五話 佐々木茅 『オセロ』 part2
―― 高一 七月二十日(木) 六限目 ――
中学一年生の三品は無垢で強気で可哀想で、本当に可愛い女の子であった。
これは別にレズビアン的な趣味で言うのではない。私はただ相手の主体性を奪うという行為自体に快感を覚えるのであって、対象が異性であるかどうかなど些細な問題なのだ。
試しに、これから罠にかけられるとも知らずに無防備な笑顔を向けてくる女の子を想像してみよう。それを守ってあげたくなるのが愛ならば、壊したくなるのが欲である。
最初こそ二つの価値観の間で揺れていた私だったが、結局は自分が快楽主義的な人間であることに納得した。
三品を騙す過程で痛感したのは、馬鹿な子ほど可愛いという言葉の真実性であったと言えよう。
さて、本格的に三品を監禁することになったのは春休みに入ってすぐの三月二十三日からである。
ダクトテープを持った笹島君を家に待機させ、私が三品を誘導するだけの簡単な仕事。事前にいじめの証拠をそろえたり、拘束する練習をしたり、追い込む方法を考えたり、足のつかないメールアドレスを作ったりと色々な準備をしてきたことに比べれば、当日やることはあまりにも簡単であっけなかった。
捕らえられた彼女は実に惨めで哀れで……正直に言うと、笹島君が欲情して大変なことになるんじゃないかと心配するレベルだった。
彼女は最初こそ反抗的だったものの、丸一日可愛がったら一発で心が折れてしまった。
そして写真と動画をSNSに投稿すると言ったらさらに大人しくなった。
その怯え様は初めて鏡を見た猫のようで、普段の三品からでは想像できないほど愛嬌があった。
――ああ、愉快、愉快。思い出しただけで愉快になれる。
況や当時の私をや、ご満悦であった。
ちなみに三品を捕えてから三日ほどで私は完全に私と化していた。
オセロで言えば黒の勝ち。
人格は決定されたのだ。
でも、勝ったにしてはイライラしていた。
三品を騙すのはいいとして、なんで笹島君にまで噓を吐かなければいけないんだと。……いや、正確には真実を伏せていると言った方が正しいわけだが、そんなことはどうでもいい。
笹島君を騙しているようなこの感覚だけはいただけない。
本当に駄目なことをしているような……よくわからない気持ち悪さがあった。
というわけで正直に伝えた。
山内さんを復帰させるつもりはないと。
それともう一つ。三品はまだ解放しないとも言った。
理由は、もうちょっと味わいたいから。
……
……はぁ、我ながら間抜けすぎる。
そんなの適当に理屈捏ねて誤魔化しとけばよかったじゃん。
当時の私はとにかく脇が甘い。抜けている。笹島君の気持ちを軽く見過ぎているし、そもそも彼のことを信用し過ぎだ。
結果、彼に足を掬われるのだから目も当てられない。
四月四日早朝。
目を覚ますと、体中にテープが巻かれ身動きが取れなかった。
両手首を結束バンドで束ねられ、指一本動かせないようにテープでぐるぐる巻きにされていた。
ここまでされて気付かなかったということは、確実に一服盛られている。
となれば犯人は――などと考えなくても、目の前には私を見下ろす笹島君の姿があった。
裏切られた――反射的にそう思った。
言い訳じゃないが、この時の私は冷静ではなかった。
というか、朝起きたら縛られてましたって状況で冷静な奴って何? そんな奴いないと思うけど?
……とにかく、私は暴れた。芋虫のように体をくねらせながら、手近にあった暴言を頭の中から拾い上げて笹島君にぶつけていった。
考えなしに吐いた言葉なのでほとんど忘れてしまったが、良くないことをたくさん言ったような気がする。
ああ、最悪だ……思い返すたび情けなくなる。
私が笹島君ならこの女をぶん殴っているところだ。
しかし彼はどこまでも冷静だった。
何を言われてもただ黙って聞いているだけ。
手を上げないどころか、反論すらしない。表情すら変えない。
そして暴言が尽きたころ、私の口にテープが貼られた。
『ごめんなさい。僕はこれから山内さんを連れてきます』
……うん? 山内さん?
なんで? どうやって?
家まで迎えに行くってこと?
いや、仮に家まで行ったとして彼女になんて言うの?
助けてあげますよって?
話し合いましょうって?
ここまで来てくださいって?
今更?
今まで静観してきた人間が?
そんなクラスメイトの一人が?
そんな説教臭いこと言っちゃうわけ?
……無理だ。絶対に無理。
山内さんの復帰は絶望的だ。
仮に三品が反省しているとしても、それは山内さんの人間不信を払拭する特効薬にはならない。
これは彼女自身に立ち直る力が無ければ決して成功しない治療なのだ。
ただ、彼の苦虫をかみ潰したような顔を見て私は悟った。
裏切ったのは彼ではなく私だと。
彼が信じた私とは、死んだ方の私である。
そりゃそうだ。そんなことは最初からわかっていた。だから裏と表で目的を分けていたはずなのに……いつの間にか私はその境目を見失ってしまったのだ。
彼がこの計画に期待していたもの。
そして佐々木茅に期待していたもの。
それに応えることができない方が生き残っている現実。
この時、私はバレないように良心の残骸を拾い集めた。
「――じゃあ終わりましょうか。委員長さん、挨拶」
先生の声に弾かれると、私の意識はたちまち委員長のそれに戻る。
「起立。礼――」
これにて一学期中の授業はすべて終了、あとは明日の終業式を残すのみとなった。
それが終わればみんなが待ち焦がれた夏休みである。
私は授業終了の挨拶が終わると同時に後方の席へと声を掛けた。
「ねぇ、ちょっと」
「……」
彼は目だけで返事をよこす。
そして目が合うや否や顔を逸らす。
スクールバックの中身を整理する手を止めない。
このように他人を無視するかのような態度をとるが、心の底から拒んでいるわけではないので注意が必要だ。会話を成立させるためには、彼が極度の恥ずかしがり屋だということを知らなければならない。
そうでなければ『笹島君に話しかけたら無視されたんだけど……』『なんか怖いよね……』ということになってしまう。
というか、既にそうなっている。
このクラスで彼に話しかけるのは私と……あとは小野寺君くらいだろうか。
「三品から聞いてる? 土日のこと」
「……今年もですか」
「聞いてるんだね?」
不服そうな様子だが、きっと本心ではない。
旅行でもそうだ。最初は行きたくないなどと言うが、いざ行ってみると楽しんでしまうタイプ。
私は文化祭の出し物もそれと同じだろうと踏んでいる。
「春ならまだしも、夏は土日じゃ絶対に終わらないです」
「四人でやれば二日で片付くって」
「……」
ノーコメント。
表情には出さないが、頭の中では一週間くらいを想定しているだろうか。
春だの夏だのは要するに、長期休暇中の課題のこと。
中学以来、私の家に集まって一気に終わらせるのが恒例行事となっている。
「ほら、去年までは課題の量が異常な中学にいたから。それを乗り越えてきた我々なら、今年は余裕だと思わんかね? どうなんだい? 自信のほどは? ササジーマ?」
「誰ですか」
「三品」
「そうですか」
「麻雀大会だって、はしゃいでたよ」
「……違うと言っておいてください」
「それでもマージャンはヤル。麻雀だけはとことんヤル。これはもう、 まいってしまう。いやーたまらん、麻雀」
「誰ですか」
「三品」
「……」
「さては楽しみにしているな?」
「さぁ、どうなんでしょうか」
毎度のことであるが、彼はこの集まりに対して渋い表情をする。
主な理由は男女比だ。
これは彼のシャイな一面がよく表れた不満であり、何かと理屈っぽい彼が唯一、直感的に嫌がることである。
彼は女性というものを毒物や核兵器と同様、危険物として取り扱っている節がある。
それはある意味差別的だし、見方を変えればフェミニストでもあるということだ。
爆発しないように気を付けていると表現すればわかりやすいだろうか?
「そういえば出し物ってどうなりました?」
「え?」
「……?」
「……先週のホームルームで三浦さんが話してたけど?」
「え?」
……ちょっとくらい聞けよ。
末端とはいえ関係者なんだから。
「もしかして役割分担とかもう終わってます?」
「終わってますが?」
「……その場にいましたっけ、僕」
「いたけど。本読んでたから私が勝手に配置しておいた」
「は? 配置?」
「うん。笹島君は小道具雑用係ね」
「待ってください。そもそも何やるんです? 演劇ですか?」
「お、いい線いってる」
「……いい線とは?」
「映画撮りたいって」
「映画?」
「といっても短いやつね」
「……映画? 多数決で決まったんですよね?」
「いや、三浦さんたちの独断と偏見で」
「たち? たちというと?」
「三浦さんと岡野君。それと愉快な仲間たち」
「……はぁ?」
他にも小道具の人いると思うんだけど……なんで笹島君に話しが回ってきてないわけ?
どうなってんの?
このクラス大丈夫か?
「というかね、笹島君」
「……」
「たぶんだけど、もう何度か集まって話し合いしてると思うよ。小道具の人たち」
「……」
笹島君の表情はまったく変わらない。
しかし相当焦っていることはわかる。
「……僕以外の人って、誰ですか?」
「江上君、千崎君、前島君、菱川さん、渡さん……だったかな。たしか」
「ああ……詰み、ですね」
「まだ詰みではなくない?」
「……そうですか?」
「タダで飛車角取られたような感じではあるけど」
「負けじゃないですか、それ」
「まあね、否定はしない」
笹島君がコミュニケーションの壁を前に打ちひしがれている。
よくあることだが、そのたびに思ってしまう。
「ただし、肯定もしない」
こいつは何にビビっているのかと。
話す前こそこんなだが、彼は話そうと思えば普通に話せるのだ。
受け答えもしっかりしているし、ジョークも通じる。皮肉や嫌味のニュアンスだって伝わる。
だが口を開くまでが果てしなく遠い。
沈黙は金と言わんばかりに口を閉ざし、誰にも心を開こうとしない。
喋り始めさえすればあとは何とでもなりそうなのに。
笹島君を例えるならば、金利の低い口座で長年眠っている大金である。
そんなにあるなら資産運用しろと言いたい。
話すことがあるなら話せと言いたい。
「実力差出るゲームじゃん。将棋って。6枚落ちでも勝てないとかざらにあるわけだし」
「……はぁ、そうですね」
例えばこれが純粋に将棋の話じゃないことも、笹島君ならわかってくれるわけだ。
「だったらあげちゃいなよ。飛車角くらい。実力差あるんだし」
「それだと僕が上手ってことになるんですが」
「そうだけど?」
「……あの、僕が下手ですよね? 普通に考えて」
「なんで? そんなことないと思うよ」
「露骨なお世辞は嬉しくありません」
「ちゃんと本気で言ってますが」
「でも内心、からかってますよね?」
「全然、全く」
彼はスクールバックのチャックを締め、机の横に引っ掛けた。
「じゃあ投了する? 今度からAWAKE笹島って呼んでいい?」
「……やっぱりからかってますよね?」
「いや全然、全く、これっぽっちも」
彼は両肘を机に置き、頭を抱えた。
もう少しで重い腰が上がりそうだ。
「……考慮時間を貰っても?」
「着手するなら早い方がいいよ。こういうのは」
「捨て身の覚悟がいるんです。他人に話しかけるときは」
「なにそれ」
彼はいつだって自信無さげだが、私は何の心配もしていない。
きっと無難な仕事を拾ってきて、卒なくこなすだろう。
友情とかは育まないけど。
「楽しみだね、文化祭」
誰に言うでもなく、机の端に言葉を置いた。
―― 参考 ――
(1)井上陽水.招待状のないショー[album].1976.フォーライフ.ライナーノーツの文章より.
※楽曲歌詞の引用ではありません。