一話 三品恋頼 『クピディタス』
―― 三月下旬 地下室 ――
「はーい、餌の時間ですよー。……って、うわ。すごい涎」
彼女は上着のポケットからゴム手袋を取り出し、両手にはめた。
「ま、そうだろうとは思ってたけど」
左手で顎を持ち上げられ、右手で口の中から布の塊を抜き取られる。
「どう? 顎痛くない?」
「……い、痛くない……です」
「そっかそっか。それはよかった」
何時間ぶりだろうか。
私はようやく喋れるようになった。
*
ただベッドで寝かされているだけなんて、これ以上ない退屈である。
普段考え事をしない私でさえ余計なことを考えてしまうくらいだ。
最初、私の脳内を占めていたのは茅ちゃんや笹島に対する怒りだった。この時は怒るのに忙しくて、退屈だと感じる暇もなかった。
それが落ち着いて少し冷静になると、どうやってここを抜け出そうかと考えるようになった。
まあ、少し考えただけで脱出できるような状態であれば苦労しない。
今の私は食事すらまともなものを与えられず、ベッドからも出られず、さらにはトイレに行く時でさえ目隠しと手錠をさせられている。しかも服装はブカブカのTシャツ一枚だけ。下着すら履くことを許されていない。仮にここから出たとして、今の私は外を歩けるような状態ではなかった。
自力での脱出は無理そう。
助けを待つしかない。
では誰が来るだろう。
今度は希望を探しはじめた。
親、兄、妹、友達、学校の先生、病院の先生、警察など。
私の場合、この中で最も期待できるのは友達であり、二番手は警察だ。ちなみに三番手は病院の先生……といってもこれは完全に他人である。
私にとって、親とは金と嫌味と罵声とを吐き出す機械であり、兄とは成績がいいだけの性悪暴力装置であった。
そして妹には間違いなく嫌われている。
当然だ。
兄が私にしたように、私も姉らしく妹にあたったのだから。
暴力を振るい、脅し、小遣いを巻き上げ、物を奪った。
でもそれは私がされたように、妹に接したというだけ。
私が悪いなら、兄も悪くないとおかしいのだ。
気に食わないのは、妹が両親からも兄からも愛されていること。
気弱で間抜けなところが庇護欲をそそるのか、あるいは三人兄弟の末っ子だからか……原因はわからないが、今でも家宝のごとく扱われている。
本当に目障りな存在だ。
しかも私は普段から帰りが遅い。なんなら帰らないこともある。まして長期休暇中など、ほとんど友達の家で過ごしていたりする。
音信不通が常。
そんな娘を今さら心配するだろうか?
あの親どもが?
兄が?
妹が?
……あり得ないことだ。
「ねぇ三品。これ見せてあげる」
家族は全員、あてにならない。
茅ちゃんに話しかけられたのは、そんな結論で思考を断とうとしていた時のことであった。
「どう? 初めて見る? これ」
それはとあるチャットの履歴。
他人の悪口を言い合い、盛り上がっているという悪趣味なもの。
「良くないよねぇこういうの。……ねぇ、どう思う?」
5名ほどで構成されたグループチャット。
そこには見慣れたアカウントが二つあった。
今村涼と中村亜紀。
それは学校でつるんでいる友達のものだった。
「ふたりの声で読み上げてあげよっか? ほら私、声真似得意だし」
チャットの中身。話題の中心が誰なのか。
それに気づいた瞬間、こみあげてきたのは悲しみではない。
怒りと羞恥だ。
友達だと思っていたのは私だけ……ただ一方的な思い込み。勘違い。
胸の奥が熱い。苦しい。
まったく気付かないで過ごしてきたことが恥ずかしくて、悔しかった。
走馬灯のように思い出がよみがえり、汚れていく。
友達だったものが、汚らしいゴミに変わる。
こんな奴らと笑い合っていた自分が許せない。
今すぐ仕返しできない自分の状況が更に惨めで、情けなくて……妙な脱力感を覚えた。
視界がじんわり濡れてきた……悔しい。気持ち悪い。
「なんてね。冗談」
そう言うと彼女は私の涙をハンカチで拭いてくれた。
不思議なことに、その手つきからは誰一人として他人を傷つけないであろう優しさが感じられた。
これが私を監禁する計画を立てた張本人。
どうしてこんなことを思いついて、実行しようと思ったのか。
彼女の真意が見えず、混乱させられる。
「知りたくなかった? それとも、知れてよかった?」
……わからない。
このことで茅ちゃんを恨む気にもなれなければ、感謝する気にもなれない。
「一応、先に言っとく」
茅ちゃんは私の首元に手を添え、ゆっくり力を込めていく。
暴力的な振舞いと、一瞬見せた気遣わし気な表情。そして科学者のような視線。
わからない。
私には茅ちゃんがわからない。
わからなさ過ぎて、怖い。
「ごめんね、本当に。ごめん」
彼女の声は底冷えするほど優しかった。
「ここからだから。本番は」
体がブルリと震え、全身に鳥肌が立つ。
だんだん首が絞まってきて、鼻息が荒くなる。
「誠心誠意、心を込めて謝ったら解放してあげる。だからしっかり反省しなよ」
茅ちゃんが私を許してくれること。
それが希望。
今の私にとって、唯一の希望。
「て、な、わ、け、で」
気絶するかしないかギリギリのタイミング。
彼女の手がゆっくりと離れていく。
「早速だけど、吊るすから。立ってもらいましょうか」
*
あれから随分と経った。
死ぬほど待った。本当に。
死ぬほど、だ。
無理やり頭上に掲げられ、血の気が引いた両腕。
疲労で震え、まっすぐ立つことができない足。
そして度重なる暴力により悲鳴をあげる全身。
ただ立っているだけで辛い。体重による拷問が成立している。
心もボロボロだ。
反省すると一口に言っても、その道のりは意外と厳しい。
なぜなら反省とは、自分の精神を破壊することに他ならないからだ。
でも私は耐えた。耐えきった。
猿轡が外されるこの瞬間、なんとか生きている。
誠心誠意、心の底から謝罪すれば解放される……待ちに待った機会が今、目の前にある。
やっと解放される。
この地獄から。
私には歪な自信があった。
これ以上ないほどしっかり反省できたという自信が。
「あっ……」
猿轡をされていたせいか、声がすんなり出てこない。つっかえながらも、どうにか言葉を紡いでいく。
「あ、あのっ、か、茅ちゃん。 ご、ごめんなさい。もういじめなんてしないから……だからもう……こ、これ以上は……し、死んじゃう……から。だから、や、山内にも、ちゃんと謝るし……さ、笹島にも何にもしないから……だからっ……ぃっ!?」
「うるさい。ご飯抜きにされたいの?」
「……あ……え……?」
頬に鋭い痛みを感じ、呆然としてしまう。
彼女は、目隠しをされて何も見えていない私に平手打ちをしたのだ。
なんのためらいもなく、平然と。
「ほら、あーんして?」
「あっ……え、いや、なんで……」
「早くして?」
固いものが太ももに押し付けられる感触。
部屋の温度が一気に下がったような気がした。
「え、いや、ちょっと待って……ね、ねぇ茅ちゃんちょっとでいいから話を聞いてくださいお願いしまぁっ!? いっ!?」
発砲音を伴って内腿に二回、鋭い衝撃が走った。
エアガンで撃たれたのだ。
「……ま、待って、待って待って待ってっ!?」
今度は脇腹に一発。
「……わ、わかった。口開けるから……だ、だからお願いしますちょっとだけ話を――」
「え、やだ」
その後、ひたすらエアガンで撃たれ続けた。
泣いて謝っても、弾を補充する音だけが返ってくる。
機械を相手にしているような感覚。
私は人生で初めて気絶したいと思った。
「で、なんだっけ?」
「く、口を……開けます……だ、だから……や、やめてください……」
数秒の沈黙。
あまりにも恐ろしい沈黙。
私は目隠しの裏で瞼を固く閉じ、さらなる痛みに備えた。
「……まあいっか。このくらいで」
ゴトリと重たい音がして、何かが机に置かれた。
瞬間、全身の力みが抜けていく。
「いい? 返事は『はい』か、それが嫌なら『ワン』ね?」
「はっ、はい……ごめ……なさい」
控えめに言って、今の私は茅ちゃんのペットである。
逃げないように鎖で繋がれ、しつけを施され、餌をもらう。
飼い主に従わなければ罰を与えられ、遊び道具にされる。
「じゃあ口開けて」
「……はい」
静かに口を開け、食事が運ばれてくるのを待つ。
飲み込んだらまた口を開ける。
ペットにとって大切なことは、常に従順な態度を飼い主に示すことである。
自由も恥じらいも捨てて、飼い主に媚びを売り、命を繋ぐ。
それがペットという存在なのだ。
「次。開けて」
「……はい」
素直に給餌を受け続けると、本当に自分が人間では無くなってしまったかのような感覚に陥る。
どうすればもっと従順さをアピールできるのかという下等な思考が始まって止まらなくなる。
気づけば人としてのプライドを失っている。
ここはそういう場所で、私はそういう存在なのだ。
「あ、そうだ。これ知ってる?」
そして、彼女の声は神秘的なまでに美しく響く。
その声が脳にこびりついて離れなくなる。
目隠しの影響で聴覚が鋭敏になっているせいかもしれないし、生殺与奪の権利を握られているせいかもしれない。
あるいは佐々木茅という女の子が纏う雰囲気のせいかもしれない。
とにかく、彼女の声を聞いていると反抗心がどんどん薄れていく。
敵に回したくないと思わされる。
「えー、わたくしの大嫌いなサルトルが、『存在と無』の中で言っとりますけれども、えー、一番猥褻なモノは何かと言ってですな。一番猥褻なモノ、というのは縛られた女の体だと言ってるんです」
……怖い。
とにかく怖い。
怖くて怖くて、仕方がない。
彼女の纏う狂気が私の精神を蝕み、いつまでも恐怖を克服させない。
「なんか昔の偉い人がテレビの中で言ってたんだよね。面白いでしょ?」
……いや、まったく。面白くない。
何を面白がっているのかがわからない。
でも笑っておいた方が良いかもしれない。
「は、ははは……はは……」
彼女に躾けられた結果、私は素直な反応が返せなくなってしまった。
それはまるで、自分が自分でなくなってしまったかのような感覚だった。
「よし、偉い。今日は気分がいいからデザートあげちゃう」
機嫌が良さそうだからといって調子に乗ってはいけない。
解放してほしいなどと言おうものなら、また理不尽な暴力を振るわれるだろう。
グッとこらえて口を開ける。
「もっと開けて。限界まで」
言われるがまま口を開ける。裂けそうになるほど目一杯開ける。
喉が痛くなるほど舌を伸ばし、一生懸命媚びを売る。
「……っ!?」
そしてデザートは布の塊。
口一杯に布が詰め込まれ、再び声が封じられてしまう。
「偉い人だからって正しいこと言ってるとは限らないけど。でも気付いたら深々と頷いてたりして」
期待を裏切られたショックで、彼女が何を言っているのかよくわからない。
「少なくとも私は納得してしまった」
せっかく猿轡を外してもらったのに、結局ご飯を食べさせられただけ。
現実を受け止めた瞬間、私の中で風船のように肥大化していた希望が音もなく破裂した。
「ねぇ、わかる? この気持ち」
彼女は指先一つで私を絶望させることができ、対して私はこの絶望を伝えることさえできない。そんな力関係を否応なく認識させられた。
「私にとっては猥褻なモノでしかないんだよ、今の三品は。自由も尊厳も奪われて、限りなく人ではなくなったモノ。理想的なサンドバッグか、美術品か、あるいはオモチャかな……だからコミュニケーションの相手にはなり得ないわけ。身の程をわきまえてね?」
食べ物を消化し始めたであろう私の内臓に拳がめり込む。
その後、優しくお腹をさすられる。
この緩急が私の心を惑わせ、蝕み、狂わせていく。
「山内さんからやめてって言われたこともあったでしょ? その時三品はどうしたんだっけ? やめてあげたんだっけ?」
続けて首を絞められる。
下手に動くと喉を握り潰されるのだろう。
緩く絞められているうちは動かない。暴れない。嫌がってはいけない。
「つまり私は鏡なの。わかるよね? そこに今、誰が映ってるのか。そいつがどんな人間なのか」
緩く絞めているとはいえ、彼女の指が太い血管を押し潰している。
次第に意識がフワフワしてくる。
体が酸素を欲しがって、自然と鼻息が荒くなる。
この浮遊感を快感だと錯覚し始める。
……違う。
こんなの私じゃない。
……私じゃない……のに……
「謝っただけで解放してもらえるって? 本気でそう思ってたんなら甘いし、ズルいよ。簡単に謝罪を受け入れてもらえるなんて、そんな贅沢は許されないからね?」
怒気、羞恥、悲嘆、後悔、焦燥、恐怖、快楽……私には今、感情を表現する自由さえなかった。
―― 参考 ――
(1)豊島圭介監督.三島由紀夫vs東大全共闘:50年目の真実.三島由紀夫出演.GAGA,2020.