第三章 2
「実は今日、それを確認しようと思って来ました。そもそもの前提として、あの生き物は冥王に属する何か、と捉えてよいものでしょうか?」
「断定はできないけど、おそらくそうだと思うわ。倒した後に遺骸が砂化するところや、全身から黒い靄のようなものを発しているところとかそっくりだもの」
「なるほど。貴重な証言、ありがとうございます」
ミリアはそのまま口元に手を添えると、なにごとか思案するように眉根を寄せた。
「便宜上、あの生物のことを『冥獣』と総称していますが……本当のところ、彼らが冥府に属する者かどうかの確証はありませんでした。残された資料も数が少なく、なにより当時を知る者がもうこの世にいないからです」
「そっか。あなたたちが生まれたのだって、冥王を倒してから随分経ってからだものね」
「はい。ですので実際に冥王と対峙したことのあるお母様が証言してくださったことで、ようやく確信にいたりました」
そう言うとミリアは脇に置いていた鞄から、一冊の古びた本を取り出した。
「これは王宮に保管されていた貴重な当時の記録です。冥王が現れたであろう経緯や、その配下による被害、そして勇者ディミトリたちがどのような足取りで冥王討伐を果たしたのかが、事細かに記されています」
「そんなものが……」
ミリアの了承を取り、リタは本を開く。
そこには『冥王』がこの地に現れ、その侵攻によってみるみる荒廃していった国内の状況が詳しく書かれており、ミリアはそれを要約するように口を開いた。
「今から四百年以上前、北の城塞都市アルバ・オウガ付近の森が、一晩にして突如枯死するという異常事態が発生しました。それが『冥府』からの干渉の始まりと」
「『冥府』……冥王が統治していた世界、よね?」
「はい。命を失ったものたちが辿り着く場所であり、魂の眠りゆく最期の土地。本来であれば交わるはずのなかったその世界が、何らかの事象によりここリヴェイラの地と繋がってしまった――とこの本には書かれています」
「そうね。私もそう聞いているわ」
「その後冥王はアルバ・オウガの住民たちを虐殺。領主の城を占拠し、南に向けて進軍を開始した。結果、多くの街や村が犠牲となり……。まあ、それに関してはお母様の方がよくご存じだと思いますが……」
それから数年後。
国王陛下の命を受け、勇者ディミトリと修道士シメオン、そして伝説の魔女ヴィクトリアが冥王を滅ぼした――。
「こうして『冥王』がいなくなった結果、彼らの世界であった『冥府』自体もこの世界から切り離された――とされています。『冥王』という巨大な柱を喪失したことで、こちらの世界へ干渉する力を無くしてしまった、という見解のようです」
「…………」
あの日――冥王の本拠地に足を踏み入れた時のことを思い出す。何千、何万という敵の軍勢を修道士の祈りによって弱体化させ、魔法と剣で蹴散らす。
そうして辿り着いた先で冥王を討ち取った――言われてみればあの瞬間、建物やその周辺に蔓延していたえもいわれぬ閉塞感が一気に無くなった記憶がある。
(あれは『冥府』の影響だったのね……)
リタは無言のままページをめくる。そこで『瘴気』という見慣れない単語を発見した。
「ミリア、この『瘴気』というのは?」
「この本では『冥府の大気』と定義づけているようです。我々が生きていくのに酸素が必要なように、冥府の住民にも必要な要素がある。一説によれば、冥王がこの国を侵略しきれなかったのはこの『瘴気』が原因だったのではないかとされています」
「『瘴気』が原因?」
「はい。『瘴気』がない土地での活動は、冥府の住人たちにとって相当な苦痛だったのではないかと分析されています。もしこの大陸に『瘴気』が満ちていた場合、半月もかからずに『冥王』の手に堕ちていただろう、とも」
「半月……」
恐ろしい予測にリタはぞっと背筋を凍らせる。
一方ミリアは「ただですね」とおもむろに顎に手を添えた。
「我々は『冥獣』がこの『瘴気』を生み出しているのではないか、と見ておりまして」
「『冥獣』が『瘴気』を?」
「はい。まだ調査の段階ではありますが、『冥獣』が発している黒い靄にこれまで見たことのない『猛毒』が含まれていたらしいと」
「……?」
宰相ミリアの視線を受け、騎士団長であるエヴァンシーが口を開く。
「彼奴らは絶命と同時に砂塵化し、いっさいの痕跡を消失させます。そのためギリギリまで弱体化させて捕縛し、ミリアの研究室へと運ぶのが理想なのですが……。我々も気を抜けばやられてしまいますので、まともに検体を確保できない状態です」
「もちろん比較対象となる『瘴気』自体がないので、確定できる要素はありません。ただ彼ら『冥獣』が『冥府』と関連している可能性は非常に高く、迅速にその発生源を特定しなければと策を練っていたのですが――」
ミリアから見つめられ、リタはこくりとうなずいた。
「『冥王教』……彼らがそれを作り出していた」
「先ほどのお母様の話では、ここの教師であったアニスという女性だそうですね」
「ええ……」
両腕に独特の入れ墨を施し、『冥獣』たちにこの学園を襲わせた張本人。彼女は飴を使って動物や人間を冥獣化し、自身の支配下に置いていた。リタとランスロットとの戦いの末、記憶と能力のすべてを失ったと聞いていたが――。
「彼女がいなくなった以上、もう『冥獣』は生み出されないと思っていた。でもパーティー会場にまた新しい『冥獣』が現れた……」
「結局のところ、『冥獣』を作り出せる能力者が彼女以外にもいる、もしくは方法があるということでしょう。しかしそんな力どうやって――」
ミリアの疑問を受け、リタはアニスとのやりとりを思い出す。
「彼女は『冥王から力を借りている』と言っていたわ。そして『冥王は来たるべき復活の日に備えて眠っている』とも」
「復活……仮にそれが『冥王教』の目的だとして、いったい誰が――」
ミリアのつぶやきに、その場にいた全員が沈黙する。
やがてエヴァンシーが口火を切った。
「実は数年前、『冥王教』鎮圧のためアルバ・オウガに騎士団を派遣したことがあります」
「どうだったの?」
「アジトらしき場所に立ち入りましたが教典や偶像の類はなく、特に不審なものもなかったと報告されています。信者たちも『冥王』を崇拝しているだけの一市民ばかりだったと」
「教祖や先導者と思われる人物は?」
「特定できていません。ただ組織の金回りが異常に良かったので、おそらくかなり裕福な資金提供者がいると思われます。それにここ最近の『冥王教』の増え方を見る限り、現実社会でもかなりの地位を確立している人物かと」
「つまりその人物こそが『冥王教』の中心人物――」
捜すべき対象が見え始めたところで、ミリアがあらためて腕を組んだ。
「とりあえず、明日からすぐにでも『冥王教』について広域調査させます。相手の出方を待つ理由はありませんし」
「騎士団も手を貸そう。アニスについては再度尋問を行う」
「じゃあわたしは、治療で知り合ったご婦人方や殿方にそれとなく聞いてみようかしら」
「三人ともお願い出来るかしら。私も別の方向から調べてみるわ」
それぞれの返事を聞き、リタはあらためて手元の本に視線を落とす。この本のおかげで、『冥王教』の正体にまた一歩近づくことができそうだ。
(本当に助かったわ。でもいったい誰がこんな貴重な資料を――)
パラパラと最後までページをめくり終えたあと、いちばん前にある標題紙へと戻る。そこに書かれていた著者名にリタは目を疑った。
「シメオン・バートレット……?」
それはかつてともに旅をした修道士の名前だった。サインの下には、さらにメッセージが書かれている。
『親愛なるディミトリ、そしてヴィクトリア 我々は永遠に仲間だ』
「仲間……」
その文字を目にした途端、リタの心に温かいものが湧き上がる。
本当は中身を目にした時から、ずっと引っかかっていた。本に書かれていたリタたち一行の行動が、まるで実際に旅をしてきたかのように正確なものだったからだ。
(あなたは……私たちの思い出を、残そうとしてくれたのね)
四百年経った今、印刷技術の発展により本は庶民でも手の届くものとなった。だがあの当時はこうした個人の記録を紙に残しておくことは難しく、莫大な労力と金銭を投じて作り上げるものだったはずだ。
それでもシメオンはこの本を書き記した。
それはきっと――あの三人で過ごした日々を風化させたくなかったから。
「……ありがとう、シメオン」
色あせたインクのサインを、リタは指先でそっとなぞる。控えめな彼の少しはにかんだような顔が、閉じた瞼の裏にはっきりと浮かんだ。





