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相思相殺  作者: 戌亥縁
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1.地獄

 慶応4年。


 街が燃えている。


 生まれ育った会津若松の街が。


 城が燃えている。


 会津の象徴である鶴ヶ城が。


 街のあちこちで火の手が上がっていた。


 闇夜を裂くように、鶴ヶ城の屋根が燃え、空が赤く染まる。


 黒船来航から十五年余り、日本の世は激しく揺さぶられた。


 幕府の力が失われていく中で、尊王攘夷を掲げた者たちと、それを抑えようとする幕府の対立は深まり、やがて血で血を洗う争いに変わった。


 会津藩は幕府に忠義を尽くす存在として、京都の治安を守り続けたが、幕府崩壊の余波を免れることはできなかった。


 大政奉還と王政復古の大号令で時代の潮目が変わり、旧幕府と新政府軍の戦い――戊辰戦争が勃発した。


 会津は朝敵の汚名を着せられ、抗わざるを得なかった。


 奥羽越列藩同盟にすがりながらも力及ばず、鶴ヶ城は新政府軍に包囲され、砲火に晒された。


 焼け崩れた屋敷の縁から、少年は一人瓦礫の隙間に身を潜め、眼前の光景をただ呆然と見つめていた。


 城下の通りは、血と煙と泣き叫ぶ声で満ちていた。


 会津藩兵が次々と新政府軍の銃撃に倒れ、斬られ、倒れていく。


 抵抗する者もいたが、数と火力の差は絶望的だった。


 一人、肩を撃たれ倒れた老兵の胸を、新政府の兵士達が何度も刀で突き刺している。


 まるで獣にでもなったかのように。


 悲鳴が聞こえた。


 女の声だった。


 少年の隠れていた瓦礫の向かい、小間物屋の娘――まだ十四、五の少女だった。


 髪を乱し、着物を引き裂かれ、複数の兵士に押さえつけられている。


「や、やめてくださいっ、お願い……」


 少女の懇願は、乾いた嗤いにかき消された。


「これが会津女の体か……なかなか悪くねぇな!」


「官軍様からのご褒美だ、ありがたく思え!」


 少年は震えながら目を閉じた。


 だが、耳はふさげなかった。


 少女の悲鳴と、男たちの下卑た笑い声が、降りしきる雪に混じって、いつまでも耳朶に焼きついていた。


 目を開ければ、さらに酷い惨状が広がっていた。


 泣き叫ぶ幼子の手を引いて逃げようとする母親が、銃で頭を撃ち抜かれる。


 血飛沫の向こうで、子どもが蹲る。


「おかあさん!おかあさんっ!」と叫びながら。


 だがその背中に、容赦なく銃剣が突き立てられた。


 少年の心が音を立てて壊れていくのが、自分でもわかった。


 これは戦ではない。


 虐殺だ。


 これが「新しい時代」の夜明け……?


 そんなはずない。


 鶴ヶ城の瓦が落ちる音が、地獄の訪れを告げる鐘のように鳴り響いた。


 土埃が灰混じりの黒に染まる。


 じっと息を殺して潜む少年の鼻腔を、血と焦げた肉の匂いがつんと突いた。


 しかし、少年のすぐ近くにも鉄の靴音が迫っていた。


「おい、ここに誰かいるぞ!」


 新政府軍の兵士の怒鳴り声が耳を打ち、その瞬間、少年の身体は瓦礫から荒々しく引きずり出された。


 散乱した木片が引っかかり、服が破け、腕から血が流れる。


 呻き声を上げる間もなく、兵士の拳が頬を打ち、土埃の中に顔を埋めた。


「こいつ……三島の餓鬼だな」


「やっと見つけたぜ!連れて行け!」


 兵士たちは少年の両腕を後ろ手に縛り、引きずるようにして焼け落ちた町の通りを進む。


 少年は目を凝らした。


 美しい会津若松の街はもうどこにもなく、そこにあるのは地獄の炎で焼き尽くされた瓦礫の山だった。


 あたりに散らばる無残な遺体を踏み越え、倒壊した町家をすり抜けるうちに、少年は目にした。


 ――両親と妹の桜が、縛られたまま地べたに座らされている。


「父上、母上……!桜……!」


 思わず叫んだ声に、少年の母が振り返る。


「吾郎……っ!」


 頬に煤をつけ、髪を乱した母の目が潤む。


 父は唇を噛みしめて俯き、桜は目を見開いたまま声も出せずにいた。


「揃ったな」


 太い軍靴の音が砂利を踏むように近づいてくる。


 現れた男は、洋式の軍装に身を包み、艶のある革の長靴を履いていた。


 目は猛禽類のように鋭く、口元にかすかな嘲笑を浮かべている。


 新政府軍を率い、会津を火の海にした張本人――黒木利三郎。


「……会津の三島家。家中でも名のある家柄だったそうだな?……だが、それも今日で終わりだな」


 黒木の声音は凍りつくほど冷たかった。


 燃え落ちる家屋の光に照らされながら、彼はゆっくりと周囲の新政府軍の兵士たちを見渡す。


「母親と娘は連れて行け。犯すなり殺すなり、貴様らの好きにせい」


 黒木の口から吐き出された命令に、兵士たちは下卑た笑い声を上げて色めき立った。


 血と煙の匂いに混じって、ねっとりとした興奮が漂う。


「父親と小僧は両足の腱を切っておけ。後ほど、皆の前で見せしめとして殺す」


 再び、笑い声が聞こえる。


 何人もの兵士が、刀を手に近づいてくる。


 五郎は恐怖に震え、涙を溢れさせることしかできなかった。


 縄で縛られ、立ち上がることすらできない。


 そのときだった。


 父・清忠が、大きく目を見開き、縛られた体を引きずりながら黒木に突進した。


「吾郎っ!!母と桜を連れて逃げろっ!!」


 清忠の叫びが、炎にかき消されそうになる。


 その声に反応して吾郎が体をよじるが、縄が食い込み、どうにも動けない。


 黒木は足元にしがみつく清忠を、虫を払うかのように一瞥し、懐から冷たく光る西洋式の回転式拳銃を抜き放った。


 黒光りする鉄の塊が、地獄の業火に照らされて不気味に輝く。


「……興醒めじゃ」


 淡々と放たれた言葉の直後、銃声が響く。


 清忠の頭が、弾けたかのように血飛沫を散らし、そのまま黒木の軍服に血を浴びせた。


「……畜生。服が汚れた」


 黒木は不快そうに軍服を払い、次に吾郎の母へ銃を向ける。


 母は震える手で子を庇おうとするが、その前に容赦なく引き金が引かれた。


 額に穴が開き、母の身体は崩れるように畳へ倒れる。


「母、上……!」


 吾郎は声を潰して泣いた。


 恐怖と絶望に声帯が震え、何もできない自分を呪うように涙がこぼれた。


 黒木は淡々と次の標的に目を移す。


 縛られた妹の桜。


 小さな肩が、恐怖に引き攣っていた。


「……会津の娘は気が強いと聞くが、どうだ?」


 桜の前にしゃがみ込み、その顔を無理やり掴む。


 桜は泣きながらも、兄を探すように視線を向けた。


「兄上……みんなを……守って……」


 かすれる声に、黒木は楽しそうに笑みを浮かべた。


 引き金が、また無慈悲に引かれる。


 桜の頭部が砕け、鮮血が飛散した。


 吾郎の意識が遠のく。


 喉がつかえて声が出ない。


 涙が熱く頬を伝い続けた。


 黒木は汚物でも見るような視線で吾郎を見下ろし、銃口を無造作に突きつける。


「……最後は小僧、お前じゃ」


 頬を伝う涙が震えた。


 恐怖が頂点に達したとき、銃声が再び鳴り響いた。


 世界が反転し、頭の中で爆音が木霊し、意識は深い闇に沈んだ。


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