第三章 6
「……なに、あれ……?」
普通の鳥とは思えない、十メートルはありそうな両翼。
それを支える大きな体からは黒い靄のようなものが常に立ち上っており、その目は灰色に濁り切っていた。嘴とかぎづめは鋭利に尖り、かすめるだけでも致命傷となるだろう。
それに先ほどから、黒く燃える火球のようなものを吐き出していた。それは地面に触れた途端、ドウンという轟音とともに周囲を破壊していく。
(何あの火球? まさか魔法――)
するとリタに気づいたのか、ランスロットが駆け寄ってきた。
「馬鹿、どうしてついてきた!」
「し、心配で……それよりあれは?」
「あれは『冥獣』だ」
「冥獣?」
「十年ほど前から王都を中心に目撃されている。普通の動物に比べ、非常に体が大きく強靭。巷では『冥王復活の前兆』――なんて言われているけどな」
「冥王復活⁉」
とんでもない発言に、リタはあわわわとあらためて冥獣を見上げる。
こんな巨大な鳥、冥王がいた時代にだって見たことがない。
(冥王の力の残滓に影響された、何らかの新生物とか……? でも冥王討伐後、生き残りがいないか王国中すみずみまで調査させたはず……。私が王宮にいた五十年の間にも、こんなの出会ったことないし――)
だがリタには、一つだけ既視感を覚える現象があった。
『冥獣』の体から立ち上っている黒い靄のようなもの。あれは紛れもなく『冥王』とそれに類するものに見られた特徴である。
(どうして? 冥王は、確かに勇者様が倒したはずなのに……)
思考にふけるリタをよそに、ランスロットは腰に佩いていた剣を抜いた。
「くそ……見張りの目をかいくぐって、どうやってこんな中心部まで来れたんだ? まあいい、お前はここから離れて避難しろ。絶対に近づくんじゃないぞ!」
「ラ、ランスロットは……」
「俺は『騎士候補』だ。王都の警備隊が到着するまで、市民を守る義務がある」
「そんな……!」
そう言うとランスロットは、力強く冥獣に向かって走り出した。
(到着するまでって……大丈夫なの⁉)
ギャア、ギャアという冥獣の鳴き声がこだまし、それだけでとてつもない恐怖に襲われる。すると逃げまどう人々の後ろで、なぜか落ち着いた声が聞こえてきた。
「おお……『使徒』様が、我らの新たな希望を生み出してくださった……!」
「なんと猛きお姿! 冥王様のお戻りも近い……」
(あれは……さっきの冥王教?)
腕に入れ墨のある男たちが、どこか恍惚とした眼差しを冥獣に送っている。
『冥王復活の前兆』――と、本気で捉えているのだろうか。
(とにかく、まずはここから離れないと――)
だがリタはそこで、小さな子どもの声をキャッチした。
「……?」
慌てて周囲を見回す。
すると崩壊した建物の下で、うずくまっている男の子を発見した。
「だ、大丈夫⁉」
「あ、足を、怪我しちゃって……」
見れば男の子の足には、目をそむけたくなるような裂傷が出来ていた。今すぐ治療しなければ出血多量で致命傷になりかねないレベルだ。
(どどど、どうしよう! ち、治癒魔法⁉ だけどあれは薬草と聖水が必要だし、道具なしの魔法となると、私の馬鹿みたいな魔力が子ども相手にどう影響するか想像もつかないし……。ああーっ、こんな時に治癒魔法が得意だったシャーロットがいてくれたらーっ‼)
かつての愛弟子の名前を脳内で叫びつつ、スカートの端をちぎって応急処置をする。
そこで再び、けたたましい破砕音がリタたちの周囲を揺らした。
「ランスロット⁉」
どうやら冥獣が近くの塔を粉砕したらしい。
地上に崩れ落ちた瓦礫の山でもうもうと砂ぼこりが巻き起こり、ランスロットの姿はおろか、冥獣がどこにいるのかも視認できない。
(どうしよう、このままじゃ……)
男の子の方をちらりと見る。
あまり長い時間はかけられない――と判断した瞬間、リタは男の子に指示を出した。
「出来るだけ身を屈めて、耳を塞いで」
男の子がすぐに従ったのを確認すると、すばやく口元で呪文を紡ぐ。
「土の精霊よ、彼の子に壁を。風の精霊よ、彼の子に守りを――」
男の子の足元にあった土が盛り上がり、盾のようにぐぐぐっと反り上がる。同時に分厚い大気の壁が男の子を包むように張り巡らされた。
「少しだけ待ってて。……すぐに終わらせるから」
そう言うとリタは小さく微笑み、男の子を残して市場の真ん中へと戻った。
横転した塔を止まり木のように使い、ギャッ、ギャッと叫んでいる冥獣を発見すると、量産型の杖を差し向ける。
その瞬間――かつての激闘を思い出した。
(そっか……あの二人はもう、この世界にはいないんだ……)
勇者と修道士。
ヴィクトリアにとって最初で最後の仲間。
「…………」
心臓がずきんと痛む。
だがリタは大きく息を吸い込むと、そのまま唇を強く引き結んだ。
(なら私が――何とかするしかない!)