十二話 三品恋頼 『各々の贅沢』
―― 四月四日(日) 佐々木家 ――
ゆっくりと部屋の扉が開く。
どっちが来たのか……第一声を聞くまでわからない。
「……三品さん。三品さん」
……笹島だ。
私は緊張を解いた。
それにしても、人を起こすのに小声で話しかける奴があるか。
「これから山内さんを連れてこようと思います」
(……ああ、ってことは私これから山内にぶっ殺されるんだ)
直感的にそう解釈した。
尋常ならざる敵意、殺意、復讐心を抱いている人物を連れてくるから許しを請えと、彼はそう言っているのだ。
山内が私を許すはずがない。
そんなことは火を見るよりも明らかだろうに。
「ようやくって感じですね」
目隠しを外されると、目の前には普段通りの笹島がいた。
恨みがましい気持ちを込めて睨んでみるものの、彼は涼しい表情を崩さない。
相変わらずだ。
ポーカーフェイスを装って、縛られた女を無遠慮に見下ろすその姿勢。
本当に最低の男である。
「……睨まなくてもいいじゃないですか。どうせ通る道です」
……と、そう思っていたのは数日前までのこと。
蓋を開けてみれば笹島はただの紳士的な雄であり、意外や意外、私にとっては無害な存在だった。
問題は茅ちゃんの方だ。
彼女は鬼か悪魔か、毒サソリである。
「安心してください。うまくいけば今日で終わるはずですから」
そんな笹島のちょっとした違和感。
自信なさげというか、元気がないというか、しょげているような感じがした。
「三品さんも腹をくくってください」
……は? 腹をくくる?
そんなことしたって山内連れてこられたらどっちみち死ぬんだが?
と、反抗的になったところで仕方がない。
どうせ逃げられないのだ。
彼の言う通り、どうせ通る道だと思って気楽に構えていた方がいいかもしれない。
「それともう一つ。聞きたいのですが……」
そう言うと彼は頭を下げた。
顔が見えなくなるまで、深々と。
「……どう、思っていますか。彼女のこと」
その答えに見当がつくからこそ、頭を下げているのだろう。
「嫌になってしまいましたか」
質問のようでいて、実際にはそうではない。
猿轡を外してくれなかったことからもわかる。
答えなど求めていないのだ。
「……毒を以て毒を制すという言葉がありますよね?」
は?
急に何?
話変わり過ぎじゃない?
「必要悪という概念もありますが、こっちはちょっと便利過ぎる気がしませんか? なんでも正当化できてしまうというか……」
……あー回りくどい。
いいからさっさと結論を言え。
「佐々木さんが豹変したのはわけあってのことです。必要に迫られてふさわしい人格を引っ張ってきただけというか……役に飲まれているというか。そういう感じだと思うんです」
茅ちゃんが役に飲まれてるって?
いやいや、その前に本性って説もあるよね?
そっちの線は追わなくていいのね?
「なにせ相手は悪人で、毒でしたから。対抗するためには猛毒が必要だったんです」
……おい、結局私がディスられてんじゃねぇか。
なんてらしい話の運び方だ。
「間違ってますか?」
私に聞くな。
ムカつく言い方しやがって。
「では、やることがありますから。待っていてください」
あ、おいこら言い逃げするな。
お前もけっこうな毒物だからな。他人のこと言えねぇぞ。
そこんとこしっっっっかり自覚しとけよ。
……っていうか、え? ちょっと待って?
お前が山内を呼びに行くの?
じゃあ茅ちゃんは?
こ、ここに来るってこと?
「安心してください。佐々木さんなら来ませんので」
ふ、ふぅ……そっかそっか。
来ないならいいんだけどさ。
……
……って、え? ちょっと待って?
私ってそんなにわかりやすい?
*
退屈を持て余すと人はモノを考え始める。
どうやらそれは自然なことらしい。
自分らしくないからといって、ただ頭を空っぽにすることはできなかった。
『……どう、思っていますか。彼女のこと』
気になるのはいつだって直前のこと。
どうして笹島はあんなことを言ったのか。
『嫌になってしまいましたか』
茅ちゃんのことが好きか嫌いかって?
最初は好きだった。
友達だと思っていた。
彼女は誰よりも私の家庭事情をわかってくれたし、共感してくれた。
寄り添ってくれた。
家に帰りたくないならうちに居てもいいとさえ言ってくれた。
私はそんな茅ちゃんが……
『一応、先に言っとく』
……嫌いだ。
騙されて、わけもわからず監禁されて、拘束されて、服も取られて、食事の量もトイレの回数も制限されて、寝る時間すら邪魔されて、お風呂でさえ手錠と足かせをされて……それから辛い体勢で放置されたり、鞭や棒で叩かれたり、つねられたり、エアガンで撃たれたり、無理やりお酒を飲まされたり、逆さ吊りにされたり、犬扱いされたり、恥ずかしい写真や動画を撮られたり……おかげで体も心も痣だらけだ。
いくら茅ちゃんでもここまでされたら……
『ごめんね、本当に。ごめん』
嫌いになっても仕方がな……
『どう、思っていますか。彼女のこと』
『私は鏡なの』
『ふさわしい人格を引っ張ってきただけというか』
『そこに今、誰が映ってるのか。そいつがどんな人間なのか』
『悪人で、毒でしたから』
『わかるよね?』
……仮に、だ。仮にアレが演技だったとしよう。
じゃあ演技でない佐々木茅は一体どこにいるのだろうか。
どこからが彼女の本心で、どこからが演技?
そもそも私は彼女の本心に触れたことがあるのだろうか。
対等に喋ったことがあるのだろうか。
演技している彼女しか知らないのではないだろうか。
……なぜか、彼女のことがわからない。
色々なことがあったはずなのに、わかった気がしない。
『ごめんね、本当に。ごめん』
「……っ」
首を絞められている時の、あの人間観察者然とした目。
そして茅ちゃんの体温が皮膚に纏わりつく感覚。
想像しただけで、私の下腹部にあるスポンジのような器官がギュッと握りつぶされる。
そこから下品な液体が溢れてくる。
脳が快感に溺れていく。
手足の拘束と猿轡がさらに自分を酔わせる。
抵抗できない状況が被支配欲を満たして……。
……ああ、まただ。
またこんな想像をしてしまっている。
ようするに笹島は間違えているのだ。
私はあの茅ちゃんの全てが嫌いなわけではない。
そして彼が思っているほど難しいことは考えていない。
もっと単純な快不快の中を生きている。
っていうか、こんな恥ずかしい状態になっていることを知られたくない。
誰にも、絶対にだ。
だから表向きには茅ちゃんが嫌いってことにしておきたい。
ただ嫌なことをされたという感じにしておきたい。
でも実際は茅ちゃんのことばかり考えている自分がいるわけで……嫌いじゃないんだと思う。
ああ、どうしよ。
マジでバレたくない。
何とかしてマゾな部分を隠したい。
気持ち悪い奴だと思われたくない。
特に、茅ちゃんには……
「……っ」
声を出すどころか、溜息も吐けない。
手足も動かせない。
私は茅ちゃんのおもちゃだ。
なにもされていなくとも、この部屋に誰もいなくとも、自由に体を動かせないという事実がそれを証明してくれる。
「……っ……っ」
苦痛と快楽との境目を曖昧にすることで獲得した忍耐力。
それは恐怖と期待とを同居させ、一種の錯乱状態を生み出し、私を歪めてしまったのだ。
「……」
一度妄想が落ち着くと、今度は虚しさがやってくる。
ブラウン管の電源が落ちたように、真っ黒な不安が脳内を占める。
疲労だ。
もはや吞気にものを考える気力も体力も残っていない。
私はすでに限界だった。
山内が来る。どうしよう。
……どうしようもない。
山内が来る。どうしよう。
……どうしようもない。
山内が来る。どうしよう。
……どうしようもない。
不安と焦燥感。
極度のストレスで心拍数は上がり、ただただ緊張感を増幅するだけの時間が流れた。
*
数時間後、本当に山内がきた。
茅ちゃんも笹島もいた。
笹島がいるなら大丈夫だろう。
茅ちゃんだって何もしないはずだ。
そんな甘い考えは一瞬で砕け散った。
いきなり髪の毛を鷲掴みにされ、引きずられ、山内の足元に転がされる。
痛かったが、痛みを感じている場合じゃなかった。
問題は山内に見られていること。
この状況を見て彼女は何を思っているだろうか。
……考えれば考えるほど不安が増していった。
茅ちゃんに腹部を蹴られ、さらに惨めな姿が山内の眼前に晒される。
私に反抗する気力は残っていない。
うめき声を我慢するので精いっぱいだった。
山内の顔を見ると、あっちもこちらを見ていた。
私は自分の未来を悟った。
(殺される)
山内は復讐心を燃料に残酷な欲望を調理する地獄の釜だった。
その目は渇き、飢え、かさぶたのように赤黒くなっている。
「そういうことだから。コレ、好きにしていいよ。私たちは上で待ってるから。飽きたら上がってきて」
「えっ、あ、あのっ……」
「……と、そうだ。念のために目隠しもしておこうかな。凄まれたら山内さん日和っちゃうもんね」
茅ちゃんは私を蹴り転がすと、私の背中を踏みつけた。
呼吸がだんだん早く、苦しくなっていく。
涙も出てきた。嫌な予感が凝縮されたような粘っこい液体だ。
そして黒い布が涙を吸い、視界を覆った。
「頑張って」
「……っ!」
茅ちゃんの声はあまりにも優しくて、幻聴かと思った。
でも耳に息がかかるほど近かった。
「いやっ、あの……」
「ああ、ごめんごめん。これも渡しておかないと……って、わかるよね? これはこうやって使う」
空気を割くような乾いた音を伴って、背中と腕、太ももの裏に鋭い痛みが走った。
咄嗟の出来事に海老反りしながら悶絶してしまう。
エアガンで撃つ……私たちが山内にやったことのひとつだった。
どうしてこんな酷いことができるのか。
そう問いかける対象は茅ちゃんであり、過去の自分である。
『――自由も尊厳も奪われて、限りなく人ではなくなったモノ。理想的なサンドバッグか、美術品か、あるいはオモチャかな……だからコミュニケーションの相手にはなり得ないわけ――』
そんな無慈悲な答えに納得している自分がいた。
どうしてこんなことをするのかなんて、山内には聞く必要すらない。
復讐だ。
それも正当な復讐行為。
私には拒む権利がない。
罪に対して罰が与えられる。
なんて正しいことだろうか。
私が仕返しを食らう。
なんて正しいことだろうか。
ここ数日で育てあげた罪の意識はそう言っている。
『私は鏡なの。わかるよね?』
それは半分正解で、半分間違っている。
茅ちゃんはただの鏡じゃない。
言ってみれば、魔法の鏡だ。
そこには溺れたくなる魔力がこもっていた。
彼女の暴力は純粋なものではなかったのだ
対して私はもっと子供っぽい暴力。
純粋に他人を傷つけようとするもの。
しかも山内はそんなのを複数同時に相手している。
山内と私のどちらが大変だったかなんて、比べるまでもない。
「ほらもう行くよ。笹島君」
二人が退室し、私と山内だけが残される。
弱り切ってピクリとも動けない私と、暴力的な熱を発する山内だけ。
「……」
「……」
絶対に二人きりにしてはいけないふたりがこの部屋の静寂を作っている。
……嫌な予感しかしない。
目隠しをされる前に見た山内のあの目を思い出し、私は心の準備をする。
痛みに怯えながら、エアガンの発砲音を待った。
「……私、四月からはちゃんと学校に行きます」
ゴトンと何かが落ちる音がした。
足音は私に近づいてこない。
行動が読めない。
床に落ちたのはエアガンだろうか。
それとも他のモノだろうか。
何もわからない。
悪い想像が膨らんでいく。
そして次に聞こえてきたのはチャキチャキという音。
ハサミの刃を開閉する音。
「友達が欲しいとか楽しく過ごしたいとか……そんな贅沢は言いません。これ以上、お母さんやお父さんの負担になりたくはないんです。心配かけたくないんです。……ただそれだけなんです」
山内の声は平坦で、それでいて力強く、神憑り的に室内を飛び回った。
いつものオドオドした様子ではない。
しかし強気でもない。
復讐心に飲まれているわけでもなければ、この状況に戸惑っているわけでもない。
無様な人間を前にして優越感もない。
「はぁ……こんなこと、なんで私が……はぁ……」
そう呟く山内の声は震えていた。
耳元にハサミの冷たさを感じる。
私は目をつぶり、両手を強く握りしめ、両足の指にも力を入れる。
耳を切られる覚悟をした。
心臓の音がうるさくて仕方がない。
上手く息ができない。
逃げられない。
耐えるしかない。
怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。
――
――そして、聞こえてきたのは布が断ち切られる音。
切られたのは猿轡だった。
布の塊が口の中から引っ張り出され、情けない声が出る。
続いて目隠しが外され、両手両足を縛る縄も解かれた。
「……」
「……っ。な、なに」
再度、山内と目が合う。
赤黒く、ザラザラしていて、痛々しいほど渇いた目。
さっき見た時と変わらない……いや、それよりも怖いかもしれない。
復讐という欲を貯め込んで、目尻から涙を垂れ流している。
山内はこれっぽっちも私を許していない。
だからこそ際立って見える。
そこにある気高さ。
私には無いもの。
「服、無いんですか」
「え、あ、いや、たぶん……茅ちゃんが持ってる……と、思う……」
「じゃあ毛布でも羽織ってください。痣だらけで、見てられないので」
「え、あ、はい……」
言われるがまま毛布を羽織る。
思わず人見知りが初対面でするような受け答えをしてしまった。
しかもあの山内に対して。
「……」
「……」
……いや、違う。
初対面なのだ。私と山内は。
思い返してみると、私たちは二人きりになったことがない。
一対一で話し合ったことがない。
だからこその新鮮な気持ち。
山内深雪は一人の人間だという気付き。
「私、あ、あんまり詳しくないんです。こうなった経緯とか、理由とか」
「……だ、だから?」
一度意識してしまうと、流暢に言葉が出てこない。
罪悪感が爆発的に膨らんでいく。
私は一体、何をしていたんだろうか。
どうしてあんなことをしていたんだろうか。
なんで山内はこんな私を解放したんだろうか。
「とりあえず佐々木さんの所へ行きましょう」
「えっ、いや……ちょっと、待てよ」
「怖いんですか」
「いやそうじゃなくて……」
「……」
「そうじゃ……なくて……」
言葉が続かない。
私はその場にへたり込んでしまった。
山内は知らない。
彼女を敵に回すことがどれだけ恐ろしいのかを知らない。
勝手に部屋を出たら罰を受けるんじゃないか。
反省してないと思われるんじゃないか。
嫌われるんじゃないか。
様々な感情が私を縛っていることを山内は知らない。
そして、私も山内を知らなかった。
三学期のはじめ、私は彼女が不登校になったことを馬鹿にしていた。
そんなだからいじめられるんだと本気で思っていて、仲間内で嗤っていた。
軟弱者だと見下していた。
じゃあ今の私はなんだ?
山内を馬鹿にできるほど芯の強い人間だろうか?
……全然、そんなことはない。
私は他人のことをとやかく言えるような人間じゃない。
それは、今まで信じてきた『自分』がまるっきり間違っていたという気付き。
過去にしてきたこと、言ったこと、そのすべてが間違っていて、それが恥ずかしくて、悔しくて、とめどなくあふれる自己嫌悪に溺れていく感覚。
精神がボロボロと崩れ、その痛みが涙となって表れる。
「……ごめ……なさいっ……」
「……」
私は地面に頭をこすりつけた。
何の価値もないと知っていたが、そうした。
それ以外にできることがなかった。
『――簡単に謝罪を受け入れてもらえるなんて、そんな贅沢は許されないからね?』
受け入れてもらえなくてもいい。
謝るのは自分のためだ。
許してほしいとか過去を無かったことにしたいとかではなく、これ以上自分を嫌いになりたくない。
少しでもいいから自信が欲しい。
心から謝ったという事実が欲しい。
私の泣き声が部屋を満たすだけの虚しい時間が流れた。
結局、山内は文句も罵倒も説教も、何一つ言わなかった。
罪は清算されることなく、私の心に重たく残った。




