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受け継がれる楽園の記憶

宿木の実が落ちたら

作者: 深海聡

「あ……」


 何気なく庭木を見上げて、違和感に目を凝らす。

 ハイネは思わず開いた口から声がこぼれ落ちて、そっと口許を押さえた。


「宿木」


 丸く繁る常緑の枝に艶やかに光る小さな丸い実を目にして、ハイネは無意識に自身の唇に触れた。

 冬の空気に、やや乾いた感触。

 その上に確かに触れた温もりを思い出して、頰が勝手に熱を持つ。


「旦那様」


 目を伏せて、その名を呼ぶことのない人を思う。

 きっと、この先もずっと。

 そう思っていたのに、封じ切れない感情が仕草の端から、視線の端から、言葉の端から、ありとあらゆる隙間から溢れ出してしまう。

 滲む感情の名前を知りながら、言葉にせずに来た。

 言葉にしてしまえば、この心が囚われてしまうことを知っていたから。

 意識してそっと、息を吸って吐く。


「わたくしは、貴方様の」


 それ以上は、どうしても言葉にならなかった。

 絡み切った感情が、解きほぐせないから。

 少しだけ乾いて硬くなった手に息を吹き掛けて、擦る。

 吐息に濡れた指先で無意識に唇をなぞる自分の行動に気付いて、ハイネは眉を寄せる。


『君は嘘つきだね。……人のことは、言えないか』


 掠めるように触れた指先が、するりと遠ざかる刹那に感じたのは痛みなんかじゃない。

 届かないのは、いつだって心の距離だ。

 悲しいほどに、渇くのもいつだって。

 この心でしかない。


「残酷なのは」


 どこにも存在しない神か、運命か、それとも。


「わたくしの方かもしれない」


 ふっと吐き出した自嘲は、白く濁って急速に曇り始めた鈍色の空に消えた。





 彼の人が存在する一番古い記憶は、今日のような大振りの綿雪が降る夜だった。

 朧げな記憶の中で、世界は灰色をしていてハイネはそんな世界にボロ雑巾のように捨てられてまさに命を終えようとしていた。

 親の記憶はなく、頼りにしていた同じような境遇の孤児たちは寒波と飢えに耐えかねて、幼い者から命を落としていた。

 だから、運命としか言えなかった。

 雪の中からハイネを掘り出したその人の濡れた黒髪が思わずしがみついた指に絡む感触も、複雑な色味に揺れる灰青の瞳も、泣きそうに歪んだ顔も。

 痩せて弱った体には強過ぎる、抱きしめる腕の力も。


『間に合った…間に合った……生きていて良かった…。私の、』


 うわごとのような呟きは、途中でハイネの意識がなくなったせいで最後まで拾えなかったけれど。

 あの歓喜と後悔に満ちた声音は、ずっと今も耳の奥にこびりついている。

 意識がなくなった後、ひと時も離さずに暖めながら目覚めるまでハイネを癒やし続けたと、困り切った表情のジョルジュに告げられて、別の意味で熱が上がったのは今に至るまで忘れることが出来ない強烈な思い出だ。

 だからなのか、エディアルドのことを、ハイネは長い間どうしてもまっすぐ見ることが出来なかった。

 きっと恐らく、知っていたから。

 続きの、言葉は。


「ーー運命のひと」


 呟いた言葉は、ハイネの心を酷く掻き乱した。





「ハイネ」


 どういう経緯で名乗ったのかすら忘れてしまった男性名を、この上もなく大切そうに口にするその人の不思議な色合いの瞳に映り込む自分の泣きそうに歪んだ顔を、じっと見つめ返す。


「ハイネリーゼ」


 ゆっくりとささやかれた名前に、背筋が震える。


「その、名は」


「見つけ出したよ、やっと。君の系譜を追うのは、酷く困難だったけど」


「……今回は、何を?」


 手を引かれるままに、エディアルドが身を沈めている肘掛け椅子の傍のスツールに腰掛けながら、ハイネはその顔を覗き込んだ。

 いつでも身なりをきちんと整えているエディアルドが、取り繕う余裕すらない様子で泥がついた靴を履いたままの足をオットマンに投げ出して、落ち窪んだ目を手のひらで覆う。


「怒れる火の精霊を鎮めてきたよ。声が嗄れるまで謳わされた。……だけど、その甲斐はあった」


 掠れた声に、ハイネは気付いてしまった。

 エディアルドがひどく浅い息を繰り返して、苦しさを隠すように笑みを浮かべていることに。

 長時間灼熱の空気を吸い続けた肺が、焼けてしまっているのだろう。


「旦那様。以前わたくしが申し上げたことを、覚えていらっしゃいますか?」


 突然変えられた話題に、エディアルドがゆっくりと瞬きをする。

 立ち上がったハイネが、その頬に手を添えて笑みを浮かべる。


「宿木の実が落ちたら、口付けを」


「……良いのか?」


「今更だったのですよ。わたくしも、貴方様も。……もう、嘘がつけそうにありません」


 目を閉じたハイネの眦から涙がひと粒零れ落ちるのを見て、エディアルドはそっと目を伏せた。

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