かわって【完結】
百物語って知ってる?
深夜に集まって怖い話を話するんだけど、百物語と言っておきながら、百話を話してはいけないルールなんだよね。九十九回目の話で終わらせなければならない。百話目を話すと祟られるらしいから。
何で私が今その話をしたのかと言うと、私たちが今しているのが百物語もどきなのだ。
修学旅行の二日目の就寝時間、先生が見回りを終えた後にこの会は開催された。
ろうそくの代わりに懐中電灯とスマホのライトで七つの灯りを作り、一人一人怖い話をした後に消していく。さすがに九十九もの怖い話を持ち合わせてはいないので、一人一話、計六話の怖い話を話すことにした。最後の火、つまりライトは消してはいけない。それを消してしまっても祟りが起こる、と言われている。
まあ、私は祟りや幽霊なんてあまり信じていないけれど。
「それじゃあ最後はひなちゃんの番ねー」
正面の進藤さんが言った。私を含む六人は、皆顔を部屋の中心に向け布団にくるまりながら話をしていた。私で六話目の話をするのだが、今のところ何か怪奇現象が起こっている訳ではない。なので最初怖がっていた人も平気そう。意外と皆元気だ。
そしてこの怖い話大会の大トリに選ばれたのは、私、中山ひなだ。最後というのもあり期待の眼差しを向けられる。
「やだなぁ、もう」
知人の実体験や自分が体験したことを皆は話していたが、自分が用意したのは頭の中で考えたもの。そこまで期待されても応えられない。
「これは作り話だよ」
前もって伝えておく。
ただ、作り話ではあるが、実在する人物の名前を借りている。そっちの方がリアル感が増すでしょ。
中学時代の友達に阿部加奈子という子がいるのだが、彼女の妹に阿部美佐子という子がいる。
その子に起こった理不尽で怖い話、という体で私は話始めた。
ー-----
とある夏の日。
彼女は自分の家のマンションから飛び降りた。
原因は学校でのいじめ。もともと人と話すことが苦手で、黒い前髪で目元を隠し、いつも俯いているような子だったらしい。両親は優秀な姉の加奈子にばかり目を掛け、美佐子のことはほったらかしである。加奈子も美佐子を気に掛けることをしなかった。
クラスメイト、学校の先生までもが見て見ぬふりをし、誰にも頼ることが出来なかった美佐子は、とうとういじめに耐えきれず、身を投げてしまった。
だが、彼女が死ぬことは無かった。
美佐子は幸か不幸か、助かった。だがその代償として払われたのは、見知らぬ少女の、まだ若い命だった。
彼女が飛び降りた先に、たまたま通りかかった少女が下敷きとなってしまった。その少女は飛び降りた美佐子のクッションとなってしまい、上から降ってきたものに押し潰されてしまったのだ。
死体はあまりにも悲惨だった。うつ伏せの状態でコンクリートに顔がめり込んでしまい、顔も両目も潰れていた。その他の体の部位も、言葉で表せないぐらいの状態になっており、葬儀も遺族は娘の顔を見れないまま終わってしまった。
「あなたのせいで、うちの娘は……」
静かな怒りがその場に響き渡る。その怒りの声は被害者の母親のものだ。
美佐子の病室に入った彼女の第一声がこれだった。
点滴に繋がれ、首だけのみ横に向けた美佐子に続けて言い放つ。
「うちの子がなんで……あなたが死ねば……」
息を詰まらせしゃくりあげながらそう言った彼女は、怒りと悲しみが混ざり合い、涙を流しながら美佐子を睨んでいた。
だが当の本人には響いていないどころか、届いてすらいなかった。無気力で瞬きをしているかどうかも怪しいその瞳には、ぼんやりと女性の姿が映るのみであった。
「この度は誠に申し訳ございませんでした……」
美佐子の代わりに両親と姉が謝る。美佐子はただそれを眺めているのみであった。
両親と被害者の遺族が話をしている所を窓越しで聞いている。そんなどこか他人事のように彼女は感じた。実際の距離に反して遠くから雑音が聞こえる、現実と切り離されたような感覚。
やっと何回か瞬きをすると、次第にぼやけた視界がすーっとはっきりしてくる。曇りが全て無くなり、眩しいくらいの白い病室に吐き気を感じた。
「ああ、私、生きているんだ……」
ぽつりと呟いた。誰にも聞こえない声で、小さく。
そして、今ある生に絶望した。
被害者の両親が病院を去った後、殺伐とした静寂がその部屋を包む。
父親が頭を抱えて溜息をつき、母親は苛ついているのが表情からよく分かる。姉は美佐子を蔑んだように見ていた。
そんな三人の視線に美佐子は縮こまった。
「まさか人殺しの娘を持つとは……」
「あんたのせいで、こっちが迷惑かかるのよ……!」
無事でよかった。
まず一番最初に来るはずのその台詞は一切言わずに、両親は美佐子を責めることしかしなかった。
加奈子は何も言わず、ただその様子を見ているだけだった。
美佐子はまた死のうと思ったが、家族や病院の監視が強化され、自殺が出来ない状況だった。自分の中の唯一の救いである死を、誰にも受け入れて貰えず、誰にも許して貰えず、自由を奪われたように感じた美佐子は、何もかもに絶望していた。
そして、彼女はそれから口を開くことはなかった。たまに看護師や医師が話し掛けても一切喋ることはない。ただうつろな目で、どこか遠くを見つめるのみであった。
それから約一週間後だろうか。彼女がとある夢を見たのは。
よく晴れた透き通った空の下、一面中に咲いているクローバーが道を作っている。その道をたどると、洋風の白いあずまやが見えた。天井はドーム型になっており、あずまやの中にはアンティーク調の丸いテーブルとおしゃれな椅子。色は全て白で整えられている。
そして、その中にお茶を飲んでいる少女が一人。
紺色の襟の白いセーラー服をまとった少女は、こちらを見ると微笑み、優しい目を向ける。風が少し吹くと、彼女の黒髪がひらりと舞った。
清楚で純潔な印象を受けるその少女に、まるで聖母のようだと美佐子は感じた。
彼女に引き寄せられるように、あずまやの中に入る。
「こんにちは」
鈴のような綺麗な声だった。彼女が微笑んでそう言うと、手のひらを上にして席に座るように促す仕草をした。
美佐子は軽く礼をして、向かい側の席に座る。椅子がひんやりとしていて心地よかった。
テーブルの真ん中に、白いユリの花が一輪、大人しく咲いている。何故か自分の分も用意されている紅茶。その液体から花の香りが広がる。ジャスミン茶であろうその紅茶を軽く覗き込むと、鮮やかな黄金色が美佐子の顔を映した。
現実のような夢だと思った。こんなにもはっきりと五感の全てを感じられる。美佐子が夢を見ているという自覚もしっかりある。不思議な夢だと彼女は思った。
「飲んでいいのよ」
今まで見たことが無い夢に少し戸惑っていると、目の前の少女にそうすすめられた。
美佐子は紅茶を一口すする。紅茶の温かくて少し苦い味とジャスミンの香りが美佐子を落ち着かせる。
「どうかしら?」
前を見ると、おしとやかな少女がこちらを見ていた。美佐子が紅茶を飲んだことが嬉しいのだろう。とても慈愛に満ちた目だ。
彼女は綺麗だ、と女性である美佐子でさえそう思った。誰でも惹かれてしまう雰囲気を持っている。綺麗に整えられた黒髪、漆黒の瞳。肌はシラユリのように白くか細い。とても儚いその人に吸い込まれるような感覚を覚えた。
「おいしい、です……」
美佐子がそう言うと、よかった、と微笑んだ少女。目を細め、口は優しい弧の字を描いている。
優しそうな雰囲気につられて美佐子は口を開く。
「あの……」
語尾が小さくなった。
恐る恐る喋り始める美佐子を彼女は見つめていた。
「どちらさま……ですか……?」
美佐子は不安な目を彼女に向けた。優しく接してくれたが、どこの誰なのかは分からなかった。夢とはいえ会ったことも無い知らない人間なのにここまでするのが少し怖かった。
「そうね……」
美佐子の心情を察したのか、彼女は少し困った表情を浮かべた。
「名前はないの。好きなように呼んでいいわよ」
では何て呼べばいいのか。名前の無い美少女に困惑した。夢の中とはいえ自由すぎると美佐子は心の中で苦笑いした。
ふと目に入った、机上にある一輪のユリ。そういえばこのユリは、彼女によく似ている。その花の気品あるたたずまいと彼女の姿をゆっくり交互に見た。似てる、と直感的に感じたのは間違いでは無いなと美佐子は思った。
「えっと、じゃあ、ゆり、さん……」
自分と同い年ぐらいであろうその少女。だが大人びて見えたため、年上の名前を呼ぶようになってしまった。
「ふふ、いい名前をありがとう」
彼女はシラユリのように儚く可憐な笑顔を見せた。その表情に目を奪われる。
「あなたのことは美佐子ちゃんって呼んでいい?」
何故自分の名前を知っているのだろうか。そう疑問を持ったが、そんなことはもうどうでもよくなってしまった。
美佐子はこくりと頷く。目の前の美少女がありがとう、と言った。そのような柔らかい言葉を、彼女は久しぶりに聞き、少しだけ心が温かくなった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。周りの風景はいくら時間が経っても変わらない。それゆえか、美佐子は時間を忘れてゆりと話していた。
「またいらっしゃい」
彼女は軽く手を振り、微笑んだ。
それにつられて、美佐子は軽くお辞儀をした。
もしかしたら私は、この人には歓迎されているのかもしれない。
今まで友達がいなかった、家族さえ冷たい態度だった美佐子にとって、ゆりという存在は、一筋の光のようだった。
それから毎晩その夢を見るようになる。
次第に打ち解けていき、美佐子はゆりに心を開くようになった。
唯一のお友達。唯一の話せる人。唯一の話を聞いてくれる人。
夢の中の、実在しない人間。それでも、孤独な彼女にとって心のよりどころだった。
いつの間にか、美佐子にとって夢の中に入ることが楽しみとなり、誰も来ない病室の中、夢のことを考えるような日々が続いた。
そんな中。
「なんで……」
今日は珍しく来訪者が来たのだ。
阿部美佐子の、学校でのいじめっ子たち。
開いたドアから黒い影が三つ近付いてくる。彼女たちの悪魔のような笑みに、美佐子は身をすくませる。
学校で受けた恐怖を思い出し、体中から一気に寒気が押し寄せた。逃げ出したいが上手く力が入らない。
リーダーである茶髪の女子が、他二人よりも一歩前に出る。へらへらした様子でいつものように口を開いた。
「阿部さん、元気―?」
言葉とはうらはらに、表情からは全く心配しているようには見えない。
思ってもいないことを言うものだ。心の中ではそう思っても、美佐子は何も反撃出来ずただ黙っていた。
後ろの二人もクスクス笑っている。何をしに来たのだろうか。
「あんたが来ないから、学校行きたくなくなっちゃったんだよね」
肩くらいまである茶髪の髪を指でくるくるといじりながら、彼女は遊ぶおもちゃが無いような目で美佐子を見た。いじめの対象がいなくてつまらないと、直接言われているのだと彼女は思った。
茶髪の女、有栖川麗子は大手企業のご令嬢だ。財力と権力を兼ね揃え、一般市民が逆らっていい人たちでは無いと本能的に感じさせられる。この人間の命令は絶対。学校でも暗黙のカースト制度が出来上がっている。
教師たちも有栖川家には何も言えないらしく、いつも媚を売り忖度をしている。一般人の美佐子の意見は聞いてもらえず、いつも有栖川の思うがままだった。
彼女の両脇にいる二人もそれなりの財力を持っている家の娘なのだが、基本的に有栖川の言うことに首を縦に振っている人たちだ。最終的には有栖川が絶対なのだ。
「あれ、何これ?」
彼女の目に留まったのは、引き出しにしまい忘れて机に置かれた美佐子の日記帳だった。自殺する前から誰にも頼れない美佐子にとって、日記が唯一の話し相手だった。今はゆりが話し相手だが、ゆりとの出来事を記録するものとして、夢の内容を日記に書いている。
有栖川が美佐子の日記をひょいと手に取り、中身をパラパラとめくった。
「あ、見ないで……」
だが美佐子の弱い声は届かない。
「へえ、何これ日記? ウケる」
紙の擦れる音が耳に障る。ザリザリと、不愉快と不安が混ざった音が鳴った。
読んでいるのか読んでいないのか分からない有栖川の様子を、美佐子はじっと見た。何も起こらないで欲しいと祈るしか無かったが、その願いは打ち砕かれることとなる。
「誰? ゆりさん? 友達??」
有栖川が見たのは、最後のページ。昨日美佐子が書いた日記のページだ。
「今日も友達のゆりさんと夢の中で会えた。今日はお喋りしながらお菓子食べたり、新しいお茶飲んだりして楽しかった、って!」
あははははと三種類の笑い声が聞こえる。有栖川たちのキンキンした声が病室内に響いた。
「現実に友達がいないアンタにお友達ができてよかったねぇ?」
美佐子を馬鹿にした声で彼女は言った。
「でもまあそれも夢の中だけどね。あーかわいそー」
同情の目は一切ない。美佐子を見下し、ケラケラと笑う。
「夢の中に縋っててバカみたい」
目の前の女はどこまでもゆりを馬鹿にしたいみたいだ。
美佐子の全身が怒りで震えた。何で彼女に自分はここまで言われないといけないのか。その理由は分かっている。だが彼女にはどうすることも出来ない。
そんな悔しさと怒りが混ざった感情を、美佐子はまだ抑えられていた。そう、まだ。
「それに、ゆりって人ー……」
有栖川がまた口を開いた。
「こんな子を相手にするとか、馬鹿なんじゃないの? あ、もしかして聖女気取り? 何それウケるんですけどー」
美佐子の中で何かが切れたような気がした。必死で繋ぎ止めていた理性の糸がプツンと切れた。すーっと全身が熱くなる。顔だけでは無く頭の中まで真っ赤になりそうだった。
「返して」
いつもとは違う、低くて冷たい声を美佐子は発した。
「な、何よ……」
彼女のいつもと違った雰囲気に驚いたのか、有栖川が一歩後ろに下がる。
長い前髪から覗いた美佐子の黒い瞳は冷たい炎のようであった。いつもの怯えた目では無く、静かな怒りを持った目である。
「返して、日記帳」
美佐子は目の前の相手に冷ややかな視線を送る。
「何よ、これがそんなに大事?」
だが有栖川は黒い笑みを見せて日記帳をひらひらと振った。もう美佐子のことが怖くないようだ。
「それじゃあ……」
彼女がかばんから何かを取り出そうとしている。それはすっとすぐに出てきた。
小さいペットボトルに入ったオレンジジュース。ゆらゆらと揺れるその液体に、美佐子は嫌な予感がした。
「こうしてあげる」
カラカラとキャップを開ける音が聞こえた。美佐子の中で、もう何をされるか分かっていた。顔は青ざめ、目を見開く。
「だめっ……!」
彼女は無我夢中で有栖川にとびかかり、慌てて止めに入る。
飛び出した勢いで、左手に刺さっていた点滴の針がブチっと取れ、赤い液体が細長く流れている。そんなこともお構い無しに、美佐子は有栖川に手を伸ばした。
「あっ……」
だが飛び降りて骨折していた足は完治しておらず、バランスを崩し有栖川に倒れこんだ。
手から離れたオレンジジュースが宙を舞う。蓋が閉じられていない飲み口から、橙色の噴水が飛び出た。
バシャン。
そしてそれは彼女ら二人に降り掛かった。美佐子が有栖川に覆いかぶさるような体勢になっているため、彼女の方がオレンジジュースで濡れた面積が広い。ただ有栖川にも前髪全部に掛かってしまった。
ガラッ、と、扉が開く音がした。そこに目を向けると、青ざめた美佐子の父親と母親が立っていた。
母親は美佐子では無く有栖川に駆け寄り、何があったのかと問う。
「美佐子ちゃんが押し倒して殴ろうとしました……。その時に飲んでいたオレンジジュースを零してしまって……」
とんだ嘘つきだ。何でそこまで嘘をつけるのか。有栖川の方を見ると、悪魔の笑みでこちらを嘲笑うかのように見ていた。彼女は悪魔だった。
「何やってるんだ!?」
父親の怒号が響いた。
違う、と美佐子は心の中で叫んだ。何も危害を加えようとしていない、むしろ自分の日記帳がオレンジジュースでびしょびしょになるのを止めようとしただけ。自分がこいつにいじめられていた。そう言いたいのに。
喉からは空気がカヒュ、と鳴るだけで、美佐子は言葉を発することが出来なかった。
父親の威圧、母親の蔑みの目、有栖川の楽しそうな表情を見て、彼女の頭の中はぐるぐると渦を巻き、食道から吐き気が這い上がってきた。
何をしても、この人たちは自分を理解してくれない、理解しようとしない、そんな絶望の淵に立たされているように、美佐子は感じた。
濡れた日記帳よりもびしょびしょに顔を濡らして泣いても、誰も気に掛ける人はいなかった。
そして今日も美佐子は夢の中であの場所へ行った。
「どうしたの?」
夢に来てからもずっと泣いていた美佐子に、ゆりが心配そうに声を掛ける。
椅子が自分の体温を奪っていくように冷えている。俯き、大粒の涙を雨のように流し、だが音は一切立てず静かに泣いていた。出された紅茶もお菓子も何も喉を通さない。口に入れたら吐いてしまいそうなくらいの息苦しさが美佐子を襲った。
「ゆりさん……」
彼女は弱々しい声で縋るように呼んだ。
何かを察したのか、ゆりは美佐子を抱きしめ、落ち着かせるように言った。
「何か辛いことがあったのね……。大丈夫よ、私がいるから」
美佐子をなだめるように、優しく背中をさするゆり。触れられた所が少し温かくなるような感覚を彼女は覚えた。自分を見てくれている人の温かい手に少し安心した美佐子は呟く。
「……私、戻りたくない」
数秒間の沈黙が訪れた。まるで時が止まったようだ。
「……どこに?」
「……現実に」
もしかしたら、ゆりなら分かってくれるのではないか、自分に同情してくれるのではないか、そのような期待も少し含め、美佐子は静かに言った。もうあんな現実は嫌だ、この夢の中に一生いたいと、声とは真逆の音量で美佐子の頭の中にそれは警報のように鳴り響いた
しばらく彼女ら二人の間で沈黙が流れる。
美佐子の静かな呼吸音は、風でクローバーがそよそよと揺れている音でかき消された。
「……いい方法があるの」
美佐子を包み込むような優しい声。ゆりの声だ。ゆりはゆっくり抱きしめていた腕を離すと、そっと優しく両手を美佐子の肩に置いた。ふわっとした感覚に、美佐子は無意識に顔を上げた。
「私と代わらない?」
だがその顔は、いつもと少し違う。
「……え?」
思わず声が漏れた。美佐子がゆりを怖いと感じたのはこれが初めてだった。
何か、違う。何か、怖い。
本能的にそれを感じ取り、美佐子は全身が震えた。さっきまで感じていた温もりが全部冷め、熱があるような寒気を感じる。
口が笑っているはずなのに、目が笑っていない。いや、目に気力さえ感じ取れないと言った方が正しい。冷たい、暗い、まるで……。
「死んでる……」
その言葉を合図としたかのように、美佐子の視界から辺り一面がさぁっと赤く染まっていくように見えた。透き通った青色だった空は、水で溶かしたような赤色の絵の具のよう。ふと見降ろした足元のクローバーからは空の赤よりももっと濃い、赤黒い何かが付いていた。
「ねぇ……」
声はまだ優しいままだった。それに油断して美佐子は顔を上げる。そして彼女の姿に思考が止まった。
「代わってよ」
声にならない悲鳴が出る。
数秒の間、美佐子は何がなんだか分からなかった。
目の前にいたのは、ゆりなのだろうか。美佐子の中でその疑問しか無かった。
目の前の少女は彼女が知っている優しい少女では無い。全身血塗れの、顔が潰れた少女だった。
「美佐子ちゃん」
声だけは前のゆりと一緒だ。それが余計に不気味な印象を与える。心臓が耳に響くようにドクドクと鳴り、呼吸が浅くなる。優しい声とは真逆の雰囲気とぐちゃぐちゃな見た目に美佐子は恐怖と吐き気を感じた。
「死んだ私と代わってよ」
どこにあるかも分からない口から、そう発せられた。その言葉に美佐子は戸惑う。
死んだ私、とはどういうことなのか。何故顔がぐちゃぐちゃなのか。全身血塗れなのは何故か。ごちゃごちゃになった頭で考えた結果、一つの結論が思い浮かんだ。
「嘘……」
そしてその結論は、美佐子にとって信じたくないものであった。
ゆりが、自分が殺してしまった少女だと、思いたくなかったのだ。
自分が殺してしまった相手がどのような姿で亡くなったかを、美佐子は大まかには知っていた。これに関しては美佐子の興味だった。自分がもし死んだらどのような死体になってしまうのか、それが純粋に気になってしまい、警察に特別に許可を取り、聞いていた。
そしてその聞いた内容と、今のゆりの姿はぴったりと当てはまる。
目の前の死んだ人間の潰れた目と、自分の目が何故か合ったような気がした。
「ひっ……」
そしてガシッと顔を両手で掴まれ、美佐子は悲鳴を上げる。
ゆりらしき何かの眼から、一筋の赤い涙が零れる。その赤の正体は、もう美佐子は何にも言われなくても分かっていた。血だ。とても痛々しい。
「代わってよ、代わってよ、かわってよかわってよかわってかわってかわってカワッテカワッテカワッテカワッテ……」
途中から声と同時に低いノイズ音が混じった。頭がくらくらする。そのまま美佐子はだんだん意識が遠のいていく。音が徐々に切り離され、視界が黒に染まる。
彼女が最後に見たのは、何故か床に落ちていた真っ黒なユリだった。そのユリは、テーブルに置かれていた花瓶に挿してあった、本来白色のユリである。闇のように黒く染まり、まるで今のゆりの状態と、今の状況をそのまま表しているような気がした。
そしてそのユリを目にしたのを最後に、美佐子は意識を手放した。
ー-----
「そして阿部美佐子は本当に代わってしまった」
「それは、そのゆりって人と……」
息をのむように隣の人が言った。
「そう、入れ替わったの」
周囲からゴクリと唾を飲む音が聞こえた。思ったよりも、自分の作った話は怖かったらしい。何故か少しだけ空気も冷たくなっている気がするし。
私が考えた設定だと、ゆりは死んだことを自覚していない。これは突如上から美佐子が降ってきた一瞬の間に死亡したため。死ぬ前の苦しみが無いため、気絶した状態と同じ感覚になる。なので死後、霊として目覚めた時、死を自覚しないままこの世を彷徨っていた。
だがゆりは徐々に違和感に気付く。話し掛けても両親が反応しない、現実に干渉出来ない、それが分かった時、彼女は自分が死んだのだとようやく理解した。
美佐子の夢に干渉したのはゆりが死んだと自覚した後だ。
自分が死んだ原因の人物だとは知っていたが、特に恨みは無かった。ただ彼女は気になったのだ。美佐子がどんな子なのか。
そして仲良くなり、ゆりも美佐子に依存していた。唯一死んだ自分と話してくれる相手として。
そしてその後、美佐子が現実にいたくないと言い、それを死にたいと解釈してしまった。だからいい方法として、二人が代わる、生と死を交換しようと提案した。
そして化けの皮が剥がれ、美佐子を殺し、ゆりは美佐子の体で阿部美佐子として生きることになる。
大体の内容はそのような感じだ。
話し終えた私は、自分のスマホのライトを消した。残った灯りは部屋の真ん中に置いてある、懐中電灯のみであった。
「……というか、これ、消しちゃいけないの?」
そう言って、私は目の前にある懐中電灯に指をさした。
「だめだよ。消したら祟りが起こる」
私の質問に答えた声が右斜めから聞こえた。霊やオカルトに詳しい、メガネの宮本さんだった。
そいつが言うことによると、百物語をしている間、何かしらの怪奇現象が起こるらしいが、六話目を話し終えても全く何も無い。本来は九十九話を話すものだから、六話目の時点ではまだ何も起こらないのかもしれないが、さすがにこれは起こらなさすぎるのでは。
しかも夜明けまで起きていなければいけないのか。起きていられると思ったけど眠いな。明日も活動する訳だし、何も怪奇現象も起こらないし、これはもうライトを消して、皆寝てしまっても大丈夫なのでは。
「やっぱ皆寝よ? ライト消すねー」
私がライトの灯りを消した瞬間、周りの人たちが驚いた表情でこちらを見ている。
「中山さん、あなた……」
宮本さんが人が死んだような顔をした。
「お、大げさだなあ。大丈夫だって」
どうせ迷信なんだから。それよりも寝不足で体調崩す方が大変でしょ。
私はおやすみと皆に告げ、布団の中に潜る。布団の中はひんやりして気持ちよかった。
修学旅行が無事終わり、数日経った頃、一本の電話が掛った。
その相手は中学時代の友達、阿部加奈子からだった。私はよく彼女の相談にのっていたので、恐らく頼りやすかったのだろう。
内容は、妹の美佐子がいじめられて投身自殺を図ったが失敗。自分が人を下敷きにして生き残ってしまったことと、下敷きになってしまった人を自分が殺してしまったということにかなりのダメージを受け、美佐子は数日間何も話さず心を閉ざしていたが、ある時彼女の様子ががらりと変わった。
喋るのが苦手で、いつもおどおどしている美佐子が、急に加奈子に話しかけ、にこやかに振舞って来たそうだ。
あまりの急な変化に加奈子の不安がより一層増した。とのことだ。
私が話した怖い話とほとんど同じ内容だった。怖くて私は電話を切った。
テーブルを見ると、花瓶に一輪の黒いユリが挿してあった。