第四章 4
冥王であることを自覚してから、アレクシスはずっと当時のことを調べて続けていた。
だが自分亡きあとの冥府がどのような状態になっているのか分からず、書物として残されているのは人間側の言い分ばかり。そこでとりあえず、自分が倒されたアルバ・オウガという場所に向かってみたのだが――。
「実は以前、一人でアルバ・オウガに行ったことがあったんだ。あの場所は僕らの世界が最初に交わった土地だから、そこからなら今の冥府にアクセス出来るかもしれないと思ってね。でもなぜか阻害されてしまって」
「……それは多分、精霊が生まれていたせいね。あの時はまだ名付けられていなかったから、無意識に他からの干渉を無効化していたんだと思う」
「なるほど。この世界には精霊ってのがいるのか」
アレクシスは授業で新しい単元を習った時のように軽くつぶやくと、掛けていた眼鏡をそっと押し上げた。
「で、まあ一度は諦めていたんだけど、なんの幸運か君とアルバ・オウガに行く機会を得たからさ。僕ひとりではだめでも君がいたら何か違うんじゃないかと思って、本当はあの夜、君を森まで連れて行くつもりだったんだ」
「あの時そんなこと考えてたの⁉」
「うん。ただ上手いこと躱されてしまって。どうするかなーと思っていたらなぜか君の方から勝手に来てくれたからさ。あれはラッキーだったな」
「あ、あはは……」
バレないよう必死に逃げていたのに、結局彼の思惑通りになってしまったということか。なんとなく恥ずかしくなるリタをよそにアレクシスが笑顔で続ける。
「君が何かしていたから、しばらく隠れて様子を見てた。そうしたらある瞬間からあの場所の空気ががらりと変わってね。もしやと思って呼びかけたら、ほんの少しだけ冥府と繋がったんだ。そこでようやく、当時使者としてアルバ・オウガに赴いた奴を呼び出せたんだよ」
「呼び出したって、その人殺されてるんじゃ……?」
「僕を誰だと思っているの? 冥王だよ。死者の国の王。ただまあ、時間が経ち過ぎていたから話をしたというより、記憶を勝手に覗かせてもらったに近いんだけど」
そこで知った真実は、これまでのすべてを覆すようなものだった。
「あらためて整理しよう。この世界に広まっている史実は『冥府の住人が一方的に侵攻してきた』というものだ。それに対して僕たちは『自分たちは使者を送った。だがそれを人間に虐殺されたから反撃した』と主張する。でも――もしこの二つがどちらも正しくないとしたら?」
「正しくない……って?」
「使者を殺したのは冥府側の(・)住人――さっき話をした、セュヴナル・クアントリルだったんだ」
三つ目の真実。
それを聞いたリタは沈黙し、やがて眉間に深く皺を寄せた。
「ちょっ……と待って。使者ってそもそも冥府側よね? それを冥府の住人がって……」
「簡単に言うと同士討ちだね。セュヴナルはあらかじめ人間側の領主を殺害し、外身だけ真似て入れ替わった。そして訪れた使者を皆殺しに――」
「いやいやいや! だからどうして仲間を」
「だから言っているじゃない。戦争を引き起こすためだって」
「あっ……」
これまでの話が一本の線で繋がり、リタは目をしばたたかせる。アレクシスは今にも降り出しそうな曇り空を見上げると、雨粒を探るようにそっと手のひらを掲げた。
「要は、人間の世界を侵略したかったセュヴナルがそのきっかけを作るために使者を殺害した。そして彼の策略どおり、僕たちは行き違いを起こして戦争を始めた。お互い『先に攻撃された』ということを盾にしてね」
「そこまでして戦争したかったなんて……」
「……彼は、僕が使者出すと言った時にいちばん反対していたからね。せっかくこれだけ広大で豊かな土地があるのだから、すべて自分たちのものにすればいいじゃないかって。だからといってまさか自分の仲間にまで手にかけるとは思っていなかったけど」
本来であればすぐに亡くなった使者の魂を呼び戻し、何が起きたのかを尋問すべきだった。
だが死後の魂は記憶が混濁していることが多いし、証言として成立したかも疑わしい。なにより怒れる同胞たちを止めることが出来ず、結局セュヴナルの望みどおりになってしまった。
「……これは完全に僕の落ち度だ。あの時、もう少し冷静に状況を確かめることが出来ていたら戦いは起こらなかった。この村の人たちも死ぬことはなかったはずだ。皮肉だよね。人間として生まれ変わったおかげでそれに気づけるなんて」
「アレクシス……」
「戦いが起きればまた誰かが犠牲になる。それは……この村に住む誰かかもしれない。だからもう、間違えたくないんだ」
アレクシスの漆黒の瞳がリタの姿を捕らえる。これも嘘なのだろうか。でも――騙そうとしている人の目とは思えない。
「事情は……一応理解した。でも力を貸してほしいっていうのはどういうこと? いったいあなたは何をしようとしているの?」
「あいつの、次の策略を阻止したい」
「次の策略?」
「冥王である僕がいなくなった今、冥府はもはや虫の息のはずだ。何も対処しなければ遅かれ早かれ消滅する。おそらくそれを阻止するためにセュヴナルは『冥王教』を作らせたんだ。人体や植物で生成した瘴気でこの世界を満たし、新しい住処として侵略するつもりなんだろう」
リタはこれまで、自分たちが滅ぼした冥王が再びこの地に甦るために冥王教を利用しているのだとばかり思っていた。だがアレクシスの言うことが本当ならば、冥王教を生み出し操っているのは冥王ではなく、その側近であったセュヴナル――ということになる。
「私が考えていた冥王と、冥王教が求めている存在が違うのは分かったわ。でもどちらにせよ早く対処しないと――」
「まあ落ち着いて。そんなに焦らなくても、あいつは簡単にこちらの世界には来られない。正確には、肉体そのものを移動出来るほどの力が残されていないはずなんだ」
異なる世界間を実体で移動することは、相当エネルギーが必要な行為だという。
アレクシスが冥王だった頃はまだ冥府にも余力があり、何より要となる冥王がいたからこそ、こちらの世界へ攻め込むことが出来た。だが今の冥府にそんな力はなく――と聞いていたリタの頭に疑問が生じる。
「セュヴナルはこっちに来られないって言ってるけど、じゃあどうやって冥王教を作るよう指示したの? アニスやシャーロットに与えられていた不思議な力だって」
「多分だけど、能力だけを貸し渡しているんじゃないかな。僕がアルバ・オウガでこちらの世界から冥府に干渉したように、肉体すべてをこちらに持ってくることは難しくても、声とか力の一部だけを流すことは出来るからね」
「そっか……。じゃあとにかく冥王教を動かしている人物を見つけだして、活動を止めてもらうことが出来れば――」
「ところが向こうにその力がなくても、こちらの世界に来る方法が一つだけあってね。『召喚』―-っていうんだけど」
そう言うとアレクシスは人差し指を立て、自身の口の前に当てた。
「生贄を捧げて二つの世界を繋げ、異世界の住人を呼び寄せる。冥府の住民を呼び出すもっともポピュラーなやり方だ。この国ではあまり知られていないようだけどね。もしかしたらセュヴナルはそれを使ってこちらの世界に来ようとしているのかもしれない」
「もし、召喚されたらどうなるの?」
「この世界と冥府の間に道が出来て、セュヴナル以外の奴も一気にこちらに侵入してくるだろうね。そうなれば一巻の終わりだ。一応、僕の次に強い奴だったし」
「そんな……」
怒涛の勢いで明かされた新しい情報の数々にリタはいよいよ頭が痛くなってきた。そんなリタを前にアレクシスが静かに目を細める。
「僕の話はこれで終わり。どうだろう、信じてもらえそうかな」
「…………」
「……ま、そう簡単にはいかないか」
アレクシスは少しだけ寂しそうに目を伏せると、リタの眼前に自身の手を差し出した。
「でももし信じてくれるというのなら、もう一度言うよ。……どうか僕に、力を貸してほしい」
「…………」
「冥府にアクセスしたことで僕の存在はすでにセュヴナルに伝わっているはずだ。おそらくどうにかして僕を殺しに来るだろう。もちろん黙ってやられる気はないけど――もし僕に万が一のことがあったら、その時は君にあいつの計画の阻止を頼みたいんだ」
「アレクシス……」
顔を上げると、そこにはいつもと変わらない彼の顔があった。それを目にした途端、溜め込んでいた本音がリタの口からぽろりと零れる。
「どうして」
「ん?」
「どうして私なの?」
ずっと不思議だった。力を貸してほしい。自分の代わりに計画を阻止してほしいというのは分かる。だがどうしてその相手が自分なのか。
「アレクシスが冥王かもしれないっていうのは、正直……ちょっと、覚悟してた。でもわざわざ生まれ育った村まで連れてこられておじいちゃんたちに挨拶させられたり、自分がしたことを後悔しているとか、次は間違えたくないとか――」
かつての人々にとって、冥王は本当に恐ろしい敵だった。
彼の配下に襲われて壊滅した村を旅の途中で発見し、三人で一晩中埋葬をし続けたことがあった。子どもだけ殺された親もいたし、親を失った子どもから涙ながらに「絶対に冥王を倒して」と頼まれたことも覚えている。それほどの相手だった。
「あなたがもっと早く戦いを止めてくれたら、たくさんの人が亡くならずに済んだ。それなのにどうして今さら人間を助けるなんて……それを私に信じてもらえると思うの?」
「リタ……」
「信じられない。信じられるわけ、ない……」
お腹の奥から悲しみと悔しさが込み上げてきて、やがて目から涙として溢れ出る。
分かっている。別にアレクシス自身が多くの人間を残虐に屠ってきたわけではない。むしろ冥王は拠点に籠っており、被害はすべてその配下によるものだったと聞き及んでいる。
(でもアレクシスが――冥王が気づいて止めてくれたら……戦争自体、起こらずに済んだかもしれないのに……)
やがて上空に集まっていたほの暗い雨雲からパラ、と雨粒が落ち始めた。
リタの感情は止まらず、ふたりの足元に大小さまざまな水跡がついていく。アレクシスはそれを無言で見つめたあと、リタが濡れないようそっと頭上に手を差し出した。
「……ごめん、色々」
「…………」
「この村まで連れてきたのは僕がどういうところで育って、どんな人に大事にしてもらったかを知ってほしかったから。でもたしかに、それくらいで改心しました――なんて、信じてもらえるはずがないよね」
雨が次第に強くなる。アレクシスはレンズに付いた水滴を拭うこともせず、そのままの姿勢で続ける。
「君に打ち明けたのは、君が唯一、信じられる人だったからだ」
「私が……?」
「今の僕には、誰がセュヴナルの内通者か分からない。ランスロット、エドワード、ローラ、リーディア……。でも君だけは違う。君だけは、三百八十年経った今でも同じ中身だから。だから君に託したかった」
「…………」
いよいよ本降りになり始め、アレクシスが「そろそろ戻ろう」と手を差し伸べた。
リタがそれを取れずにいると、彼は何も言わず静かに踵を返す。木陰の下から出る間際、どこか遠くを見つめながらぽつりと零した。





