第五章 8
そこまで口にしたあと、アレクシスは「うっ」と痛みに顔をしかめ、今なお血が滲んでいる右肩を反対側の手で押さえつけた。混乱で言葉を失うジョシュアを下視したあと、ゆっくりと観客席にいるリタを振り返る。
「リタ、これで信じてもらえたかな」
「アレクシス……」
「あとはとりあえず……これを、閉じない、と――」
アレクシスがよろめきながら、舞台上にあった空間の裂け目へと向かう。いつの間にか冥獣や信者たちはいなくなっており、リタたちを押さえつけていた黒い手も姿を消していた。ようやく自由になった体を起こし、急いで今の状態を整理する。
(冥王……じゃない、セュヴナルが倒された? じゃあこれで――)
張り詰めていた緊張が解け、リタは安堵の息を吐き出そうとする。
だがその時、目の前を透明な何かがするりと移動した。
「アレクシス、待っ――」
じゃり、という瓦礫の欠片を踏みしめた音だけがその場に落ちる。風景の輪郭がぐにゃぐにゃと流れるように歪み、瞬きと同じ速度で透明な何かが舞台へと近づいた。
「て――」
リタが次の言葉を出した瞬間、それはこちらに背を向けていたアレクシスに肉迫する。
直後、どすっ、という肉を断つ嫌な音が講堂内に小さく響いた。
「なっ……⁉」
「やはり、まだ余力がありましたか」
アレクシスが短い驚きの声を上げ、そのまま舞台の上でくずおれる。その体からは先ほどの比ではない大量の出血が生じており、ローラかリーディアのものか分からない甲高い悲鳴が遅れて響き渡った。
(どういうこと⁉ いったい誰が――)
すると舞台にいた透明な何かが、ようやく輪郭を伴う姿を現し始めた。わずかな光に照らし出されたそれはアレクシスの血で汚れた剣を握ったまま、どこか演技がかった態度でおもむろにリタたちの方を振り返る。
そこにいたのは間違いなく――レオンだった。
ただし灰色の髪は雪のような白色に変わり、薄紫だった瞳は琥珀色になっている。
それ、はどこか表情に乏しかったレオンとは対照的に蠱惑的な笑みを浮かべた。
「皆さんはじめまして。私が本物の『冥王』です」
そう言うとレオンは舞台の上で苦しむアレクシスの体に足を乗せ、そのままどすっ、と階段の方へ蹴り飛ばした。満身創痍のアレクシスは短いうめき声を上げたあと、光の届かない階段の中ほどに転がり落ちる。
無様なその姿をレオンが楽しそうに見下ろした。
「あなたが人間に転生していると知った時は正直驚きました。まあ、その体では大したことは出来ないだろうと踏んでいたのですが……念のため囮を用意しておいて正解でしたね」
「クソ、が……」
「用心深い、と言ってください」
にこ、と切れ長の目を細めるとレオンは片方の髪を掻き上げる。そこには先ほどまでなかった動物の角らしきものが生えており、リタはようやく今の状況を理解した。
(こっちが……本物のセュヴナル……!)
おそらくセュヴナルは、こちらの世界に来たタイミングでアレクシスから攻撃されると考えていたのだろう。そのためアレクシスが裏切り者だと嘘をつき、あらかじめ命を奪うように指示をした。さらに予防線としてジョシュアではなくレオンの体に乗り移った――。
(でもそのこと、ジョシュア殿下は知らないんじゃ……)
リタの予想は当たり、アレクシスに刺されて舞台の片隅に倒れ込んでいたジョシュアが、信じられないものを見るような目でレオンを仰いだ。
「冥王……様……? どうし、て……」
「ジョシュア。君のおかげでこうしてこちらの世界に来ることが出来ました。感謝しますよ」
「違う……。わたしが器になる、はずで……レオンは関係な……」
「別に、使う体は誰でも構わなかったんです。どうせ器となった人間の意志は奥底に追いやられていつか消えてしまいますし」
「消え……?」
「おやあ? もしかして自分が冥王になれると勘違いしてました? たかが人間風情がなんと傲慢な。あなたはね、ずっと私に騙されていたんですよ」
「そん、な……」
ジョシュアの目に残っていたわずかな光が消えていく。その絶望への変化をレオンは頬を紅潮させながら楽しんでいた。
「冥府はけして平等などではありません。力を持つ者がすべてで、持たない者は死んでいくしかない。こことなぁんにも変わらない世界なんです」
「うそ……だ……。じゃあ……この儀式が成功したら、あの子を蘇らせられるというのは……」
「そんなの、無理に決まってるじゃないですか」
「……!」
レオンはジョシュアのもとに歩み寄ると、いまだ出血している腰のあたりに足裏を乗せた。そのまま狙いを定めると彼の傷口をしたたかに蹴る。ジョシュアのものすごい絶叫が講堂内の空気を振動させ、リタはたまらず目を閉じた。
「まあ、白の魔女? でしたか。彼女にそれに近い能力を与えたことはありましたが、あれは蘇生させたわけではなくて、さも生きているように動かしていただけです。今頃は瘴気を吐き出すだけの何かになり果てているでしょうね」
「うそだ……」
「一度冥府に来た人間は、二度とこちらの世界に戻ることは出来ない。子どもでも知っている常識ですよ。……ああでも、そのまま息絶えたら愛しいその方と会えるかもしれませんね。もちろん、冥府の底で」
あはははは、と皮肉を孕んだレオンの笑い声を聞きながら、ジョシュアはついにその場で意識を失った。動かなくなった彼をつまらなさそうに足で踏みつけたまま、レオンは舞台の奥に出来た空間の裂け目に目を向ける。
「やっとだ……これで冥府が救われる……!」
(だめ……)
無理やり魔力を使われた激痛に耐えながらリタは空間の裂け目を見る。奥には見たこともないような深い闇が広がっており、さっきよりも明らかにその範囲が増していた。
(このままじゃ、この世界を乗っ取られてしまう……!)
杖を握りしめ、リタは精霊たちに呼びかけようとする。
だが舞台上にいたレオンがすぐに気づき、こちらに向かって片手を伸ばした。
「おっと、まだ抵抗するつもりですか?」
「――っ!」
定型を持たない黒い手がぐにゃんぐにゃんとレオンの床から生え、リタに向かって勢いよく飛来する。とっさに杖を構えたリタの眼前に、いきなり人影が飛び込んできた。
「リタ、大丈夫か⁉」
「ランスロット……!」
黒い手を剣身で絡めとるようにしてランスロットが立ちはだかる。その隙をついてエドワードが舞台に向かって全速力で駆け出した。落ちていた瓦礫を足場に高く跳躍すると、渾身の力でレオンに向かって剣を振り下ろす。
「――兄上から、足を、どけろ!」
「邪魔ですよ」
別方向から生えてきた黒い手に横っ腹を殴られ、エドワードは講堂の内壁に派手に激突する。蔓延する瘴気と土埃が混じって視界が取れなくなった一瞬、レオンの死角から黒い革手袋をはめた拳が飛び出してきた。
「あなた、悪い人ですね!」
二撃、三撃と繰り返されるローラの攻撃をレオンはいとも簡単に交わしていく。それを見てローラは大きく息を吸い込んだ。
「――炎の精霊よ、我が声を聞き、我が願いに応じよ!」
ローラの手から灼熱の炎が上がり、彼女の武力を限界まで強化する。チリ、と炎のふちがわずかにレオンの頬をかすめ、彼は心底不愉快そうに腕を持ち上げた。
「小賢しい真似を」
打ち込まれた拳をがしっと摑み返すと、レオンはそのままローラを放り投げようとする。すると今度はその足元に鋭い氷の楔が撃ち込まれた。振り返ると杖を構えたリーディアが立っており、綺麗な顔を真っ赤な怒りに染めている。
「いったいなんですの、あなた!」
「次から次へと……」
詠唱を終えると同時に、限界まで研ぎ澄まされた氷の矢がレオンめがけて飛んでいく。彼は片眉を上げると、手のひらを軽くそちらに向けた。直後、氷の槍は見えない壁に猛烈なスピードで衝突し、粉々になってそこらじゅうに転がり落ちる。
防ぎきれなかった氷片のいくつかが顔に飛び、レオンが不快そうに眉をひそめる――そのタイミングで背後からセオドアが斬りかかった。
「――っ!」
「だから無駄ですって」
完全に背後を取ったと思われたが、レオンは分厚い羽で覆われた白い片翼を背中に生やした。柔らかいそれに剣の重さが完全に吸収されてしまい、セオドアは舞台へと転がり落ちる。
そのままレオンから勢いよく蹴り飛ばされ、こちらも観客席の角に衝突した。仲間たちが次々と倒されていくのを見ながら、リタはひとり必死に術式を組み立てる。
(あと……もう少し……)
レオンの目がこちらを向き、ゆっくりとリタとランスロットの方へ歩き始める。
「今さら何をしても無駄ですよ」
「…………」
「まもなくこの世界は冥府と一つになる。そうすれば――」
その瞬間、リタの中で一つの術式が組み上がった。きちんと相談する時間もなく、リタは目の前にいたランスロットの背中を強く押し離す。
「ランスロット、離れて!」
「リタ⁉」
ランスロットが振り返り、驚いた顔でリタを見た。一方リタは杖を床に突き立て、とある精霊に呼びかける。
「――空間の精霊、レティーリア。我が声を聞き、我が願いに応じよ」
刹那、レオンの表情が明らかに変わる。時を同じくして、可愛らしい男の子の声がリタの耳元で転がった。
『お姉さん、ほんとにぼくを呼んじゃったんだ。ふふ、だいじょうぶ?』
「……あなたの力が必要なの、レディーリア」
『いいよ。でもお姉さんへとへとじゃない。だいしょうを払ったら死んじゃうかもよ?』
「……いいの。お願い」
『ふーん。まあ、おもしろそうだから、いいよ!』
レティーリアの承諾を受け、リタはたった今作り出した詠唱を諳んじた。
「ここは二つの世界の狭間。しかして混じりあうことは望まぬ。断絶せよ異なる世界。断割せよ世の理。我は柱となりこの空間を守りし者――社稷」
もう一滴も出ないと思っていた雑巾から、無理やり水を絞り出すかのような。
魔力を蓄えている全身の細胞が悲鳴を上げ、リタは痛みと不快感が混じりあった未知の感覚に引っ張られた。冥王を倒す時も大規模魔法を連発したが、一度に引き出される魔力の量があの時の比ではない。
(っ……!)
やがてリタの足元から、深い藍色の空間に瞬きごとに色を変える小さな星粒をちりばめた、美しい色彩が広がっていく。それはさざ波が砂浜を濡らすかのようにゆっくりと範囲を拡大していき、やがて講堂全体を呑み込もうとしていた。
無事に発動した魔法を確認し、リタは再度ランスロットに頼む。





