第五章 5
「実はその……ぼくは入学式より前に、彼女に会っているんです」
「えっ⁉」
「あ、いえ、そんな昔ではなく、単に数日前というだけなんですが……。学生寮への入寮準備をしていた時に、たまたま近くで言い争う声を聞いて――」
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そこでは一人の男子生徒がいじめられていた。
『騎士候補』ともあろうものがくだらないことを――とすぐに止めに入ろうとしたランスロットだったが、彼が飛び出すよりも先に大きな叫び声が聞こえたのだ。
「先生ーっ! 早く来てーっ! 火事が起きてますーっ‼」
(……?)
回廊の先にある図書館の方を振り仰ぐ。火災の気配はない。
だがいじめていた男子生徒たちは動揺し、あっという間にいなくなってしまった。
するとその場に、だぼだぼの制服を着た少女が飛び出してくる。
「あの、大丈夫ですか⁉」
(あれは魔女候補? しかも新入生か?)
彼女はいじめられっ子に懸命に話しかけたかと思うと、彼の眼鏡を手に取って魔法をかけ始めた。
二人はすっかり意気投合したのか、なにやら穏やかに笑い合っていたが――やがて少女の方が自身を「リタ・カルヴァン」だと名乗る。
(リタ・カルヴァン……)
やがて火事だと勘違いした教師の声がし、少女は逃げるようにしていなくなった。
物陰からそれを見ていたランスロットは、一人彼女の名前を復唱する。
「リタ・カルヴァン……」
猫みたいな名前だな、と思った。
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「それから入学式があって、ぼくは『リタ・カルヴァン』という魔女候補がいるかを教師に尋ねました。そこで彼女を指名したんです」
「ちょっ……と待って⁉ ど、どうして、それだけで……」
「純粋に、強い女性だと思ったんです」
「つ、強い……?」
取り乱すヴィクトリアに、ランスロットは照れたように笑う。
「ぼくのように力を持っている人間が誰かを救うのは簡単だし、当然すべきことです。ですが彼女は――リタはぼくのように強いわけでも、貴族というわけでもありません。いじめなんて気づかなかったふりをして、こっそり逃げることだって出来た」
でも彼女はしなかった。
あの小さな体で。
持てる知恵を精いっぱい使って、人を助けたのだ。
「かなわない、と思いました。そして同時に、自分の背中を預けるのなら、こんな相手に託したい――と思ったんです」
「だから、リタを……?」
「……あいつには黙っていてもらえますか? 覗き見していたとバレたら『どうしてもっと早く出てこないのか』と怒られそうですし、なんだかその……ぼくがあいつを認めているみたいで、ちょっと癪なので」
「認めていても、別に嫌がらないと思うけど……」
「いえ。あいつにはまだまだ頑張ってもらわないと。……なにせ、このぼくが初めて自分の意思で選んだ、大切なパートナーですからね」
(大切な、パートナー……)
その言葉を聞いた瞬間、リタの胸に不思議な温かさが宿った。
どこか覚えのある、甘く――切ない感情。
『こいつをパートナーに選んだのは、紛れもなく俺自身の意志だ。したがって、能力差を理由にパートナーを解消することはないし、他の誰かを選ぶこともあり得ない』
(……そうだ、ランスロットははじめから、ずっと言ってくれていた)
『……良かった、てっきり一人で無茶しているのかと』
(ヴィクトリアを前にした時も、いつも私のことを先に心配してくれた……)
『俺なら、突然現れた他の女性より、いつも傍にいてくれたお前を大切にしたい――と思うだろうから……』
(私は……誰からも選ばれなかった、人間なのに――)
再び、体の奥底で何かが砕ける音がする。
気づけばリタは、片方の目からつうーっと一筋の涙を流していた。
「ヴィ、ヴィクトリア様⁉ い、いったいどうされて……」
「ご、ごめんなさい……。なんでもないの、ほんとに……」
だがリタの涙は止まらず、いくつも頬を伝い落ちる。
それを見たランスロットは持っていたハンカチをそっと差し出した。
「よければ、これを」
「…………」
静かに首を振るリタを前に、ランスロットはわずかに唇を噛みしめる。
「すみません、ぼく……何か、あなたを悲しませることを言ってしまったんですね」
「……違うわ。少し昔を、思い出しただけ……」
「ヴィクトリア様……」
ランスロットの手が伸び、リタの眦へハンカチを添えた。
「こんな若輩者が何を言っても、戯言にしか聞こえないかもしれませんが……。ぼくは本当にずっと、ずっと昔からあなたのことをお慕いしていました。もちろん、今も」
「…………」
「あなたが王宮から離れられたあとも、きっとどこかで生きておられると信じて、今日この日までたゆまぬ研鑽を積んできたつもりです。それもすべては、あなたの『騎士』となりたい――ただそれだけのために」
「ランスロット……」
目元を赤くしたリタを、ランスロットがまっすぐに見つめる。
「あなたの涙を、いちばん先に拭いたい。あなたとともに生き、あなたの幸せだけを考え、そして命を終えるその瞬間まで、あなたの傍にいたい。どうか――ぼくを選んでいただけないでしょうか?」
「あなたを、選ぶ……」
「はい。……あなたが好きです、ヴィクトリア様」
「でも、私は――」
すると二人がいる四阿に向かって、何やら軽快な足音が近づいてきた。
気づいた二人がなんとなく距離を取ったところで、遊歩道を歩いてきた誰かが手を上げる。
「ああ、本当にいた! おーい、ランスロット!」
「殿下⁉」
(……?)
驚くランスロットをよそに、殿下と呼ばれた青年が四阿の前に立った。
その姿を見たリタは、かつてないほど大きく目を見張る。
(どういう、こと……?)
そこにいたのは紛れもなく『勇者』その人だった。
さらさらでまっすぐな金の髪に、エメラルドのような緑の瞳。
ちょっと幼い、だが爽やかな顔立ちもそのままに、リタに向かってにこっと微笑みかける。
「デート中、失礼いたします」
「殿下、どうしてこちらに……」
「君の父上に用があってね。で用事も終わったし、ついでに君の顔を見て帰ろうとしたら、中庭で女性と二人きりだというじゃないか。今まで浮いた話一つなかった君のことだ。どうせ結婚まで考えている相手なのだろうから、それなら一足先にご挨拶をと思ってさ」
「余計なことを……」
楽しそうにウインクする『勇者』に対し、ランスロットは本気で呆れている。
一方リタは自分でも訳の分からない動揺に陥っていた。