十四話 三品恋頼 『魔力』
―― 四月五日(月) 佐々木家 ――
『謝っただけで解放してもらえるって? 本気でそう思ってたんなら甘いし、ズルいよ――』
「――っ」
唐突な浮遊感と共に目が覚めると、薄暗い部屋の中にいた。
果物ナイフのような細い光がカーテンの隙間から入ってきて、暗い空間を両断している。
自分の部屋ではない。
かといって地下室でもない。
壁掛け時計を見ると時刻は六時。
きっと朝の六時だ。半日以上寝ていたらしい。
頭がすっきりしている。
久しぶりにしっかり寝たおかげですこぶる体調が良い。
治っていないのは痣だけだ。
私は両手首と両足首に枷がないことを確認し、自分の体を抱きしめる。
今更ながら、解放された喜びが沸き上がってきたのだ。
布団の中で自由と日常の尊さをかみしめる。
ふとベッドの傍らを見ると、勉強机が置かれている。
そこに茅ちゃんが座っている。
というより、突っ伏して寝ているらしかった。
「……!?」
心臓がドクンと脈打って、瞬く間に頭が冴える。
起こさないように、刺激しないように、そっと足を伸ばして揃える。
天敵を前にした虫のようにぎこちない動きで。
「おはよー、三品」
「――」
「あれ、起きたんじゃないの?」
私は咄嗟に寝たふりをした。
理由なんてない。
強いて言えば気まずかったから。
頬をつつかれて表情をチェックされるも、無反応でやり過ごす。
上手く騙せた。
……と思う、たぶん。
「ま、いっか」
「……」
……なんかモヤモヤする。
本当に騙せているのだろうか。
「眠いねぇ」
「……」
「色々あったし、疲れてるよねぇ」
「……」
彼女はなぜか、寝ているはずの私に話しかけてきた。
「笹島君ってばズルいよね。一人だけ宿題終わらせちゃってさ」
「……」
しゅ、宿題……?
え、待って待って。
今日って何月何日?
春休みっていつまでだっけ?
「ま、私もたった今終わったけど」
「……」
「ちなみに登校日は四月九日。今日は五日だよ」
「……」
「三品は終わりそう?」
え?
ってことはあと三日?
……マジで待ってくんない?
量すら把握してないんだけど?
私、寝たふりしてる場合じゃなくない?
ゆっくり目を開けると、頬杖をついて私を見下ろす茅ちゃんの姿があった。
「おはよ」
「お、おはよう……」
「大丈夫大丈夫。こんなの答え写せば一日で終わるから」
ふぅ……だったらいっか。
まだ三日もあるし。
「そ、そっか」
「今日はゆっくり寝て、明日からやればいいよ。私も手伝うし」
「……うん、ありがとう」
……って、やっぱり騙せてなかったんじゃん。
「起きてたんだね」
「……え、いや」
「なんで寝たふりしたの?」
「な、なんとなく」
「ふーん」
「……」
気まずい。
いつもの私と茅ちゃんの会話じゃない。
もっとこう……自然に言葉が出てくるのに。
いつもなら。前までなら。
「これで熱測ってくれる?」
「う、うん」
「体調は?」
「……うん。良さそう」
「昨日何も食べてないでしょ。お腹空いてない?」
「……うん、大丈夫」
ものの数秒で体温計が鳴った。
「熱も下がってるね」
「……」
「一応確認だけど、家に帰りたいとかある?」
「それはない」
「そっか。ならいいけど」
……なんだろう、この感覚。
茅ちゃんに優しくされると体中がムズムズする。
「あー眠い。音楽かけていい?」
首肯すると、茅ちゃんは部屋の隅に置いてある機械をいじり始めた。
カチャカチャとCDのケースを触る音が聞こえてくる。
「ここ、元々お母さんの部屋なの」
「……お母さん?」
「だいぶ前に死んじゃったんだけどね。音楽好きだったから、CDとかレコードとかいろいろ置いてあるわけ」
「……お父さんは?」
「さぁ、わかんない。生まれた時からいなかったし」
曲が始まった。
どこかで聞いたことがある洋楽だった。
「……いいんだよね。このアルバム」
気怠そうな声が部屋に落ちた。
彼女は再び席に着き、頬杖を突きながら目を瞑っている。
「ところでさ、仕返ししてやろうとか思わないの?」
二人の間にある揺らぎが、彼女の一言で明確に定まる。
まったく思わない……と、答えることもできた。
しかし、快不快を司る神様が考えるよりも先に答えてしまう。
「……したい」
彼女の目がゆっくりと開いた。
私は銃口を突き付けられたような気分になった。
「正直だね」
茅ちゃんがベッドに侵入してきた。
「……!?」
「私ね、心配性なの」
布団の下で向かい合い、左手をぎゅっと握られる。
彼女の両手は氷のように冷たかった。
「し、心配性……」
「そう。心配性」
いつもポニーテールに揃えられている髪が、今日は乱れている。
そんなことに動揺させられてしまう自分がいて、なんだか恥ずかしかった。
「信用って脆いよね。みんな、壊さないように気を張ってる。大変だよね、コミュニケーションって」
眠そうな目と、甘ったるい声。
まるで小動物の可愛らしい生態を語っているような無邪気さ。
「でもさ、人間関係って便利だよね。いろんな不快感を我慢するだけの価値があるくらい」
かと思えば、言葉の中身は血の通わない理屈。
便利。
我慢するだけの価値。
彼女の手のように冷たい言葉選び。
「ねぇ、試してみない?」
「……な、何を」
「私が便利かどうか」
彼女の足が私の足に絡みつく。
「試すって……どうやって?」
「ほら、例えば懲らしめたい人がいるとか」
「……茅ちゃんのこと?」
「ちがぁーう。今村さんと中村さんのこと」
あ。
すっかり忘れてた。
今村涼と中村亜紀。
学校では仲良くしていたくせに、裏では私の悪口を言いまくっていた二人。
確かにあいつ等をこのままにしておけない。
あのチャットの件を問い詰めて……って、待てよ?
茅ちゃんはどうやってチャットの履歴を手に入れた?
「チャットの履歴なんて、どうやって?」
「文化祭の時、私パソコン持ってたでしょ」
「……? それが?」
「あの時、中村さんのスマホ充電してあげるふりしてこっそりバックアップ取ったの」
「……え、は、ハッキング?」
「そんな難しいことはしてないよ」
彼女には犯人特有の誇らしさがなかった。
眠気以外なにも読み取れない笑みを浮かべ、ドキュメンタリー番組のナレーターみたいに淡々と喋るだけ。
胸を張ることもなければ人を馬鹿にすることもない。
ただひたすらに眠そうだった。
「どう? 使ってみない? 私を」
使う。
自分のことなのに、まるでモノ扱いだ。
私が……私が、茅ちゃんを、モノのように……。
『私にとっては猥褻なモノでしかないんだよ』
……うーん。
悪くない。
それどころか、良い。
想像しただけで下腹部がぎゅっとなる。
……
あ、いや、そうじゃなくて、頼もしい。
使いたいです。
便利に。
はい。
「……う、うん。手伝ってほしい」
「そっか。よかった、よかった」
彼女は目を閉じた。
左手に感じていた冷たさはもうない。
二人の間にあった温度差は、いつのまにか埋まったらしい。
「これからよろしくね。三品」
そういうと彼女は安心した様子で眠りについた。
「あ、もう一つだけいい?」
……と思ったのに、再び目が開いた。
「な、なに?」
「笹島君のこと。いじっちゃだめだよ」
「笹島?」
「文化祭の準備してる時さ、仕事押し付けてたよね? 無口だからって強気になっちゃった?」
「あ……」
「二度としないで。ああいうこと」
私は人知れず納得した。
なぜ茅ちゃんがこんな計画を実行するに至ったのか。
それは山内へのいじめがどうとかではなく、笹島に危害が及んだから。
だとすると彼女の見方も変わる。
途端に目の前の女の子が人間らしく映った。
「……もしかして笹島のこと好きなの?」
「答えてもいいけど、意味ないよ」
「意味がない?」
「便利かどうかだから。人付き合いの勘所は」
彼女は人間関係において、どこまでも乾いた価値観を持っているようだった。
「私、笹島君のことが好きだから怒ったの。って、そう言われたら納得しちゃうの? 本質はそこじゃないのに」
彼は便利。だから好き。
ここから先の『好きだから○○したい』という心の動きが彼女にはないのだ。
彼は便利。だから好き。好きだから一緒にいたい。付き合いたい。キスしたい。抱きしめたい。結婚したい。子供を作りたい。
……とはならないのだ。彼女の中では。
彼は便利。だから頼る。
彼は便利。だから意見を聞く。
彼は便利。だから壊すな。
言ってみれば、彼女には恋愛特有の雰囲気がない。
狂いが無い。
欲がない。
『……お前さぁ、嫌いなものとかないの?』
『無意味な質問ですね』
笹島との会話を思い出す。
この二人がお互いを重宝している理由。
言葉をこねくり回しているけれど、私にはもっとシンプルに聞こえた。
「……うん。そっちのほうがわかりやすい」
要するに好きなんじゃん。笹島のことが。
っていうか、笹島もだ。
好き嫌いは無いみたいなこと言っといて、ちゃんとあるんじゃん。
結局、あいつ茅ちゃんのこと好きなんじゃん。
だから協力してるんじゃん。
そういう関係かよ……今ごろ気付いたわ。
「好きって言っても、友達としてだよ」
「ん~? ホントに?」
私の解釈間違ってるか?
……間違ってねぇよなぁ?
「めちゃくちゃ好きだから、変な言い方しちゃうんじゃなくて?」
「……もういいよ。それで」
「あ、その目。馬鹿にしてる?」
「んふふ。そだよぉ」
そう答えたのを最後に彼女は寝てしまった。
仕返しがどうだとか話していたくせに、不用心なものだ。
たった数秒の会話で茅ちゃんに対する印象がガラリと変わった。
一周回って彼女のことを可愛いと思った。
*
彼女は私の手をしっかり握ったまま眠っていた。
少しでも動いたら起こしてしまいそうだ。
こうなったらじっくりと寝相を観察してやろう。
不思議と私はポジティブな気持ちで彼女の寝顔を見ていた。
なぜか彼女のことが全く怖くなくなっていた。
CDプレーヤーは次から次へと曲を流す。
不思議なことに、音楽を聞いている間は無心になれた。
眠気覚ましが目的だったせいか、どう頑張っても子守歌にはならない曲たちだ。
それでも寝れるということは、茅ちゃんも相当疲れていたのだろう。
しかし、本当にどこかで聞いたことのある曲ばかりだ。
名前がわからないことにムカムカする。
……後で茅ちゃんに教えてもらおう。
「……これ、いいかも」
「でしょ?」
気付けば茅ちゃんが起きていた。
「あ、起こしちゃった?」
「いや。起きてたよ」
「……え? 寝たふり?」
「そんなことよりほら、これの次が最後の曲」
茅ちゃんがベッドから抜け出すと、ちょっとだけ寂しい気分になる。
寂しい……茅ちゃんがいなくなって寂しい?
昨日まではあんなに怖かったのに?
いつの間にか私の心は180度回転してしまったらしい。
「今村さんと中村さんのことだけど」
「はっ、え、あ、急に?」
「三品には今村さんを操縦してもらうから。ひとまずそれが仕事ね」
「そ、そうじゅう?」
「そ。まずはいじめに直接かかわった人達をなんとかしないと。山内さん復帰するらしいから」
「……なんとかって、どうやって?」
「みんなで喧嘩してもらおうかなって。いじめなんてどうでもよくなるくらいに」
「け、喧嘩?」
「今村さんって男子に人気あるの。性格はイマイチだけど容姿はいいから。うまく使えば――」
しっとり流れる曲は白い背景となり、私の目の前に邪悪なシルエットを映し出す。
「――軽薄な友情なんて、簡単に引き裂けると思わない?」
佐々木茅という暗号文が私に叩きつけられた瞬間である。