弟子、赤ん坊を抱っこする
広いリビングの隅に置かれたベビーベッドの中からSOSが響く。ピーリカの母親は赤ん坊を抱きかかえ、トントンとあやしながら師弟の前へ連れて来た。まだ髪の毛も大して生えていない赤ん坊は、鼻をスンスンとならしている。
「ピーリカ。貴女の妹、ピピットよ」
初めて見た小さな生き物に、ピーリカは目を輝かせた。
「ピピットちゃん……流石わたしの妹、かわいい!」
ピーリカにとって妹は、小さいからかわいいのではない。赤ちゃんだからかわいいのでもない。自分の妹だからかわいいのである。
よそ様の赤ちゃんであれば「わたしの次くらいにかわいい」と言っただろう。
マージジルマもピーリカの隣に立ち、赤ん坊の顔を覗き込む。
「うわ、ちっさ」
「赤ちゃんなんだから当たり前でしょう。かわいいですね」
「まぁそうだな、かわいいな」
しれっと妹を褒めた師匠に対し、弟子は眉をひそめた。
「赤ちゃんの時のわたしもかわいかったんですけど?」
「だからどうした」
わたしの事も褒めてくれないのかと、ピーリカは不満げな顔を見せつける。そんな弟子の顔を見ても、マージジルマは「変な顔してんなぁ」くらいにしか思っていない。
母親は中腰になり、ピーリカの顔の前にピピットを近づける。
「ピーリカも抱っこす」
「する!」
食い気味に答えたピーリカ。両手をひろげ、受け取ろうとする。
「じゃあ座ってね。立って抱っこするより危なくないだろうから」
「わたしは天才だから立って抱っこしても危なくないですけど」
「ピピットの方がまだ生まれたばかりで天才になりきれてないのよ。だから確実に安全に座って抱っこして?」
「なるほど。か弱き者に寄り添えてこそ天才ですからね。ではピピットちゃんに合わせてやるとしましょう」
母親に言われるがまま、ピーリカは床上に敷かれたカーペットの上に座った。
広げた両腕の中に、そっと妹を手渡される。ほんのり香るミルクの匂いに、温かさと湿り気。ぐにゃぐにゃした触り心地は、不快にならないものの。すぐ壊れてしまいそうで、少し怖かった。
「ピーリカも小さい時はこんな感じだったのよ」
母親からの言葉を聞き、ピーリカは無言で師匠に目を向ける。
わたしもこんな感じだったんですって。つまりかわいいって意味ですよ。分かってますか?
そう目で訴えている。
訴えを感じ取ったマージジルマだが、弟子の希望通り褒める事はない。
「見てないもんをかわいいとは言えねぇぞ」
「ならば想像してごらんなさい。かわいいでしょう? だからかわいいって言って良いんですよ」
「そこまでして言わせたいか」
呆れている師匠の元へ、パイパーが声をかけた。
「ならマージジルマ様、ピーリカが小さい頃の映像見てみます?」
「映像?」
マージジルマへの提案に、ピーリカが声を上げる。
「わたしも見たいです」
「パパが高らかに笑ってる所も一緒に映ってるけど、それでもピーリカ見たい?」
「それは別に見たくないですね」
彼女の母親はマージジルマを手招きし、二階へ連れて行こうとしていた。
「じゃあこっちに来て下さいな。ピーリカ、少しの間ピピット見ててね。ピーリカにしか出来ないの」
「なら仕方ない、分かりました。任せなさい」
わざわざピーリカを置いていくという事は、彼女に見せたくないものでも見せるつもりなのだろうか。そうマージジルマは察した。
だがそれは、彼女の母親と二人きりになるという事を意味している。断ろうかとも考えたマージジルマだったが、パイパーは「こちらですよー」と言いながらスタスタと部屋を出て行ってしまった。どうやら拒否権はないという意味らしい。
二階の書斎へとやってきたパイパーと、大人しく後をついて来たマージジルマ。
「ついて来たが、小さいピーリカに興味がある訳でもない。手短に頼む」
「あら、そんなにおばさんとは一緒に居たくない?」
「いや、そうじゃ、えっと」
「ふふ。冗談です。マージジルマ様は本当、反応が楽しくて良いですね」
黒い笑みを浮かべるパイパ―に、マージジルマの胸はズキリとする。だがそのときめきは恋心の古傷ではなく、彼女が全くと言っていいほど何を考えているのか分からなかった事に対する恐怖心だった。
彼女を初恋相手と勘違いしていたせいだと思って今まで感じていた気まずさは、もしかして苦手意識も含んでいたのだろうか、そんな想いが彼の頭に過った。
マージジルマの心情を分かっていながらも楽しんでいるパイパーは「こちらをどうぞ」と一冊の本を渡す。
「……これは?」
「昔の記録を、ピーリカが赤ちゃんだった頃を記した魔法道具です。まぁ見てみて下さいな」
本を開くと、ページいっぱいに魔法陣が広がる。魔法陣から照らされるように、過去の映像が流れる。今より少し若く見えるパメルクが、おくるみに包まれたピーリカを抱っこしている姿が映った。映像の彼らは、まるで目の前で喋っているかのように鮮明な声を上げる。
『ふぇええええ』
『あぁ泣いた! 流石おれの娘! かわいーー!!』
今とは違う態度を娘に取る父親を見て、マージジルマは驚いていた。
パイパーはページをめくり魔法陣を消す。すぐさま次のページにも魔法陣が広がり、映像が流れた。映像のピーリカは相変わらず父親に抱っこされていたが、先ほどより一回り大きくなっている。
『ぱぱぁ』
『キャァァァァシャベッタァァァァ! 流石おれの娘! かわいーー!!』
さらにめくられたページ。映像では二足歩行するようになったピーリカが父親に駆け寄る。
『パパぁー』
『右足を出した後に左足を出して歩いている! 流石おれの娘! かっ』
『かわいー?』
『かっ?!』
『パパ、ピーぃカ、かわいー?』
『かっ、かっ、かっ……わいい訳あるか! ばーーーーーーーーか!!』
マージジルマは自分のよく知る態度を取ったパメルクを見て、何だコイツと呆れていた。ちなみに映像の中のピーリカは『ぴーぃかかぁいいもんーー!』と泣きながら怒っている。
パイパーは本を閉じ、にっこりと微笑んだ。
「ここが分岐点です」
「明らかに父親が悪いじゃねぇか」
だがその父親の行いのおかげで、マージジルマはパイパーの前でもいつも通りの態度を取る事が出来た。
「そうなんですよ。本当に愛情表現が下手な人。なのでピピットにも同じような態度を取らないか少し心配で」
ため息を吐いたパイパーだが、マージジルマには彼女の態度はどこか余裕そうに見えた。
「まさかピピットまでうちに寄越す気じゃないだろうな。流石に俺ピーリカだけで手一杯なんだが」
「じゃあもしまた同じような形になったら、次はシャバ様あたりに預けようかしら」
「……アイツには候補がいるから、イザティあたりにしといてくれないか」
さり気なく巻き込まれたイザティは、遠く離れた青の領土でクシャミをしていた。
その頃、一階でピーリカに抱かれていたピピットはぐずり始めた。
「何ですピピットちゃん。このわたしに抱っこされているというのに何が不満なんですか」
ピピットが質問に答える事はない。ただただぐずり続けるだけだ。ピーリカは赤ん坊が泣く理由を考える。
「お腹減ったんですかね。ママに言ってミルクを……待てよ? わたしもおっぱい出るかな?」
間違った知識を身に着けているピーリカは、赤ん坊が近くにいれば女性は自然と母乳が出てくるものだと思っている。ワンピースをめくり、赤ん坊に素肌を押し付けた。小さな目を開き、ピピットは目の前にある小さな胸を見つめる。本能で乳が出る場所と認識しているようで、ピピットは姉の胸に口をつけた。
「いっ! 痛い痛い痛い痛いっ!」
手加減も知らない赤ん坊は欲望のままに、力いっぱい吸い上げる。ピーリカはなんとか赤ん坊の口を自分の体から離し、急いでワンピースを降ろし胸を隠した。
「赤ちゃんだからって許される事と許されない事があるですよ。もう少し師匠みたいに優しく吸って下さい」
彼女の父親が聞いていたらきっとマージジルマは殺されていた。
中途半端に遮られた食欲を抑える事が出来ずに、ピピットはただただ泣き続ける。
「あぁ、泣くより笑えです。女の子は笑ってるのが一番かわいいんですから」
ピーリカも困った表情を見せるが、赤ん坊であるピピットにはまだ理解出来ないようだ。
「困りましたね。ここはママにおっぱいを出してもらうしかないですかね」
そう判断したピーリカの耳に、扉の開く音が聞こえた。




