第二章 2
「冗談です。すみません、ちょっと楽しくなってしまって」
「い、いえ……」
「お疲れでしょう。何か飲み物を――レオン」
「はい」
レオン、と声をかけた直後、ジョシュアの背後にいた青年が歩み出た。
白いシャツに黒いベストとパンツ、というシンプルな出で立ち。襟元には王族の紋章が銀糸で小さく縫い取られている。髪はよくある灰色だが肌は珍しい褐色で、虹彩もあまり見かけない薄紫色だ。
リタが無意識に見つめていると、ジョシュアが「ああ」と口を開く。
「彼はわたしの従者でね。北からこちらに移住してきたんだよ」
「移住……」
そういえばローラの一族も東国から来たと言っていた。
そんなことを思い出しているうちに、レオンが脚の長い細身のグラスを差し出してくる。中には淡い琥珀色の液体が入っており、リタはおそるおそる受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「お口に合いませんでしたら、すぐに別の物をご用意いたしますね」
見た目だけだと冷たい印象だったが、声を聞くと穏やかな人柄であることが分かる。まったく口をつけないのも悪い気がして、リタはグラスの液体にそっと唇をつけた。
(あ、良かった……お酒じゃない)
ヴィクトリア時代、ドレスより苦手だったのがアルコールだ。宰相やら公爵やらの偉い人に勧められ、やむなく口をつけたことがあったが――かなり早い時点で酔いが回り、のちに部屋でぐったりしていた記憶しかない。
ほっとしながらグラスを傾けるリタを見て、ジョシュアは静かに目を細める。
「これからも弟のこと、よろしくお願いしますね」
「は、はい」
軽く微笑んだあと、ジョシュアはレオンを連れてその場を去っていった。その背中を見つめながら、エドワードが嬉しそうに口にする。
「ジョシュア兄上は本当にすごくてね。歴代の王太子の中でも特に優秀だと言われているのに、全然気取らない方なんだ」
「そうなんですね……」
「誰に対しても平等で、誠実で……だからリタにもぜひ一度会ってもらいたくて」
(たしかに、私の知る王族とはちょっと違うかも……)
ヴィクトリアとして王宮に住んでいた頃は、王族と話す機会も多かった。冥王討伐を報告した当時の国王陛下や、勇者様と結ばれた王女・エレオノーラなどは魔女である自分にもとても優しく接してくれたものだ。
だが国王が逝去し、傍流の王族が王宮に出入りするようになると、従者や召使、平民などに厳しい態度を見せる者が増えてきた。実際ヴィクトリアに対して「伝説だなんだと騒がれているが、しょせんはただの魔女だろう?」と陰で言っているのを聞いたこともある。
(私は勇者様が亡くなってからすぐ森に戻ったけど……。最後の方は、結構ひどかったんじゃないかしら?)
そう考えると先ほどのジョシュアといい、平民のリタに思いを伝えてくるエドワードといい、今代の王族はさほど選民意識に囚われていないようだ。なんだか複雑な気持ちでリタは手にしていたグラスを傾ける。
すると目の前にエドワードの手が差し出された。
「それじゃあ行こうか」
「えっ? でもジョシュア殿下との面会はもう――」
「もちろんそれがいちばんの目的だけど、せっかくのパーティーなんだからさ」
するとエドワードはリタが持っていたグラスをひょいと取り上げ、近くのテーブルへと置いた。驚くリタの手を握ると、そのまま大ホールの真ん中へと引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと待ってください⁉ まさか――」
先ほどまでBGMを奏でていた宮廷楽団員たちが、譜面台の楽譜をいっせいに変え始めた。やがて聞こえてきた、今流行りの舞踏曲の前奏とともに勇者――いや、エドワードが満面の笑みを浮かべる。
「さ、踊ろう!」
(い、いやーー‼)
ヴィクトリア時代、王宮での嫌なことが三つあった。
人前で派手なドレスを着ること。好きでもないお酒を吞むこと。そして――衆人環視の中で苦手なダンスを踊らなければならないこと、であった。
・
・
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二十分後。
いくつかの舞踏曲を終え、再びゆったりとしたBGMが大ホール内に流れ始めた。リタはよろよろと近くの壁に歩み寄ると、伸ばした腕を支えにしてその場にしゃがみ込む。
(つ、疲れた……‼)
むやみやたらと注がれる周囲からの視線。ひらひらして動きにくいドレス。そして複雑で難解なステップという三重苦により、リタはかつてないほどの疲労感に襲われていた。
「リタ、大丈夫かい?」
「な、なんとか……」
一方、エドワードのダンスはさすが王子様なだけあって素晴らしかった。リタがうっかり足を踏みそうになるたびにさっと回避し、曲の盛り上がりではちゃんとリタを引き立ててくれる。そういえばディミトリも踊りは得意だったはずだ。
(もっと頑張っておけばよかったな……)
実は若い頃一度だけ、ダンスを猛練習したことがあった。それはこういう催しがあった際、ディミトリと踊ってみたいといういじらしい乙女心からだったのだが――結局最後まで、王女様と踊る姿を遠くから眺めることしかできなかった。
(……まあいっか。今さら一緒に踊りたい人もいないし……)
後悔でちくりと胸の奥が痛み、リタはぎゅっと唇を噛みしめる。
すると会場の入り口付近で、「きゃーっ!」という黄色い声が上がった。いったい何ごとかと振り返ったリタはその場で「げっ」と蒼白になる。
(ど、どうして――)
その場に現れたのは三人の美しい女性だった。
先頭を歩くのは、真っ赤な髪を高い位置で一本に結び、王族の紋章が入った臙脂の騎士服を完璧に着こなす麗人。背はすらりと高く、目が覚めるような美貌の持ち主だったが、歓声のただなかにあってもまったく微笑んでおらず、なんとも気が強そうだ。
そんな女性の後方に、二人の女性が並んで追従している。
左手を歩いているのは色素の薄い茶色の髪を編み込みでまとめ、体のラインに沿ったクリーム色のドレスをまとった優しそうな女性。身の丈ほどもある巨大な杖には、こちらも王族の紋章がついた布が下がっており、それだけでかなりの迫力だ。
もうひとりは青い髪をショートヘアにした小柄な女性で、細い銀縁眼鏡の奥に怜悧そうな瞳が輝いていた。たっぷりと余裕のある袖とフリルが特徴的な上衣と、一見スカートのようにも見えるゆったりとしたシルエットのパンツを穿いており、その裾からは高いヒールがのぞいている。
明らかに異質な美女たちの登場に、リタはわなわなと唇を震わせた。
(どうして、あの子たちがここに⁉)
するとその答えを提示するかのように、隣にいたエドワードが口を開く。
「珍しいな、『三賢人』が揃い踏みとは」
「さ、三賢人?」
「冥王を倒した伝説の魔女・ヴィクトリア。その愛弟子とされるこの国最強の魔女たちさ」
会場のど真ん中を闊歩していく赤い髪の女性を、エドワードが目で追いかけた。
「いちばん前を歩いているのが王立騎士団の騎士団長である『赤の魔女』。その後ろで杖を持っているのが治せない病はないと噂の『白の魔女』だね。そして眼鏡をかけているのが、今この国の宰相を務めている『青の魔女』だ」
(そういえば、そんな話が……)
入学してすぐの頃、ランスロットに王都に連れ出されたことがあった。そこで視力矯正の治療を受けた際、施術者から『三賢人』という存在を教えてもらった気がする。あの時は『そんなに優秀な魔女がいるのか』と適当に聞き流していたが――。
(別人かと思ったけど……やっぱりあの子たちだわ)
ディミトリの死後、森に戻ったヴィクトリアはひとりで魔法の研究に没頭していた。
そんな伝説の魔女の噂を聞きつけ、多くの魔女たちが師事を受けたいと尋ねてきた。しかしもともと引きこもりだったヴィクトリアは『誰かと暮らすなんてとんでもない!』と片っ端から断り続けてきたのである。
だが生涯でたった三人だけ――小さな女の子を引き取って育てていた。
(懐かしいな……みんな立派になって)
幼少期から精霊と会話できたせいで、周囲から化物扱いされていたシャーロット。
盗賊に襲われた村で、不慣れな魔法を使い唯一生き残っていたエヴァンシー。
この子がいると奇妙なことが起こると恐れられ、乳飲み子で捨てられていたミリア。
強い魔力を持って生まれたものの、うまく使いこなすことができずに苦しんでいた子どもたち――そんな彼女たちに自身を重ねてしまい、ヴィクトリアは彼女たちが立派な魔女になれるよう、精いっぱい養育してきたのである。
(最後に顔を見たのはいつかしら? いちばん小さかったミリアがたしか――)
彼女たちが森からいなくなった日のことを、まるで昨日のことのように思い出す。するとエドワードがひょい、とリタの手を握った。
「せっかくだから、挨拶に行こうか」
「えっ?」
「三賢人が揃っていることなんてめったにないんだよ。リタも魔女志望なら憧れるだろう?」
「え、いやあの、ちょっと」
ぐいぐいと引かれる手の先を見ながら、リタは一瞬で思考を巡らせた。
(こ、これはさすがにまずい気がする……⁉)
もちろん、可愛い養女たちと会いたい気持ちはある。
だが旅立ちの際、これが今生の別れになるであろうとお互い大号泣して別れたのだ。おまけに彼女たちと過ごしたのは、ヴィクトリアの人生でもかなり後半のこと。それなりに年齢を重ねた見た目だったので、今の少女の姿で会うのは少し――いや正直かなり恥ずかしい。
(そのうえ学生生活謳歌してます、なんて言えるはずない……!)
しかし悩んでいる間にも、エドワードはどんどん三賢人との距離を詰めていく。焦ったリタは仕方なく「ああっ!」と声を上げて立ち止まった。