 鋭い。


 重い。


 少年の身体の隅々まで行き渡る、鉛のような感覚。


 まるで、少年の体に"憎悪"という水が流れ込んでいるようだった。


 目の奥が焼けるように痛い。


 吾郎の視界は、赤く染まっていた。


「うふふ、よくできました。


 これで、あなたは戻れるわ。


 でもね……」


 女はふっと笑う。


「この契約には、代償があるの。


 けれど、今それを知る必要はない。


 時が来れば、あなた自身が思い出すことになるから」


 吾郎は、真っ赤に染まった虚ろな眼で目の前の女を見据えた。


「……」


「ただ一つだけ言っておくわ。


 あなたはもう"人"には戻れない。


 それでも、進みたい?」


 答えはわかっていた。


 吾郎は、静かに頷いた。


 女の姿が、闇の中に溶けていく。


「また会いましょうね、吾郎。


 あなたが憎しみと共に生き続ける限り、あたしはいつでもそこにいるから――」


 その言葉を最後に、吾郎の意識は現実へと引き戻された。


 視界が暗転し、すべてが遠のいた。


 やがて――風の音と、焦げた木の匂いが鼻を突いた。


「……ッ!」


 吾郎はゆっくりと目を開けた。


 重く粘るような瞼の裏側には、まだ女の声が残響していた。


 彼が目を覚ました場所は、鶴ヶ城のすぐ近く、かつて自宅があった通りのはずだった。


 だが、そこはもはや故郷の面影を留めていなかった。


 焼け焦げた家々が骨組みだけを晒し、瓦礫と灰が地面を覆っていた。


 吾郎は仰向けのまま、しばらく動けなかった。


 空が、濁った赤に染まっている。


 耳には風の音だけが吹き込んでくる。


 生きているのか、死んでいるのか、それすら判然としなかった。


 だが、次の瞬間――手の甲が何か冷たいものに触れた。


 隣に倒れていたのは、父の清忠だった。


 目を開いたまま、既に事切れている。


 すぐ傍には、母の遺体。


 そして、少し離れたところに妹・桜の小さな身体が横たわっていた。


 吾郎の瞳が、震える。


 あれは夢ではなかった。


 あの惨劇は、すべて現実だったのだ。


「……桜……」


 名を呼ぶような声が漏れるが、少女は永遠に応えない。


 唇の端に、乾いた血がこびりついていた。


 吾郎は震える手で、自分の額に触れた。


 生暖かい感触。


 血ではなかった。


 むしろ、皮膚は乾いている。


 額の中心、黒木に撃たれた場所に、くっきりと弾痕のような傷跡があった。


 だが不思議なことに、血は既に止まり、傷は固く塞がれていた。


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