第四章 6
『空間。うん。――ぼくは空間の精霊』
(……っ!)
肯定された。どうやら当たりだったようだ。
『出てきてくれてありがとう。そういえば名前がないと不便ね。そうね――レティーリア、というのはどうかしら』
『れてぃーりあ。うん。きれいなおとだ。悪くない』
どうやら気に入ってもらえたらしい。未知の精霊との交渉。神経を最大限に研ぎ澄ませつつ、リタはレティーリアに話しかける。
『レティーリア。あなたはいつからここにいるの?』
『ずっと昔だよ。気がついたらいた』
『その時、誰かが周りにいた?』
『真っ黒い人たちがいたよ。ぼくの傷を食い破ってこの森に出てきた。おかげで周りの木が全部枯れちゃって。本当なら繋げちゃいけないんだけど、すごく力の強い人がいて負けちゃった。この池もその時に出来たんだ』
『その人たちはここで何をしていたの?』
『この国を奪うって言ってた。綺麗だからって。でもいちばん強い人がししゃを送るって。それがれいぎだからって。でもみんななんだか嫌そうだった』
(……?)
いちばん強い人、というのは『冥王』のことだろうか。だがレティーリアの言い方ではまるで『礼儀』だから『使者』を送る――と言っているように聞こえる。
(『冥王』が人間側に使者を送った? そんな話、聞いたことないわ……)
その後もレティーリアは、池の水面上にふわふわと漂ったまま話し続けた。
『でも。あそこのお城のおうさまがししゃを倒しちゃったんだぁ』
『……待って? 逆じゃないの?』
『ううん。おうさまが黒い人たちを全員、殺しちゃったの』
「……っ!」
衝撃的な事実に、リタは言葉を失う。
(ちょ、ちょっと待って⁉ 王様……って多分、当時のアルバ・オウガを統治していた領主さまのことよね……? 黒い人っていうのは『冥府』の……?)
初めて耳にすることばかりで、どうにも頭が追いつかない。にこにこと無邪気に微笑むレティーリアを前に、リタはいよいよ混乱する。
(シメオンの記録では、『冥王』はアルバ・オウガの住民たちを虐殺したのち、領主の城を占拠して進軍を開始したと書かれていた。だからてっきり、抵抗する間もなく一方的に攻撃されたのだと思っていたのに……)
だがレティ―リアの証言を信じるのであれば、『冥王』はまず初めに使者を送り――つまり、ごく正当な手順でこの国に接触してきた可能性がある。
(もちろん、向こうの要求がどんな内容であったかは分からない。でもいかなる条件であろうとも、まずはこの国――国王陛下の判断を仰ぐ必要があったはず。でも当時の領主さまは、なぜかそれをしなかった……)
それどころか、城に訪れた使者を殺害した――。
使者は二国間の仲介を担う重要な役割であり、それを殺すということは強い敵意を表明し、相手の国を侮辱する大罪でしかなく、『冥府』側にしてみれば、誇りを踏みにじられたのも同然の行為だっただろう。
そうなればもちろん、和解できる余地などはなく――。
(『冥府』はこちら側の国を完全に敵とみなし、攻撃してくる……。もし使者を受け入れ、きちんと交渉できていれば、そんなことにはならなかったかもしれない……)
当時の領主がどんな考えで、そのような愚行に走ったのかは分からない。だがその時の悪手が原因で、『冥府』や『冥王』の怒りを買ったのだとすれば――。
(あの戦いを引き起こしたのは、私たち『人間』側……?)
もっと詳しく聞き出せないかと、リタは続けてレティーリアに尋ねる。しかしそれ以上のことは『分かんない』としか答えず、有益な情報は得られなかった。
『教えてくれてありがとう、レティーリア。最後にもう一つだけ聞いていいかしら』
『なーに?』
『ここに冥王教……腕や体に黒い入れ墨をした人が来なかったかしら?』
『うーん……?』
レティーリアは首をかしげ、懸命に過去の記憶を呼び起こしている。やがて「あ!」と目を大きく見開いた。
『ちょっと前に誰か来たよ。このあたりに生えてる草を取ってた』
『草?』
『うん。ええと……めいふのかんしょうをうけたそたい、って言ってたかなぁ』
『それ、どんな人か覚えてる?』
『よく分かんない……。でも布に、角の生えた動物のマークをつけてたよ』
(角の生えた動物……?)
リタはしばし考え、近くにあった木の枝を使って地面にガリガリと描いていく。
『もしかして、こんなのかしら?』
『うん! お姉さん、絵がうまいんだねぇ』
「…………」
くすくす、と嬉しそうに笑うレティーリアを前に、リタはあらためて自身が描いた図柄を見下ろす。そこには一角獣をモチーフにした――王族の紋章があった。
(これが本当だとすれば……とんでもないことになるわ)
王族の紋章を身に着けられるのは、王宮に属しているなかでも一部の者に限られる。以前エヴァンシーが『かなりの地位を確立している人物の可能性がある』と言っていたが――これは予想以上の大物かもしれない。
(王族の紋章を付けた人物が、ここで『冥府の干渉を受けた素体』を持ち帰った。おそらくそれが『瘴気』や『冥獣』を生み出す素材……)
リタは静かに息を吐き出すと、レティーリアの方を向いてそっと微笑む。
『ありがとうレティーリア。助かったわ』
『こちらこそ。お話しできたのはお姉さんが初めてだったから嬉しかったよ。お礼に、必要な時はぼくの力を貸してあげる』
『それは……契約してくれるってこと?』
『契約っていうの? よくわかんないけど、それでいいよ』
キャッキャ、と幼い子どもの笑い声が静謐な森の中にこだまする。
だが直後、ぞくりとするような低音に切り替わった。
『でも、だいしょうはもらうよ』
「――っ!」
『ぼく。いつもひとりでさみしいんだ。だから――ね』
それを最後に、レティーリアはふっと姿を消した。いきなりの変貌に驚き、リタは長らく呼吸を忘れていたものの――ようやく「げほっ」と溜め込んでいた息を吐き出す。集中しすぎていたせいか、さっきから頭痛がひどい。
(油断してたわ……。相手はあの『空間の精霊』だったのに……)
精霊たちの力を借りるには、必ず対価が必要となる。
多くの場合は魔女自身が持つ魔力だが、より複雑で特殊な魔法を使用する――それも希少な精霊と取引するとなれば、魔力だけでは済まなくなるのだ。実際ヴィクトリアは肉体再構築の魔法を使うため、三百年以上愛用していた杖を『時の精霊』に捧げたことがある。
(代償……ね。正直、何を要求されるか分からないけど……。もし力を借りるなら、それなりの覚悟をしておかないと……)
リタはランスロットから貰った杖を握りしめると、「ふう」と大きく息を吐き出した。
「疲れた……。とりあえず帰ろう……」
・
・
・
リタがいなくなってまもなく。
先ほどの池に、夜闇に紛れるようにしてひとりの男性が姿を見せた。
「あー……懐かしいな。そういえば、最初はここに着いたんだった」
長身で黒髪の男性――アレクシスは長い前髪を掻き上げながら、ざくざくと草を踏み折って池のふちへと近づく。その場にしゃがみ込むと、リタがしていたように水面に手を差し入れた。
「…………」
だが特段何の変化も起きず、アレクシスは首をかしげながら手を持ち上げる。
「うーん、何も起きないな。ここで何かしてた気がしたんだけど……」
手についた水滴を払い落としたあと、近くにあった岩にどすっと腰かける。そのまま片方の靴裏をぬかるんだ地面に付けると、ぐちゃ、と強く踏みしめた。
『開冥界門 前王命』
低く囁いた途端、アレクシスの足元にあった草が一瞬でパリリッと灰化した。そこから同心円状に次々と植物が枯れ始め、真っ黒い穴が彼の足元にぽっかりと口を開ける。
アレクシスはそれを見てわずかに眉根を寄せた。
(この体では――というか、今の環境ではこれが限界か。仕方ない……)
アレクシスは「はあ」と肩を落とし、すいっと人差し指を上に向かって振り上げる。
『呼応 此地命断胞』
長い静寂のあと、先ほど作り出した闇の空間からとぷん、と漆黒の球体が浮かび上がった。アレクシスはまるで友人に会ったかのように、それに向かって明るく話しかける。
『ようやく会えたね、我が同胞。息災――ではないか』
『…………』
『すっかり遅くなって悪かった。だがどうか教えてほしい。君たちがあの城に行った時――本当は何があったのか』





