第五章 7
鏡越しの声は、毎日のように冥府の素晴らしさをジョシュアに伝えてきた。
冥府は一年中花と緑に囲まれていて誰も飢えることがなく、こちらの世界のような身分制度もない。皆が自分の夢に向かって自由に暮らしていけるし、大切な人が亡くなったら自分が何度でも甦らせるからいつまでも一緒にいられる。
それらはすべて、冥王の偉大なる力があるから――。
「語られるそれは、まさにわたしが理想とする世界でした。冥王様を倒したことは人類にとって大きな過ちで、彼に支配されることこそが本当の救済になるはずだったのに」
「それは……本気で言っているのですか」
「もちろんです。だからわたしは声にすがりました。どうすればこの世界も冥府のように平等で美しくなれるのですかと」
声の回答はこうだった。冥王をそちらの世界に召喚すればいい、と。
「わたしは王宮内で唯一心を許していたレオンにその話をしました。彼もわたしの考えに快く賛同してくれて……そうして冥王様から力を貸していただいたのです」
初めは現王政に不満を持っていた地方貴族たちへ。次に貧民街に人を遣り、親のいない子どもや行き場のない者たちに教えを説いて回った。さらに当時王宮で注目されていた白の魔女シャーロットにも揺さぶりをかけ、まんまと協力者として確保した。
こうして少しずつ、冥王教と呼ばれるものを作り上げていった。
「冥王様をこちらの世界にお呼びするには、第一に『瘴気』と呼ばれる物質が必要でした。わたしはアルバ・オウガの植物をレオンに採取してきてもらい、シャーロットの技術で瘴気を生み出せるよう改良してもらったのです。その際、動物や人からも瘴気を発生させることが可能だと判明しました」
出来るだけ早く召喚を行いたかったジョシュアは、積極的に動物や人への投与を試みた。
一部の動物は巨大化・狂暴化し、瘴気を放つ冥獣化を。また投与された人間のうち、ごくまれに冥府の力を扱える者が現れ始めた。彼らは魔法に似た力を魔力なしで使用することができ、そのうえ冥獣を生成することも可能だった。
計画が露見するのを防ぐため、万一の時には冥王教に関わるすべての記憶を忘却するようにし――その後も時間をかけて冥獣や信者たちの増加にいそしんだ。
そうしてようやく、冥王から召喚の許しが出た。
「冥王様がこちらの世界に来られてもいいように、この辺り一帯を高濃度の瘴気で満たしました。あとは――」
ジョシュアの言葉が終わるのを待たずして、レオンがすっと自身の片腕を伸ばす。直後、彼の足元から巨大な狼型の冥獣が出現し、二匹、四匹とどんどん増えていったかと思うと、勢いよくリタたちに向かって襲いかかった。
「伏せろ!」
ランスロットとセオドアが剣を構え、冥獣たちに真正面から立ち向かう。すると死角となる位置から今度は剣や斧を持った男たちが現れ、後ろにいたリタたちを強襲した。男たちの腕には冥王教の信者である証の入れ墨がびっしりと彫り込まれている。
「くそっ、どこに隠れていた!」
後列にいたエドワードとアレクシスがすぐに応戦する。だが絶え間なく生み出される冥獣と恐れを知らない信者たちの攻撃はかつてないほど激しく、戦列を守るのがやっとだ。魔法で攻撃したくとも味方に当たりそうで身動きが取れない。
(早く……早く止めないと……!)
その光景を舞台から眺めていたジョシュアが、やがて自身の手を頭上に掲げた。
『――鎮給王御前』
低音と高音を同時に発しているような不可解な声が、聞いたこともない呪文を紡ぐ。
次の瞬間、絨毯に落ちていた影から真っ黒い手が何本も伸びてきて、リタたちに次々とまとわりついた。触れられたところから一気に力が抜けていき、全員あっという間に床へと縛り付けられる。舞台上にいたレオンが軽い身のこなしで下りてきて、アレクシスの前へ立った。
(……? いったい何を――)
するとレオンは腰に佩いていた剣を抜き、そのまま容赦なくアレクシスの右肩へと突き立てた。耳を塞ぎたくなるような叫びが上がり、リタは拘束された状態でびくっと体を震わせる。
なぜ? どうしてアレクシスを?
「冥王様から伺いました。アレクシスさん、あなた裏切り者なんですってね」
「……っ!」
「かつて冥府を混乱に陥れた大悪党だと。冥王様がたいそうお怒りで、こちらの世界で見つけたら即刻始末するように仰せつかりました」
「クソが……」
血の気が引いた顔のままアレクシスが恨み言のようにつぶやく。その苦悶の表情を満足げに眺めたあと、ジョシュアはリタの方に目を向けた。
「それではリタさん、力を貸してくださいますか?」
「何を……言って……」
「冥王様がおっしゃるには、召喚にはこちらの世界でいう大量の魔力が必要らしいのです。元々はシャーロットにさせるつもりでしたが、あなたがいると分かればこれ以上の適任もいないでしょうし」
「するわけ……ないっ……!」
床に縛り付けられたまま、リタはジョシュアを睨みつける。
ジョシュアは困ったような笑みを浮かべ、自身の顎に手を添えた。
「まあ、そう言うと思っていました。だってあなたは――冥王様を倒した大罪人ですからね」
「……大罪人って」
「レオン」
名前を呼ばれたレオンが、足音も立てずにリタの目の前へと移動する。離れたところでそれを見ていたランスロットがたまらず絶叫した。
「リタ! 逃げろ、頼むから逃げてくれ!」
「ふふ、必死だねランスロット。もっと早く素直になっていればよかったのに」
「うるさい、黙れ! リタ、おいリタ! なんとかして逃げろ!」
「分かって……る……!」
リタもまた懸命に手足を動かす。だがもがけばもがくだけいっそう強く拘束され、いよいよ起き上がることすら出来なくなった。レオンが迫っていくのを見て、今度はエドワードがジョシュアに向かって叫ぶ。
「兄上、目を覚ましてください! こんなことをしていったい何になるというんです!」
「エドワード。それはもちろん、わたしが本当の王になるんだよ」
「本当の王って……」
「今からわたしはこの体を冥王様に捧げる。そうすることで冥府とこの世界が繋がり――わたしは冥王様と一つになるんだ」
「そんな……じゃあ、兄上は……」
「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ。わたしは冥王様と同じ存在になり、この世界を真に平等な世界に導くんだ。悪しき者をすべて滅ぼし、善なる者を蘇らせる。そうすればきっとあの子だって――」
恍惚とした表情でつぶやいたあと、ジョシュアは再度レオンに命じた。
「レオン、準備はいいかい?」
「はい。いつでも」
遠くでローラとリーディアの「リタ!」「リタさん!」という声が聞こえるなか、レオンの手がリタの頭を摑む。ぐっと指先に力を込められたかと思うと、どろりとした何かが脳内へと侵入してきた。
(なっ……に、これっ……⁉)
魔法の体系とは明らかに違う術式。命令。言語。
膨大な情報を許容量無視で流し込まれ、リタは激しい頭痛に襲われる。同時に胃からどろっとした苦いものが込み上げてきて、床に伏したまま口を開いた。
その瞬間、リタの喉奥から聞いたこともない音が勝手に紡がれる。
『――我番人界扉鍵者開』
『――捧穢血 界動力 器者肉体』
『――青眼見 冥族嘯聚 冥妖蠭屯』
魔力が容赦なく奪われていく。頭が、指先が、足が。蓄えられていたエネルギーが一気に無くなっていき、リタは全身に巨大な岩が乗っているかのような重圧に必死になって耐え忍んだ。
すると朦朧とする意識のなか――。
(なに、あれ……?)
不明瞭な視界の先で、ジョシュアの後ろの空間が――裂けた。
本来、そのように使うべき動詞でないことは分かっている。だが本当に『裂けた』としか形容できない現象がそこに生じており、リタは頭の中が真っ白になる。
やがてその裂け目から実体のない、されどはっきりとした輪郭を持つ巨大な黒い手が現れ、いちばん近くにいたジョシュアの前に下りてきた。まるでダンスのエスコートをするかのように差し出されたそれに、ジョシュアがとろんとした瞳で触れる。
「ああ、冥王様。ようやく――」
ジョシュアの金髪が毛先の方から黒く変色していく。白い肌は浅黒くなり、緑色の瞳は濁ったオレンジ色へ――その異様な変貌を目の当たりにしたランスロットたちは、一体これから何が起こるのかと戦慄する。
そんな中リタは、なけなしの気力を振り絞ると次にすべきことを考えた。
(あれが冥王、なら……一刻も早く倒さないと……。完全にこちらの世界に来る前に……でもそうしたら、ジョシュア殿下は……)
レオンに頭を押さえつけられたまま、なんとか起き上がろうと試みる。
するとその瞬間、リタの視界の端で何かが勢いよく弾け飛んだ。
「……?」
近くにいたであろう冥獣と冥王教の信者が壁に叩きつけられ、周囲がいっせいにそちらを向く。その中を黒い獣のような影が駆け抜け――。
「……⁉」
刹那、ステージ上にいたジョシュアの背中に『それ』がぶつかる。
突然のことで理解が追いついていなかったジョシュアは一瞬目を見開き、直後、口から大量の血液を吐き出した。
「なん……で……?」
「お前がここに来る時を狙ってたんでね」
黒い獣がにいっと口角を上げ、白い歯を覗かせる。やがてジョシュアは瞬き一つせずにその場に倒れ込み、舞台の上に鮮血が丸く広がり始めた。腰のあたりには短剣が深々と突き刺さっており、わずかな光を受けて剣身がちらりと輝く。
講堂内は一気に静寂に包まれ、リタは舞台上のその姿を見て絶句した。
(どうして……アレクシスが……)
舞台に立っていたのはアレクシスだった。ただし髪や顔、体はどす黒い血で汚れており、その染みは制服である騎士服にまで広範囲で広がっている。何より衝撃的なのが、右の袖に当たる部分が中身ごと無くなっており――。
左腕だけで立つアレクシスを、ジョシュアが信じられないとばかりに見上げた。
「どうして、動ける……」
「悪いけど、本物の冥王をあんまり見くびらないでくれるかな。腕の一本や二本、引きちぎるくらいの胆力はあるんだよ」
「本、物……?」
「セュヴナルに何を吹き込まれたか知らないけど、君が信じていたものは冥王じゃない。冥王の名を騙った偽物だよ。残念だったね」





