第五章 8
「土の精霊プロテリンダス、我が声を聞き、我が願いに応じよ!」
先ほどとは比較にならないほど、巨大で美しい黄色の魔法陣が足元に展開される。ボロボロになったドレス姿で、リタは腹の底から絶叫した。
「神の堅庭、汝のいと力強き腕で民を守りたまえ、我は柱神ディアスの贄――銅牆鉄壁!」
詠唱を終えると同時に、城壁のように分厚い石柱がリタの周囲にいくつもせり上がる。それらは天井と接した途端、バリバリと凍り付くかのように硬化を広げていき、崩れかけていた地下室の内側はアーチ状に保護された。
まるで教会の礼拝堂のようになったその光景を見て、リタは「ふう」と息を吐き出す。
(とりあえずこれで維持して、地上の避難が終わったらここにある物を運び出しましょう。かなり派手に壊れてしまったけど、きっと何かの手がかりが残っているはず――)
だがその頭上で、ピシッとひずみの入る音がした。
「――っ、まさか……!」
魔法で完璧に覆ったはずのそこから一本の黒いつたが生えている。それは葉脈のようにバリバリと四方八方に広がり、白かった天井が瞬く間に黒一色となった。
リタはとっさに杖を構えたものの、それより早く崩落が始まる。
(まずい――)
瓦礫の下敷きになる、と頭では分かっていたものの、体が一瞬反応に遅れる。死を覚悟したその時、誰かから強く腕を引かれた。
「――っ⁉」
力強い胸板に顔が押しつけられたかと思うと、両腕でがっちりと頭を覆われる。すぐ耳元で天井が崩れ落ちる恐ろしい音が響き、リタは反射的にぎゅっと両目を閉じた。
暗闇の中、自分たちの上に大量の瓦礫が降り注いでいることを理解しつつ、そのまま嵐が過ぎ去るのを待つかのように息をひそめる。
「――……」
やがて崩落の衝撃がやみ、リタはおそるおそる瞼を持ち上げた。目の前には土にまみれた濃紺の生地があり、それに気づいたリタはゆっくりと顔を上げる。
「ランス……ロット?」
「……っ……」
近づきすぎてよく見えないが、彼の顔と銀の髪がかろうじて視界の端に入った。ランスロットはリタの呼びかけに気づいたのか、掠れた声を絞り出す。
「リタ……無事か?」
「う、うん……。それよりランスロット、どうしてここに……」
「それはこっちの台詞だ、くそっ……」
少しでも空間を確保しようと、ランスロットが慎重に腕を持ち上げる。だがパラッと小石の転がるような音がし、彼はすぐに動きを止めた。
「ダメだな……動いたらすぐ崩れそうだ」
「そんな……」
リタは急いで杖を探したが、どうやらどこかに落としてしまったらしい。このまま魔法を使えなくもないが、どういう状態で生き埋めになっているのか分からない以上、下手なことをすれば状況が悪化する可能性がある。
いっさいの身動きが取れないまま、リタは心から謝罪した。
「ごめん、こんなことに巻き込んで……」
「俺の知らないところで怪我されるよりマシだ。それより、少しでも体力温存しとけ」
「う、うん……」
そのまま長い沈黙が落ち、抱き合った二人の鼓動と息遣いだけが耳に触れる。しかし待てども待てども救援が来る気配はなく、不安ばかりが膨れ上がった。
心なしか息苦しくなってきた気がして、リタはもう一度ランスロットに声をかける。
「ランスロット、大丈夫?」
「……ああ」
「きっともうすぐ助けが来るから……」
返事の代わりに、彼の手がぽん、とリタの背中を叩く。その瞬間、なんだか絶対に助かりそうな気がして、リタはさりげなく彼の胸に頭を寄せた。
(きっと誰かが、気づいてくれるはず――)
必死に祈りながら、リタはただその時を待つ。だが太陽の光も音もない空間では時間の流れがまったく分からず、一生ここから出られないのではないかという絶望が頭をよぎる。
事実、地面を掘り起こすような振動も騒ぎ立てる人の声も聞こえず、わずかな酸素だけがただ刻々と消費されていった。
(どうしよう、このままじゃ……)
長時間の閉塞感もあいまって、ついにリタの意識がぼうっとし始める。この状況で魔法を使うのは正直賭けだが、気絶するよりも先に何か手を打たなければ。多少の怪我を覚悟でここを爆発させるか。信号弾のようなものを空に向かって打ち上げるか。
(せめて、ランスロットだけでも――)
リタがそろそろと手を持ち上げたところで、突然ランスロットが口を開いた。
「……リタ、生きてるか」
「う、うん……」
「おそらくもうじき、酸素がなくなる。意識を失えば呼吸量が下がるから、しばらくは耐えられると思うが――」
(……?)
なんだか不穏な物言いに、リタは思わず彼の胸を軽く叩く。すると彼はリタの体を軽く抱き寄せ、こくり、と喉仏を上下させた。
「……手紙、ヴィクトリア様に渡してくれて、ありがとな」
「あ、あれは、その」
「来て、くださったんだ……こんな俺のために……」
綺麗だった、とうわごとのようにつぶやくランスロットに、リタは懸命に声をかける。
「き、きっと、ヴィクトリア様も来たかったのよ! この前のデートのお詫び……って言っていた気もするし……」
「そうなのか? そんなの、全然気にしてないのにな……」
ふ、と小さく笑ったあと、ランスロットはどこか寂しそうにささやいた。
「でももう、次はないかもな……」
「ど、どうして?」
「俺、ヴィクトリア様を全然、エスコートできなかったから……」
「そんなことくらいで怒らないわよ! で、伝説の魔女なんだから!」
「そうか? ……そうだと、いいな……」
ひゅう、と彼の胸から嫌な音がする。どうやら肺をやられているらしい。リタに気づかれないよう、必死に呼吸を抑えていたのだろう。
「でも違うんだ……。本当はそんな、理由じゃなくて……」
(……?)
ランスロットの声がそこで止まる。
一瞬ぎくりとしたリタだったが、すぐに彼が息を吸い込んだのが分かった。やがてランスロットが途切れ途切れに言葉を発する。
「俺、ヴィクトリア様より……、――のことを、好きに――」
その時、二人の周囲がぐらりと大きく傾いた。
地面を滑り落ちていくような感覚に、リタは思わずランスロットの腕を摑む。ランスロットもまたリタの体を先ほど以上に強く抱きしめた。
「な、何が――」
動転している間にもあちこちから水が流れ込んできて、リタとランスロットは泥と瓦礫が混じり合う中、荒々しく攪拌される。まるで渦潮のただなかに放り込まれたような状態に目を回していると、そのまま野菜でも引き抜くかのように一気に地上へと放り投げられた。
「――っ⁉」
ごぽごぽごぽっと水が地面に戻っていく音を聞きながら、二人はドロドロに汚れた状態で瓦礫の上に放置される。呆然としたリタがゆっくり上体を起こすと、目の前にエヴァンシーとミリア、そして杖を握りしめたリーディアが立っていた。
「やりましたわ! リタさん、無事ですわね⁉」
「……リーディア? それにエヴァンシー、ミリアも……」
いまだ状況がつかめていないリタに代わり、ミリアがくいっと眼鏡を押し上げた。
「彼女の水の魔法で、地中からお二人を引っ張り出してもらったんです。まともに掘り起こしていたらとても間に合わないと思ったので」
「な、なるほど……」
そういえば畑仕事の課題をクリアするのに、そんな魔法を提案したことがあった。しかしまさか自分が収穫される側になるとは……と混乱していたリタだったが、すぐに「はっ」と目を見張る。
「ランスロットは……⁉」
離れた位置に転がっていたランスロットのもとに這い寄り、急いで心臓の音を確かめる。弱くはあるが胸が上下しており、リタはほっと安堵の息を吐き出した。
すぐ傍にエヴァンシーがしゃがみ込み、ランスロットの脈を測る。
「瓦礫で頭と胸を強く打ったようですが、命に別状はなさそうです。すぐに王宮で手当てをいたしましょう」
「ありがとう……。それから、その、シャーロットも近くにいたんだけど」
「そちらも大丈夫です。すでに救出して治療を受けています」
「そう……」
どうやら彼女も無事だったようだ。それを聞いた途端、一気に疲れが込み上げてきて、リタはその場にどさりと倒れ込んだ。周囲にいた一同がいっせいに声を上げる。
「リタさん⁉」
「お母様⁉」
(よかっ……たぁ……)
いつの間に夜明けを迎えたのか、空がうっすらと白んでいる。暑くなりそうな夏の空気を感じながら、リタはそっと目を閉じるのだった。





