第0話 「はじまり」
かつて、"英雄"と崇められる者がいた。その者からすれば、いい迷惑であろう。正面きって呼ばれた暁には、さぞ苦虫をすり潰した顔をするに違いない。彼からすれば、"英雄"になりたかったのではない。"英雄"にならざるを得なかったのだから。
「英雄は数多の屍の上に成り立つ」
英雄と呼ばれた悲しき者の手には、背中には、想いには、数多くの願いが込められている。だが、その実を知れるものは少ない。
今日も今日とて、女子の機嫌を取りなそうとしている、弥次郎もその1人であった。
煩悩を払ってくれるお寺の前で、煩悩を抱えていた。
「どうしてまた怒ってるんだ?」
諦めにも近い言葉をこぼしながら、弥次郎は女子の前で肩を落としていた。当の女子は、むすっと頬を膨らませたまま言葉を発することはなかった。
「何か悪いことしたかな…。いや、悪いことというか、怒らせるようなこと、僕したんですかね?」
弥次郎と女子の背丈は一回りも違うのに対し、二人の様子を遠巻きに見れば、さも女子の方が大きく見えたに違いない。
女子――さきは、次第に頬を萎ませて、ため息を一つついた。
「あっ、しましたよね。うん、したんです。それについては本当に申し訳なく思っていまして…」
つい数秒前まで、さきからの言葉を望んていたはずの弥次郎は、次なる音が発せられる前に自分の言葉で場を埋め尽くそうとしていた。だが、それはより強いため息を誘起させるものであった。
弥次郎は今にも泣きだしたくなる気持ちをぐっと堪えていた。
「…右腕」
そんな様子を見かねてか、さきはようやくため息以外の音を発した。弥次郎にはそれだけで十二分であった。彼女が何を言わんとしているか。弥次郎が左手で右腕を隠すのと、さきがより強い怒気を発したのはほぼ同時であった。
「怒らせるようなことしてないなら、どうして右腕を隠すの?」
「な、なんか寒くなってきたな~って」
「…六月の、こんなにお天道様が出てるときに?」
無情にも、お天道様は弥次郎たちの真上にいた。お天道様からも、さきの凍てつく視線からも、弥次郎を防いでくれるものは何もなかった。
弥次郎は本当に体の芯から冷えていく気がした。
「また槍術、お兄さんから教わってきたんでしょ?」
次は、弥次郎が音をなくしていた。
「その右腕のすり傷見なくても分かるよ。私が何も言わないからって、何も知らない訳じゃないんだからね?」
音どころか立つ瀬すらなくしかけていた。
「あんなに止めてって…。しないでって言ったのに」
さきは、俯きながら両手を力強く握っていた。弥次郎はその様子を見つめながら、必死に言葉を探していた。しばらくの沈黙の後、細切れになっていた音を集めた。
「俺も、もう十一になるしさ…。一人前の男になってさ、それで」
集めていた音もそれまでであった。二人の間には、再び短くない沈黙が訪れていた。それを崩したのは、全くと言っていいほど、その場に似つかない野太い声であった。
「がはは、若い! 若いの! 若いのの和解! なんて言ってな!」
どこからともなく現れた声の主は、絶妙な距離で向かい合っていた二人の肩を叩くと、豪快に笑ってみせた。
「和尚、今はそんなこと言ってる場合じゃ…!」
弥次郎は、沈黙を破ってくれたことに感謝しつつも、和尚を窘める必要性を感じ取った。目の前でただならぬ殺気をまとい始めた人物がいたからである。
しかしながら、それを和尚は全く気にする素振りもなく、二人の頭をなで始めた。
「うりうり~。全く最近の若い者たちは難しく考えすぎなんじゃ。もっと楽しく生きていた方が楽しいぞ?」
途轍もない殺気に、弥次郎は和尚を見ることでしか気を保つことができなかった。
「お主等の話を聞いてやりたい所ではあるんじゃが、もうすぐここにおっかない人達が来るからの。今日は、もう村に帰って遊んではくれんか?」
和尚は、二人の頭から手を離すと笑みを絶やさずそう言った。少しばかり収まった殺気から解放された弥次郎は、首を傾げた。
「おっかない人達?」
「あぁ、おっかない人達じゃ」
和尚は笑みを絶やすことはなかった。
「戦になるの?」
さきは、消え入りそうな声で尋ねた。
「ふぅむ…。ここ、恵林寺が戦場になることなどないぞ。ここには、おっかない人達が来るだけじゃ」
「そう…なんですね」
さきは、和尚の言葉を聞き終えると、弥次郎の腕を掴んだ。
「帰ろう? 弥次郎」
弥次郎は為す術もなく、腕を取られ歩き始めた。よく状況が理解できていない弥次郎ではあったが、先ほどまでの禍々しいものは何も感じ取れなかったことに安堵していた。
和尚は去り行く二人の背中を見ながら、大きく手を振っていた。
「ゆっくり帰るんじゃぞ~」
それまで笑みを浮かべていた和尚の目には、違う何かが宿していた。
二人の影も見えなくなった時、慌てた様子の坊主が和尚のもとに駆け寄った。
「快川和尚! こんな所におられましたか。ご到着になられました」
「あい分かった。しっかし、悩める若者は大変じゃのう。お主もそう思わんか?」
「は、はぁ」
快川は、またしても豪快に笑うと、坊主の背中をばしばしと叩きながら、恵林寺の奥へと向かっていった。
天文十年(一五四一)六月、甲斐の国に激震が走る。旧き時代を絶ち、新たな時代の幕開けを告げるそれは、甲斐国内にとどまることを知らず、周辺諸国へと伝播していった。
ある者は驚愕し、ある者は歓喜し、ある者は憂い、ある者は奮い、ある者は笑みを浮かべた。
受け手の否応なしに、運命の秤は選択を迫っていた。
「嫡男晴信により、武田 信虎、甲斐の国から追放」
長く、そして短くもある戦国時代の幕開けである。