蛇口
「うおっ、びっくりしたあ」
期末試験を終えて、徹夜続きの頭をさっぱりさせてから出かけようと蛇口をひねる。
がらがらと音を立てて出てきたのは、その蛇口からはどう間違っても出てこないはずの、持ち手が付いた飴玉。それがいかにも身体に悪い色のした液体に押し出されて出て来る。
「あー、そういや昨日はアメとエナドリしか腹に入れて無かったの、忘れてた」
俺はその異常さの割に対して驚きもせず、蛇口を反対にひねる。そして、もう一度。
「最近使ってなかったからちょっとビビったな」
次に出たのは何の変哲もない水。それを手で掬い顔を洗う。
この蛇口からは、俺が昨日食べた物が出て来る。
そのことに気づいたのは、引越しをして来てすぐ。その前日に食べたカップラーメンが出てきた時に何となく理解した。
水以外が出てくるのはやはり不気味で、いっそのこと引っ越そうかとも考えた。しかし、学生の身分で、すぐさま家を替えるというのも憚られ、そのままずるずると今日まで暮らして来た。
不思議なことに、人間というのはこんな奇妙な現象にも慣れていくもので、ひと月もしない内に俺はこの蛇口に驚かなくなった。
「さすがに焼き肉食った次の日は焦るけど。ナマモノが流れてくるのはちょい気持ちわりい」
流れてきた物はもう一度蛇口を捻り止め、再び開放したら消える。それを知らなかった時にナマモノが出て、てんてこ舞いになったのも今では良い思い出だ。
今は自らの食生活を省みる良いツールとしか思えない。それほど馴染んでしまった。
「あー、思い出したら焼き肉食いたくなってきた」
流れるナマモノを思い出してこんな感想を抱くイカれ野郎と思われないように釈明させてもらう。
俺が思い出したのは行きつけの焼き肉屋、そこで働く看板娘のあの子のことだ。いつもにこにこと愛想が良く、ただでさえ美味い肉が絶品に感じられる。
俺は何かの節目には必ずあそこに寄ることにしている。そして今日は。
「ちょうどあの子のバイトの日じゃん」
我ながら気持ち悪いが、そんなこんなで一人焼き肉を楽しむことにした。
「え? あの子今日休みなんすか?」
「ああ、悪いね、お陰で人手が足りなくて。連絡しても返事なくて。全く何考えてるんだか」
残念だったが、その理由には心当たりがあった。焼き肉屋の主人だ。
あの人はいつも彼女のことを舐め回すように見ていた。これは、俺があの子のことを好きであるが故の勘違いでは無い。
他ならぬあの子から「最近店長の目が怖くて……」との相談を受けているから。あの親父、妻帯者にも関わらずなんてやろうだ。
しかし自分には何もすることは出来ず、ただただ美味い肉を食って帰ることしか出来なかった。悔しいが、何故かいつもより美味く感じたのは、空腹と疲れのせいだったのだろう。
翌日、俺は連日の疲れから昼頃まで眠り、目を覚ました。
昨日のことなどすっかり忘れていた俺は顔を洗おうとつい。
「う」
蛇口をひねると。
「おええぇえぇ!!」
ばきり。ぐちゃり。ぎりぎり。どちゃ。
そんな音を立てて出てきたのは。
紛れもなく、あの子の身体だった。
俺はすぐさま警察に通報した。彼女が危ない。店長が怪しい、と。
だって昨日食べたのは焼き肉だけ。だからきっと。
そう思っていると、警察から連絡がきた。
「情報提供、感謝します。死体を発見しました」
そうして店長は逮捕されていった。おそらく痴情のもつれでカッとなっての犯行だろうと警察は言う。杜撰な隠し方だったようだ。店長はまだ犯行を認めないみたいだが時間の問題だろう。
不気味で奇妙な蛇口だが、これで一人の女の子の無念が晴らせる。
そう思うと、この生活もやはり悪いものではないように思えるのだった。
◇
私には、好きな人がいた。
いつも笑顔が素敵なあなた。目が合ったら手を振ってくれるあなた。しあわせそうな顔をして、一人で焼き肉をほおばるあなた。
そんなあなたが大好きだった。
でも。
「キミねえ、お客さんのことばっかり見てないでちゃんと仕事してよ? 全く、彼が来た時だけそうなんだから、さすがに露骨で溜め息が出る。ほんとに頼むよ?」
── 蛇口さん。
バレた。あの男に咎められた。これ以上続くようならクビにするかもしれないと脅された。
なんで私の邪魔をするの? 私のことがきらいなの? いつもはちゃんと働いているじゃない。たまの一日くらい、なんで。
なんで。なんで。なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。
──だから私思い付いたの。誰にも邪魔されないで、あの人だけを愛する方法。
ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり、ばき。ガチャガチャガチャガチャ音がする。
──誰の邪魔も入らないで、あの人だけに愛される方法。
どちゅ、ずちゅ、びちゃ、ずる。テキパキテキパキ準備する。
──二人だけの時間。あなたは、喜んでくれるでしょうか?
ずる、ずり、ざり、どさ。しっかりすっかり働いて、あの店長も文句無し。
──ああ、体が軽くなった。悩みなんて無くなって、あなたのことだけ考えましょう?
ばかになった蛇口みたいに、あなたへの想いが止まらない。
ばかになった蛇口みたいに、体から溢れて止まらない。
この目はもう見えないけれど、あなたはずっと私のもの。
私はずうっと、あなたといっしょ。
──そんな生活も、悪くはないでしょう?