三話 笹島茶介 『コメディアン』
―― 高一 七月七日(金) 昼休み ――
佐々木さんの昼食はパックの野菜ジュース一本とブドウ糖のタブレットである。
もはや食事というよりも餌と表現すべき代物。
クラスメイトらはこの奇行を見て『変わった人だなぁ』くらいの気持ちでいるのだから驚きだ。彼女の特異性を確認できる貴重な瞬間だというのに、誰も重く受け止めようとしない。
日本社会の根底には性善説がこびりついているのだということを強く実感させられる。
数年後か数十年後には、天敵がいない孤島で羽を退化させた鳥と同様の事例がこの島国で見られるかもしれない。サイコパス用の餌を食べる佐々木さんを見るとついついそんなことを考えてしまう。
「クラスの出し物でやりたいこと三つ。期限は来週金曜の昼まで。よろしく」
「……三つ?」
「一つでもいいよ」
「……最初から一枠に絞ればいいのでは?」
「一つは真面目なやつ、残り二つはユーモアのあるやつ。それで三枠くらいほしいかなって」
「はぁ……ユーモアですか」
「大喜利用って感じ?」
不合理極まりない理由にため息をついてしまう。
「……絞ればいいのでは? 一枠に」
「そう思う? 本当につまんないこと言うよねぇ笹島君は。堅いっていうかさぁ。つまんないよねぇ。あ~あ、ホントにお堅いなぁ。つまんないなぁ」
芝居がかった口調で何度も『つまらない』を繰り返す。
冗談めかした笑顔の裏に確かな嘲りを感じ取ることができる。
しかし、僕には向いていない。
きっとこれは彼女自身が言われたことなのだろう。
要するに物真似であり、誰かさんへの嫌味である。
「出し物を決めるってこと自体が楽しいイベントなんだとさ」
「はぁ、そうですか」
「わかんないけど、らしいよ」
「誰ですか? さっきの」
「三浦さん」
文化祭実行委員はクラス毎に四名ずつ存在している。そのうち二人は学級委員長と副委員長、残りの二人は文化委員の二名であり、このクラスでは三浦さんと岡野君が該当する。
この二人について説明を求められたならば、きっとこう答える。
良く言えば陽気なクラスのムードメーカー、悪く言えば授業中の静寂を壊すためだけに生まれてきたような奴らだと。
佐々木さんは教室の真ん中を陣取る騒がしい男女の塊を舐めるように見つめていた。そこには当然、三浦さんと岡野君がいる。二人とも、この視線から邪気を感じないらしい。
僕にはその理由がわからない。
そしてこの教室には知らぬが仏という言葉の危険性を説く人物がいない。
みんながみんな、佐々木さんの悪趣味な演技に気付かないまま日々を送っている。
「ところでそれ、なんて書くの?」
逆に考えれば、あからさまに他人を嫌悪しないところが彼女の美点である。
例えば今、彼女は露骨に話を戻すことで二人への不満を片付けた。
それは円滑な人付き合いを心掛けている証だ。
円満ではなく、円滑な、だ。
「……何もしないっていう提案は通るんですかね?」
「さすが笹島君。そんなだから嫌われる」
「そうですね」
「そうですねと来たか」
「で、どう思います?」
「それってクラス全体で何もしないって話? それとも個人的にサボりたいって話?」
「え、サボっていいんですか?」
「いいわけあるかい」
「じゃあ出し物自体やらない方向で」
「まあ無理でしょ。みんなやる気だし。それに先生も怒りそう」
「……怒る? なぜですか?」
「なんか最近、みんな弛んでない? 出し物もやらないし……的な?」
「怠惰ってことになるんですか? たかが文化祭の出し物一つで?」
「ほら、ウチの担任って熱血だから。クラスの団結力がああだこうだって、ガミガミ言ってきそうな感じでしょ?」
「……いやいや、本気で言ってます?」
「本気だよ、あの人は」
「百歩譲ってクラスの団結力が高まるとして、僕が参加する意味あります?」
「あるよ。当たり前じゃん」
佐々木さんはそう言い放つと、なんてことない表情で野菜ジュースを飲みはじめた。
今、彼女は当たり前という言葉を何気なく使った。
だったらここを突っつかないといけない。
そうでなければ僕じゃない。
これは自他共に認める悪癖なのだが、僕は当たり前という言葉を使った人に対する質問攻めが好きなのだ。
「当たり前って言われても。ピンとこないんですけど」
「下手の考え休むに似たりって言わない? 考えても仕方ないことだってあると思うよ」
「僕は脳死でサボりますけど、いいんですか?」
「なるほど? 周りに合わせようとはしないんだ?」
「合わせて何になるんです?」
「いや、別に。そっちのほうが脳死っていうかね? 民主的かなって。そう思わない?」
民主的。これが彼女の評価軸であり、一般的な視座というわけだ。
彼女は僕と違ってリアリストなのである。
「人それぞれですよ、そんなのは。それに多数派が絶対とは限らないですし」
「じゃあ一人だけサボる正しさって何?」
「……サボるの語源って、サボタージュですよね?」
「うん。たぶん」
「僕がサボることで文化祭反対派の意志を代弁できますから。つまりは正当な争議行為というわけです」
「……ふーん」
佐々木さんはブドウ糖のタブレット菓子を口の中へ入れた。
「じゃあ、具体的に誰?」
「……誰とは?」
「文化祭をやりたくないと思ってる人たちって、誰? 笹島君以外に」
「別に必要ないのでは?」
「必要でしょ。だって日本は民主主義国だから」
「……」
「戦争するにもサボるにも正当性って大事じゃない? 昔は天皇陛下がどっちの味方かで決まってたかもしれないけどさ。今はそうじゃない。そして笹島君は社会の一員。日本の国民。意見を通すなら民主的に。違う?」
「……」
……あ、これもう駄目かもしれない。
「……じゃあそれを探すためにサボるんですよ。人数を集めるにもアピールって大事ですから」
「ほうほう、それで? 集まった人たちで団結力高めちゃったりして? ゆくゆくは文化祭を潰すお祭りを企画するってわけですか?」
「……」
「わーすごい。左利きの活動家かな?」
「……左ですか」
「違う?」
「いえ……」
結局、お前は自分の意見が通らないからって駄々こねてるだけだろ。
現実を見ろ。
僕は佐々木さんの言葉をそのように受け取った。
……ぐうの音も出ないとはこのことか。
「なんだかんだ言って大多数は楽しんでるわけ。なんでかわかる?」
「さぁ、なんでですか?」
「お友達と思い出を作るにはいい機会だから」
「ああ、なるほど。だったら僕が理解できないのも納得ですね」
「そう。そして楽しめない人は楽をしたがるの」
「……」
「仕方ないよね。みーんなみんな、欲張りさんなんだから」
佐々木さんは誰にも聞こえないように、それでいて空間に散布するように言った。
これでもまだ彼女は言葉を選んでいる方だ。人の卑しさ、浅ましさ……それが彼女の見ているもの。
文化祭を批判する人がいて、中止したとしても批判する人がいる。
僕もその一人でしかないわけだ。
「文化祭実行システムの部品ですか……」
「なに? 悪い?」
「いえ、お疲れ様です」
彼女だって心の底から楽しんでるわけじゃない。そういう意味では僕と同じ。
反省だ。もうこの話は二度としない。
「とにかく、一つくらい真面目な意見出してよ」
「真面目な意見ですか。……真面目? それも気になるんですけど。何かにつけて真面目、真面目、真面目って。どういう意味で使ってます?」
「……あーはいはい、わかったわかった。私が悪かったから。そろそろやる気スイッチ切ってくれない?」
気づくと彼女はピアノを弾くように左手の指で机を叩いていた。
……本気で面倒だと思われているらしい。
しかし、一般的には貧乏ゆすりだと咎められるそれも彼女がやると妖艶な所作に見えるのだから不思議である。
正しい表現かは不明だが、僕はこの不思議さを魔性と呼んでいる。
きっと僕が同じことをしていたらうるさいと注意されるだろう。
「何気なく自販機のボタン押したら壊れて二十本くらい出てきちゃった、みたいな? 笹島君ってそういうところあるよね」
「サービス精神旺盛ってことですか」
「一つ文句を言わせたら次から次へと別の文句が出てきて始末に負えないってことなんだけど?」
「だったら例え方失敗してますよ。自販機からたくさん出てきたら嬉しいでしょう?」
「ほら、言ったそばからもう一本出てきた」
「……」
「何その顔」
瞬間、僕は最近よく見る奇妙な夢を思い出した。
武骨なテープで白い壁に貼り付けられた一本のバナナ。
そしてそれを取り外そうとする佐々木さん。
いくら外しても補充され続けるバナナ。
山のように積まれたバナナを眺めながら謎の焦燥感を募らせる自分。
そして再び壁を見ると、テープでぐるぐる巻きにされた佐々木さんがいて、取り外されたバナナの山はエアガンと弾、そしてプラスチック製のバットにすげ変わっている――
――と、このあたりで唐突な浮遊感とともに起床する。
そういう夢。
何ともまとまりのない、夢らしい夢である。
……いや、別に夢占いがしたいわけではない。
注目すべきは壁に貼り付けられたバナナである。
これはたしか、何かしらの現代アート作品だったような気がする。
こんな誰にでも作れるものがアートとして展示されていることに深い疑問を抱いたような……そんな記憶がある。
こんなものが作品として通るのか……しかも1600万円だって?
だったら僕が適当に作ったものが高値で売れたっていいじゃないか。
それどころか、道端に落ちているゴミも、掃除用具も……もはや『無』でさえ高値で売ることができてしまうじゃないか。
ふざけてるのか?
と、そんな昔の思考がフラッシュバックしてきた。
……これだ。
これこそが僕の求めていた提案。
現代アートの展示。これしかない。
これが通るなら、それはもはや何もしないという提案が通ったのと同じことではないか。
さっそく僕はアンケート用紙に『現代アートの展示』と書き、用紙を四つ折りにした。
「今なんて書いた?」
「秘密です」
「……ふーん。あっそ」
「あの、佐々木さん」
「何か?」
「これの提出先は?」
「私ですけど」
「……」
僕は潔く用紙を手渡す。
「現代アートの展示……うん? 現代アートの展示?」
「いけませんか?」
「いや、別にいいけど……らしくないなって。そんなクリエイティブな人間だったっけ?」
「意外と好きなんですよ。そういうの」
「ふーん……」
佐々木さんがアンケート用紙を見ながら首をかしげている。
深読みしなくていいからさっさと受け取ってほしい。粗探しをされているみたいで不安になる。
「そういえば昔、現代アートの本読んでたっけ」
「さぁ、記憶にないです」
「ほら、あの時読んでたじゃん」
「……あの時?」
「中一だったから、二年か三年くらい前の春。ほら、私の家で」
その不安は一部的中した。
僕と彼女の間で「中一の春」と言えば、それは三品さんを監禁した時のことを指す。
「見てたよね? バナナのやつとか。覚えてないの?」
バナナという部分が妙にはっきりと聞こえ、背中に寒ボロができそうなほどの浮遊感に見舞われる。
あの作品を知った経緯は何だったか……なんとなく読んでいた本をきっかけに知ったのではなかったか。
その本を読んだあと、作品の文句を彼女に喋っていたかもしれない。
僕はひとまず白を切った。
要は気づかれなければいいのだ。
「……別の記憶と混同してません?」
「いや、それはない。だってあの時だよ?」
「三年前のことなんて普通覚えてないですよ」
「なんでそう頑なに……」
彼女の言葉がピタッと止まった。
そして目が合う。
「……ああ、なんだ。現代アートってそういうアレか」
「……」
「はいはいはい、やっとこれがらしい提案に見えてきましたよと」
佐々木さんは一瞬だけ感心したような表情を見せた後、ニヤリと音がしそうなほど深い笑みを浮かべた。
「別に隠すことないのに。私好きだよ、こういうの」
「……真面目な提案がよかったのでは?」
「いや別に。出し物を決めるってこと自体が楽しいイベントなんだってさ」
「それ嫌がってましたよね?」
「んー? どうだったかな?」
不正が発覚した時答弁みたいだ……とは言わないでおく。
もう話すのにも疲れてきたし。
そろそろ図書館行きたいし。
「でも最後は多数決だからなぁー。これにはならなそう」
それはそう。佐々木さんの言う通りだ。
結局のところ、彼女からの評価が高いこととクラスの出し物として受け入れられるかどうかは全く関係がない。
確かに僕は無効票を作らないことには成功した。
が、死票を投じることからは脱却していない。
結実しないという意味で言えば、そこに大きな差はないと言える。
だったらここまで考えてきたことはいったい何だったのか……白紙で出すのと何が違うんだ。
今度はそんな虚無感が到来していた。
「じゃあ白紙で出してもいいんですか?」
「え、別にいいけど」
……いいんかい。
一つくらい真面目な案出せって言うから考えたのに。
「でもほら、こういう時に笹島君みたいな人が何書くのかって気になるじゃん?」
「はぁ、そうですか」
「しかしなるほどねぇ。これは早くも最優秀ユーモアかな」
「……なんですかそれは」
彼女にとってこの投票はユーモアセンスを競うものに変わったらしい。
「ベスト・オブ・ユーモア笹島を名乗ってもいいよ。自己紹介の時とかに」
「やめておきます」
「でしょうね」
そう言うと彼女はひょいと席を立って他の人のところへ行ってしまった。
僕もさっさと弁当を片付けて席を立つ。
昼休みに図書館が開いているということは当たり前のようでいて、実はとても贅沢なことだと思うから。
―― 参考 ――
(1)Maurizio Cattelan作.コメディアン.2019.