第四章 5
確証があるわけではない。
ただ、これまで森でひとりきりで過ごしてきた膨大な時間。そしてあらゆる精霊たちと対話してきた四百年分の経験が「いる」とリタに囁いてくる。
(でもそれならどうして応答しないのかしら? 言葉が違う? それとも出てこない、出てこられない理由があるのかも――)
リタは頭上にある太陽を見上げたあと、池に向かって魔法を施す。
再度訪れるための目印を付けると、杖に乗ってふわりと空へ脱出するのだった。
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その日の夜。
今日は珍しく、リタは一人でのんびりとした時間を過ごしていた。
(ローラとリーディア、頑張っていたわね……)
いつもならあれそれと文句を言いながら訪れる二人がいつまでも姿を見せず、不安になったリタはそれぞれの部屋に様子を見に行った。すると二人とも、昨日リタからアドバイスされた魔法を懸命に練習しており、そのままそっと扉を閉めて帰ってきたのだ。
(上手くいくといいんだけど……)
真剣な二人の表情を思い出し、リタは空になったカップをテーブルに置いた。
「さ、私もやることやらないとね」
『灰の森』に向かうべく、窓を開けてバルコニーへと歩み出る。だが浮かべた杖に乗ろうとしたところでいきなり遠くから話しかけられた。
「リタ、こんな時間にどこに行くのかな?」
「ア、アレクシス⁉」
ぎょっとしたまま声のした方を向くと、一つ離れた隣のバルコニーにアレクシスの姿があった。ラフな部屋着姿でひらひらと手を振る彼を見て、リタは「えへへ」とごまかす。
「ちょ、ちょっと街に下りようかなーと」
「いいね。僕も一緒に行きたいな」
「あ、いや、ちょっとひとりで出たくて」
「そうは言っても夜だし危ないよ? 遠慮しないで」
(いやいやいや、さすがに『灰の森』に連れて行くわけにはいかないし……)
結局アレクシスが折れることはなく、リタは仕方なくいったん部屋へと戻る。その後しばらく様子をうかがっていたが、アレクシスはなぜかずっとバルコニーに出たままのようだ。
(うーん……普通に玄関から出るしかないか……)
こっそりと廊下に出ると、門番のいる玄関ではなく裏手にある商用門を目指して歩いて行く。幸い誰とも遭遇することなく外に出ることができ、リタは「ふう」と胸を撫で下ろした。
(よし、あとはこのまま――)
だが杖に乗って旅立とうとしたところで、背後から「リタ?」と声をかけられた。慌てて振り返ると、騎士服姿のランスロットが怪訝な顔で立っている。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「ラ、ランスロットこそ、どうしてここに?」
「鍛錬だ。昼間はあちこち出歩いていて、まとまった時間が取れないからな」
(な、なんて真面目なのかしら……)
見れば手にはいつもの剣が握られており、リタはその勤勉さにあらためて感心する。一方ランスロットは先ほどより眉間の皺を深くして尋ねた。
「で? お前はどうしてここにいるんだ」
「ちょ、ちょっと眠れないから、散歩しようかなーと」
「散歩……」
するとランスロットは剣を鞘に収め、すたすたと近づいてリタの隣に立った。リタが「?」と疑問符を浮かべていると、彼もまた不思議そうな顔で首をかしげる。
「どうした、行かないのか?」
「いやその、なんで隣にいるのかなと」
「もう夜も遅い。護衛として同行しようと思ってな」
(うわー‼)
リタは動揺を悟られぬよう、曖昧な笑みを浮かべて丁重にお断りする。
「だ、大丈夫よ! 中庭を歩くだけだし、ランスロットもまだやることあるでしょ?」
「散歩に付き合うくらいの時間は取れる。それとも俺と歩くのは嫌なのか?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
まさか『灰の森』まで行くなどと言えるはずもなく、リタはどうしたものかと思案する。とにかくここは何としてでも振り切らなければ――と、とりあえず足早に歩き始めた。
「本当に近くを歩くだけだから! どこかでじっくり考え事もしたいし」
「その間は近くで素振りでもしておく」
「いやそれ、余計に気が散るから!」
なおも付いてきたがるランスロットを必死に引き離し、そそくさと中庭へ移動する。先日女性と再会した温室を見つけると、彼の目から隠れるようにしてすばやく転がり込んだ。
(よし、ここから――)
すぐさま杖に跨り、天窓から一気に上空へと飛び立つ。いなくなったリタを探すランスロットの姿が眼下に見え、リタは心の中だけで謝罪した。
(ごめんランスロット、でもどんな危険があるか分からないから……)
星が瞬く夜空を走駆していき、ほどなくして『灰の森』へと到着する。リタは昼間につけておいた目印を頼りに、再びあのため池へと下り立った。
「よし、今度こそ――」
真っ白な月光を受け、白銀色に輝く水面に手を差し入れる。ちゃぷん、と緩やかなさざなみを起こしながら、リタは静かに精霊の言葉を口にした。
『この地に住まういと尊き者よ。我は汝の友人であり、よき隣人であり、時にしもべである。願わくはその声と姿を現したまえ――』
最大限の敬意を示し、面会の交渉を始める。
しかしどれだけ耳を澄ましていても、やはり答える声はない。
(夜ならいけるかと思ったんだけど……だめかしら)
ひんやりとした池の水を手のひらにすくい、指先から少しずつ落とす。すると最後の一滴が着水した瞬間、リタの周囲がばりりっ、と凍り付いた。
「!」
すぐさま防御魔法を張ろうとしたが、なぜか魔力が動かせない。精霊も呼び出せない。
凍り付いたと表現したものの、正確には別世界に放り込まれたような感覚。すべての色彩が消え失せ、生命反応が感知できず、時間軸から切り離されてしまったかというか――。
(何、これ……)
これまでにひもといてきたあらゆる文献、他の魔女から伝え聞いた情報、実際に精霊と交渉してきた経験などを頼りに、必死にこの現象にあたりをつける。だがいくら記憶をたどっても、どんな精霊のいかなる特徴とも合致しない。
やがてどこかから、可愛らしい子どもの声が聞こえてきた。
『お姉さん、誰?』
『……ヴィクトリア。今はリタを名乗っているわ。あなたは誰? お名前は?』
『誰……? お名前……って、なぁに?』
(この子……まだ概念と要素が定まってない……)
あらゆる精霊は存在を認知され、名付けられることではじめて自己を確立する。エリシア、アルバンテール、リンドビットといった精霊名は、初めて彼らを見出した魔女が付けたもので、その魔女は精霊の『名付け親』と呼ばれるのだ。
リタもまた『エイダニット』という時の精霊の名付け親であるが、特定と命名は慎重に行わなければならない。
(大気、力、夢あたり……? でもどれも断定できない……)
あらためてその正体を探る。
おそらくこの場所で生まれた精霊なのは間違いない。水、草、土といった精霊はすでに命名されているので否定される。月光――光の精霊の亜種である可能性は高いが、発生している現象がそれにそぐわない。
(他の森にはない、この場所に固有のもの――まさか!)
その瞬間、リタの頭でいくつかの事柄が結びついた。
こくりと息を吞んだあと、隔絶された世界の中で精霊に向かって話しかける。
『あなたは……空間の精霊』
『くうかん?』
『この世の事象の根本。あらゆる方向への無限の延長。この世にある物体を、すべて取り除いたあとに残されるもの』
それは伝承の中でしか語られてこなかった幻の精霊。
四百年経ったこの時代になってもなお、その存在は否定されてきたはずだが――。
(ここは世界で唯一、異世界と繋がりをもった場所だわ。その時に生じた空間の歪みが、本来であれば存在しえない精霊を生み出していても不思議ではない……)
リタの返事を聞き、幼い声はそのまましばらく沈黙していた。
だがしばらくして、ふわん、と白い綿毛のような光がリタの鼻先へと飛んでくる。そのままぽん、と音を立てて五歳くらいの子どもが姿を現した。髪と眼は銀色で、手や足の先などが現れたり消えたりしている。
子どもはリタをじーっと観察したあと、にっこりと微笑んだ。





