第五章 9
「ランスロット、みんなを連れてここから逃げて」
「待て、いったい何するつもりだ」
「……この空間を、切り離す」
「はあ⁉」
ランスロットがすっとんきょうな声を上げる。私だって試したことないけどと前置きし、リタは簡潔に説明した。
「多分このまま放置したら、冥府と私たちの世界が完全に融合してしまう。だから広がり切るその前にここだけ別の空間に繋げてしまおうと思って」
「そ……そんなこと出来るのか?」
「分からない。でも巻き込まれたら最後、こっちの世界に戻って来られない可能性が高いの。だから――」
話している間にもリタの作り出した空間はどんどん広がっていく。異変を察したレオンの顔から笑顔が消え、片翼を出してこちらへと飛来してきた。ランスロットはすぐさまリタの前に出ると、講堂内の仲間たちに向かって叫んだ。
「ローラ、リーディア、今すぐここから出ろ! セオドア、エドワード、アレクシスを連れて外に!」
そのままレオンに対して剣を向け、ランスロットが果敢に応戦する。その隙にローラが近くの窓ガラスを割って脱出し、セオドアがリーディアを担ぎ上げた。それらを視界の端で確認したリタは「ランスロット!」と呼びかけて杖をレオンへ向ける。
「そこを離れて!」
「――っ」
「アルバンテール!」
杖の先に高温の炎の渦が生じ、人間の頭一つ分ほどの火球が出来上がる。ランスロットがよけたタイミングを見計らい、リタはそれを勢いよくレオンに衝突させた。地面を揺らすほどの爆発が起き、焼け焦げた片翼を見たレオンが怒りをあらわにする。
「この、人間風情がっ……」
「ランスロット、早く逃げて!」
すると次の瞬間、リタとレオンの立っていた場所が一変した。
星空の中に放り出されたと思った途端、足元が崩れて遥か下方へと落下していく。意識の端っこだけがまだそこに残っているかのような――そんな不思議な感触のなか、リタはランスロットがいた場所にそっと目を向けた。
(結局最後……お別れも言えなかったな……)
魔力を限界まで使い果たし、もう何の思考も出てこない。
やがて落下の速度が少しずつ緩み、硬い床らしきところにどさっと叩きつけられた。痛みで動けなくなったリタがそっと目を開けると、そこには黴臭い赤い絨毯が広がっている。
(……? ここは……)
本当はもう指一本動かしたくない。
だが自分の魔法の結果をちゃんと見定めなければと、なんとかして体を起こす。ズキズキと痛む頭を押さえながら周囲を見回す――。
「お、お城……?」
首が痛くなるほど見上げる高い天井。採光用に大きく作られた豪華な窓。古びた絨毯の先はいくつかの段になっており、その中央に精緻な装飾で飾り立てられた玉座があった。
しかし天井から下がるシャンデリアはあちこち鎖が切れて傾いているし、窓はすべてひび割れて一部はガラスが消失している。玉座に貼られていたであろう金箔はすべて剥げ落ち、長らく誰も座っていないことを証明していた。
「リヴェイラの王宮……じゃない? じゃあいったい……」
「冥府の王宮ですよ」
突然別の声が聞こえ、リタはすぐさま杖を構える。やがて玉座とは反対側の暗闇からレオンが姿を見せた。
「ここが……冥府?」
「そうです。暗くて寒くて汚いところでしょう」
レオンが感情の見えない冷たい顔つきで答える。どうやら二つの世界が混じりあうことは防げたようだが、作り出した空間が冥府側と癒着してしまい、ここまで落ちてきてしまったということだろう。
確かに窓の外は夜かと勘違いするほど薄暗く、壊れた壁から入り込んでくる風は雪を予感させるほど冷たい。アレクシスが「冥府は崩壊している」と口にしていたのを思い出し、リタはレオンに問いかけた。
「あなた、本当の冥王じゃないのよね?」
「……それは、サーゼと比較して言っているのですか」
分かりやすく眉根を寄せ、レオンはリタに向かって手を振りかざす。先ほどの戦いでも使われた巨大な黒い手が床から生え、あっという間にリタをわしづかみにした。
「――っ……!」
「あの男は、消滅しかかっているこの世界よりもお前たちの世界を優先しようとした。そんな男が王であるはずがない」
締め付ける力が強くなり、体中の骨が軋んでいるのが分かる。痛いというよりもはや熱い。リタが一切抵抗しないことに気づき、レオンがまたも眉間に皺を刻んだ。
「今度は私が質問する番です。あなた、いったい何をしたんです?」
「二つの世界の間に新しい空間を作って、繋がりかけていたところを分離させた……。実際に出来るのか賭けだったけど、とりあえず上手くいったようね……」
「……さすがはあの、サーゼに傷をつけた人間ということですか。まったく余計なことばかりしてくれる……」
レオンがぎりっと奥歯を噛みしめ、自身の手をぐっと握り込む。黒い手が連動するように収縮し、リタは濁点が付いた短い悲鳴を上げた。
「戻せ、と言っても無駄なんでしょうね。おそらくあなたは『自分が戻れない』という覚悟でこちらの世界に来たのでしょうし」
「…………」
「お望み通り、さっさと冥府の正式な住人にして差し上げましょう」
ごき、と耳障りな音がしたかと思うと右の肩に激痛が走る。杖を握っていた右手が勝手に開き、いっさい力が入らなくなった。これではもう――。
「あなたはこれで世界を救ったと思っているかもしれませんが、しょせんは無駄なことです。私はまた新しい取引相手を見つけ出し、あなたがたの世界を侵略する。……絶対に、この世界を滅ぼすわけには――」
「――その前に、ここで倒してやる」
(……?)
意識を失いかけていたリタの耳に懐かしい声が飛び込んでくる。
直後、頭上にあった天井が崩落し、そこからいくつかの黒い人影が勢いよく落ちてきた。きらりと光る剣身が一瞬見えたかと思うと、そのままの勢いでレオンを急撃する。
「――っ!」
レオンの集中がそちらに向いたのか、リタを拘束していた黒い手がふっと消失する。乱暴に投げ出されたリタの体を、力強い二本の腕がしっかりと抱きとめた。
「リタ、無事か⁉」
「どうして……」
そこにいたのはランスロットだった。続いて剣を構えたエドワードも姿を見せる。
「わたしもいるよ。リタ、大丈夫かい?」
「エドワード殿下まで……なんで……」
「彼を助けようとしていたら、逃げるのが間に合わなくてね。でもそのおかげで君のピンチに駆けつけられたのかな?」
エドワードが振り返った先にはアレクシスの体があり、リタはいよいよ言葉を失ってしまう。ランスロットはそのままリタを壁際へ座らせると、安心させるように頭を撫でた。
「遅くなって悪かった。あとは俺たちがやるから」
「やるからって……。そもそもどうして来ちゃったの? こっちの世界に来たら、もう戻れないかもしれないのに――」
「俺はお前のパートナーだ。最後まで、お前を一人にはしない」
「……!」
ランスロットの目がまっすぐにリタを見つめる。彼の青い瞳に泣きそうな顔の自分が映り込んでいるのが分かり、リタはたまらずうつむいた。ランスロットはリタの背中を優しく叩くと、彼女を安全な場所に残してエドワードの隣に立つ。
「殿下、腹をくくってください」
「心配しなくても。こう見えて、結構怒っているからね」
声をかけ合い、二人がそれぞれ別方向に走り出す。右と左、前と後ろと目まぐるしく陣形を入れ替えながら、中央にいるレオンに幾度となく斬りかかった。付き合いが長い二人だからこそ、相手の動きが手に取るように分かるのだろう。
「殿下、とどめを!」
「ああ!」
ランスロットがギリギリまで引きつけ、死角となる背後からエドワードが一撃を加えようとする。だがその瞬間、振り下ろした長剣がギャン、と音を立てて柄だけになった。折れた剣身が古びた絨毯の上に落ち、エドワードの動きが一瞬止まる。
「なんで――」
刹那、レオンの操る黒い手がエドワードの体を叩き潰した。ぐっ、とくぐもった声が聞こえ、ランスロットがすぐさまフォローに入ろうとする。しかしレオンはランスロットの腕を摑むと、そのまま後ろ手に捻り上げて床へと引き倒した。
「っ……!」
「まさか、本気で私に勝てると思ったんですか?」
恐ろしいことにあれだけの猛攻にもかかわらず、レオンの体には傷一つ付いていなかった。ぐっ、と力をかけるとランスロットが短く呻く。
「ここは冥府、私の領域です。あなたたち人間の攻撃なんて通るはずがない」
「……っ、黙れ……」
「威勢だけはいいですね。まあ、それもどこまで持つか」
「ぐっ……、あっ……!」
ランスロットが必死に声を押し殺す。その惨状を見てリタは必死に杖を摑んだ。
(助け、ないと……)
だが空間の精霊に魔力の大部分を持っていかれ、右肩は激痛でまともに動かない。左手一本でなんとか杖を突こうとするも、四つん這いのような体勢でランスロットが苦しむ様子を眺めることしか出来なかった。
(詠唱しないと……。でも、誰を呼べば……)
火、水、風、土――どの子に頼んだとしても、今の魔力でどれほどの効果が出せるのか分からない。どうしよう。こんな肝心な時に何も出来ないなんて。
「誰か……助けて……」
涙が混じった、絞り出すようなか細い声。
誰にも届かないように思われたその願いに、やがて小さな答えが帰ってきた。
「……リタ……聞こえるかな……」
「……?」
「こっち、来て……」
ひどくかすれていたが、その声は紛れもなくアレクシスのものだった。
リタは涙で濡れた瞳を上げると、ずる、ずると這うようにして倒れている彼に近づく。アレクシスの体は血の付いていないところがないくらいボロボロになっており、乱れた前髪の間からリタの顔を見上げてきた。
「良かった……まだ無事だね……」
「アレクシス、ごめんなさい、私……」
「いいよ。それより、今だけ僕のパートナーになってくれないかな?」
「……? こんな時に何を……」
「お願い」
有無を言わさぬアレクシスの言葉を受け、リタはためらいがちに彼の手に触れる。アレクシスは顔を上げることもかなわぬまま、だがどこか嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとう。君に、僕の力を託すよ。あいつにはまだ、出来ないはずだから――」
「……?」
じんわりと、だが確かにアレクシスの手から何かが流れ込んでくる。
魔力を動かした時の感触によく似ているが、精霊たちが好むような温かさはなく――どこか水銀の質感を思わせる、硬質で冷たい力がリタの全身を巡っていった。