第二章 4
「それを聞いて安心いたしました。もしお二人がすでに深い仲でしたら、リーディア様の悲願成就のため、自分はどんな手でも使わなければなりませんでしたので」
「は、はは……」
いったい何をする気だったのか、と確かめたくなる気持ちを抑えてリタは苦笑する。だがあらためて考え直すと、おずおずと彼に尋ねた。
「セオドアさんは、平気なんですか?」
「何がです?」
「いやだってその、ランスロットとリーディアがもしも本当に付き合うとなったら、自分は失恋、するわけですし……」
「…………」
セオドアは無表情のまま長らく考え込んでいた。やがて切れ長の目をリタに向ける。
「リーディア様がそれで幸せになられるのなら、自分はかまいません」
「かまいませんって……」
「好きな方に笑っていただきたい。そう思えることこそが本当の愛ではないでしょうか」
その直後、強い風がびゅうっとテラスに吹き込んだ。下ろしたままの髪が四方八方にかき乱され、リタはあたふたと必死に押さえる。
「風が強くなってきましたね。自分はそろそろ戻ります」
「は、はい……」
そう言うとセオドアは几帳面に腰を折り、颯爽と会場に戻っていった。リタはボサボサになった髪を手櫛で整えながら、夜空に輝く月をぼんやりと見上げる。
「本当の愛、かあ……」
自分より遥かに年下のはずなのに、セオドアの言葉にはまるで千年を生きた魔女のように達観したものがあった。口にしながら、自身の過去の恋を思い出す。
(私はディミトリに、そんな風に思えていたかしら……)
憧れの勇者様の『特別』になりたくて。どれだけ時が経っても隣にいられる『理由』がほしくて。でもそれらはきっとすべて、自分のためだった。
(うう、なんだかものすごく矮小な人間に思えてきた……)
自己嫌悪に陥ったリタは、邪念を振り払うかのようにぶんぶんと頭を振る。すると再び背後でカタンと窓の開く音がした。セオドアが戻ってきたのだろうかとリタはくるりと振り返る。
「セオドアさん? まだ何か――」
「…………」
だがそこにいたのはセオドアではなく、大きく目を見張ったランスロットだった。彼はリタと目が合った途端、すぐさま踵を返そうとする。
それを見たリタは急いで手を伸ばした。
「ま、待って!」
「っ……」
ランスロットがぴたりと動きを止める。リタはそのまま祈るような気持ちで続けた。
「少しでいいから話がしたいの」
「…………」
「お願い……」
まだ少し肌寒い春の風が、勢いよく二人の間を通り抜ける。やがて観念したのか、ランスロットが窓を閉めてテラスへと歩み出た。
「……俺もお前に、確認しておきたいことがある」
「確認?」
「その……」
そこから始まる、永遠にも思えるほどの長い長い沈黙。
だが何か言葉を発した瞬間、このガラスのような空間が突然がしゃんと壊れてしまいそうで、リタは懸命に彼が口を開くのを待つ。
(いったい何を――)
するとその直後、これまででいちばん激しい春嵐がテラスに吹き荒れた。どこかから拾ってきた白い花びらとともに、リタの長い髪が縦横無尽に巻き上げられる。
「ぎゃーっ⁉」
「リタ⁉」
ランスロットがすぐさま駆け寄り、リタを抱きしめて強風から庇う。春風はガタガタとけたたましく窓枠を揺り動かしたあと、あっという間に去っていった。
「…………」
「…………」
(も、もう落ち着いたかしら……)
そうっと顔を上げる。するとすぐ間近でこちらを見下ろしていたランスロットと目が合ってしまい、二人はほぼ同時に「うわぁ⁉」と叫んでいっせいに距離を取った。
「ご、ごめん! ちょっとびっくりしちゃって」
「お、俺の方こそ、とっさに……」
ランスロットの顔が見るのが恥ずかしく、リタはそれとなく視線をそらす。だがその先にあった窓ガラスに、強風によって作り出された超・前衛的な髪型の自身がしっかりと映り込んでおり、しばしぽかんと立ち尽くしてしまった。
(か、髪がとんでもないことに……)
するとそんなリタを見ていたランスロットが、突然「ふはっ」と噴き出す。
「な、何よ⁉」
「いや、悪い。ちょっと待ってろ」
ランスロットは再びこちらに歩み寄ると、リタの頬へすっと手を伸ばした。いきなりのその行動に、リタはびくっと身構える。
「ラ、ランスロット?」
「…………」
(い、いったい何を……)
今すぐ顔をそむけたくなるが、彼の手に当たってしまいそうで身動きが取れない。やがてランスロットの指先がリタの耳の下に伸び――ひょい、と肩に乗っていた小さな花弁を摘まみ上げた。
「ほら、ついてたぞ」
「花びら……」
「他も随分すごいことになってるが」
「えっ⁉」
先ほどの風でくっついてしまったのだろう。洗われた犬のようにリタがぶんぶんと頭を振っていると、ランスロットが堪えきれないとばかりにまたも笑いを零した。
「取ってやるから。ほら、後ろ向け」
「う、うん」
言われるがままに背中を向けると、ランスロットはリタの髪を束ねるようにして持った。彼の指がちょん、ちょんと髪の毛のあちこちに触れているのが分かり、リタは恥ずかしさをこらえるように唇を噛みしめる。
すると背後から、ランスロットの静かな問いかけが聞こえてきた。
「……というか、殿下と一緒にいなくてよかったのか?」
「ラ、ランスロットこそ、リーディアを一人にして大丈夫なの?」
「おおまかな挨拶は終わったからな」
「そ、そっか……」
以前と変わらない、優しくて心地のよい声。触れられた髪から伝わる、温かい手の温度。なんだか嬉しくなったリタだったが、しばらく経った頃にふと眉根を寄せた。
(……?)
花びらを取るにしては時間がかかり過ぎているし、それになんだかさっきから髪をあっちこっち引っ張られている気がする。
「ランスロット? いったい何して――」
「何って、髪を整えているだけだが?」
「いや整えるどころか、がっつり編み込んでますよね⁉」
リタの突っ込むもむなしく、ランスロットは黙々と作業を進めると、仕上げとばかりに自身のネクタイピンを抜いて結び目の根元に留めた。
「よし、完璧だ」
「あ、ありがとう……。っていうかほんと器用ね」
「当然だ。ヴィクトリア様のためだからな」
ランスロットは誇らしげに微笑むと、自身の胸の前で腕を組む。
「あの黒曜石のように輝く黒髪。普段の下ろしている髪型も素晴らしいが、短くおまとめになった姿もそれはそれはお美しいと思うんだ。そこで俺は、ヴィクトリア様が望まれた際にいつでもお好きな髪型に整えられるよう、幼少期からあらゆる髪結いの方法を習得し――」
「あーあーあー分かった! ヴィクトリア様ね!」
「おいなんだその言い方は」
「だってもういつものことだし」
呆れたように言い返すと、ランスロットが「ふっ」と失笑した。
「ま、御髪を触らせていただける機会なんて、今後一生ないかもしれんがな」
「ふふ、諦めるにはまだ早いんじゃない?」
というか、もう達成したと知ったらどんな顔をするのだろうか。
思わずにやけそうになりながら、リタは自身の後頭部にそっと手を伸ばす。後れ毛一つない綺麗な編み込みが指先に触れ、きっと綺麗に整えてくれたのだろうなと見ずとも分かった。それだけで、なんだか胸の奥が温かくなる。
「…………」
リタはしばらく押し黙ったあと、くるりとランスロットの方を振り返った。
「ランスロット……ごめんね」
「……?」
「パートナーのこと……もっと他にやり方があったかもって」
その言葉を聞き、ランスロットはわずかに顔をこわばらせる。だがリタは続けて自分の思いを口にした。
「前期で私が大変な時、ランスロットはペアを解消しないでいてくれたのに、こんな形であっさりお別れするのはなんか違うというか、寂しいというか……。でもあの場ではああしないと、ランスロットに迷惑がかかるかもしれないと思って――」
「…………」
リタが言いよどんでいると、ランスロットが目をぱちぱちさせながら繰り返した。
「……ちょっと待て。俺に迷惑がかかる?」
「う、うん……。ほら、一応王宮からの命令だし、歯向かったら公爵家の印象が悪くなったりするのかなと」
「あれくらいで公爵家が動じるはずないだろ。殿下の気まぐれには慣れている」
「えっ、そうなの?」
「ああ。まあ、面倒くさくないといえば噓になるが……」
ランスロットはセットした自身の髪に手を差し込み、がしがしと頭を掻いた。





