知るということ(1)
「部屋にこもってないで、少しは外で遊んだらどうなの?」
扉が激しく叩かれる音とともに、母さんの不機嫌がたっぷり塗られた声がきこえてきた。
うるさい、なんて反抗したら、扉を壊してでも部屋に入ってくるだろうから言わないでおこう。勝手に開けて入ってこないだけましなのかもしれない。
兄さんの部屋には鍵がついているのに、どうして僕の部屋には鍵をつけてくれないのだろう。
「ちょっと、母さんの話きいてるの?」
不機嫌に怒りが混ざっている。母さんは父さんとの離婚話がなかなか進まないことで最近ずっと苛立っているのだ。火に油を注ぐようなことだけは避けたい。
僕は、わかった、と短く答えて薄暗い部屋のベッドに寝転がる。電気をつけるのも面倒くさい。ぼーっと部屋を眺めて時間が過ぎるのをただただ待った。
中学生になって初めてのゴールデンウィーク。小学校のころの友だちと遊んだ初日以降、僕はほとんどの時間をこの部屋のなかで過ごしている。
気づけばもう最終日だ。
久しぶりに小学校のころの友だちと遊んだときは、現状を忘れさせてくれる懐かしさがあって、とても楽しかった。
でも家に帰ると、楽しい気持ちが寂しい気持ちの波にのまれてしまい、友だちと会うのはもうやめようとすら思った。
寂しさに流されるように勉強机に目がいった。
棚には分厚い教科書と母さんが用意した参考書が隙間なくきっちりと並べられていて、横には新品のようにきれいなスクールバッグが嫌みったらしくかけられている。黄色く縁どられたKの校章をみるだけで、気分が滅入ってしまう。
私立黄陽中等教育学校。
僕が四月から通っている県内でも有名な進学校だ。
中高一貫校である黄陽は、大学受験に向けて中学生のときから先取りで勉強をしていく。黄陽について知っているのはこれだけだ。
黄陽にはこれっぽっちも興味が持てない。
だって、僕は黄陽になんて行きたくなかったから。
小学校の友だちと一緒に丹駕中学校に行きたかったから。
『兄さんが黄陽にいるんだから、あなたも入りなさい』
母さんのそのひと言で強制的に黄陽を受験することが決まった。僕の意思はきいてすらもらえなかった。
母さんは子どもの勉学への関心がとても高い。僕が毎年のように運動会の徒競走で一位を取ることよりも、塾のテストで良い点を取ることのほうがうれしいのだ。
運動会には伯母さんたちも来てくれて、学生時代に陸上部だった伯父さんは、隼くんは走るときのフォームがいいんだよな、と会うたびに褒めてくれるのに。まあ、母さんも運動会の日だけは褒めてくれたけれど。
僕は、黄陽を受験したくないと言えなかった。でも、何かしら抵抗しようと、塾をずる休みして友だちと遊んだり、家では勉強をしているふりでごまかしたりして、受からないように努力した。
でも、黄陽に受かってしまった。
合格通知をみた兄さんが、黄陽には兄弟枠があるからな、俺のおかげでお前は受かったんだよ、と偉そうに言ってきた。
兄さんにそう言われて、合格したことはちっともうれしくなかったけれど、すごくむかついた。そんな謎の推薦枠があるわけないじゃないか。
まあ、母さんが僕を黄陽に入れたい気持ちが、まったくわからないわけでもない。
ほとんど家に帰らず、愛人を何人も作り、お酒や大人の遊びで多額の借金をし、実の親であるじいちゃんたちに家を追いだされた父さんとは違って、母さんは子どもの将来を考えてくれているのだ。もうちょっと優しくしてほしいけれど。
クローゼットの扉に、濃緑のブレザー、白シャツ、シャツから垂れる若葉色のネクタイ、チェック柄の灰色のズボンがかけられている。それらが視界に入るだけで、明日から再びはじまる学校生活を嫌でも想像してしまう。
孤独な学校生活。
入学して一ヵ月、僕はひとりも友だちができていない。
僕がいる一年B組だけなのかもしれないけれど、入学式のときから、すでにいくつものグループができていた。会ってすぐに仲良くできるなんてすごいと感心しながら、僕はわいわいと盛りあがるクラスメイトを遠巻きに眺めていた。
できあがっている友だちグループに入っていく勇気を持ちあわせていない僕は、ひとりでいるしかなかった。
クラスメイトは、僕のことをひとりが好きな人間だと勝手に思っているのか、誰も話しかけてこなかった。
ああ、こうやって僕が部屋に引きこもっているあいだも、クラスメイトたちは友情を深めているんだろうな。
このまま黄陽に通っても、何も楽しくない。
将来なりたい何かもないから、勉強にやる気を見いだすこともできない。部活に入ろうかとも思ったけれど、新入生歓迎会の部活動紹介で興味をそそられる部活はなかった。
まあ、黄陽に興味がないから仕方がない。
ひとりで学校に行って、ひとりで過ごして、ひとりで帰る。
そんなつまらない学校生活にはもう、うんざりだ。
最初から友だちがいる丹中に行けばよかった。
母さんの言葉なんて無視すればよかった。
受験なんてしなきゃよかった。
やり直したい。
ぱっと頭にTバックマシンが浮かんだ。小さな宝石が頭のなかできらきらと光っている。
その光に誘われるように閃いた。
Tバックマシンで戻って、受験をしない選択をすればいいんだ。
もっと早く気づけばよかった。
僕は部屋をでると階段を駆け下り、母さんの小言を背中に浴びながら、急いでじいちゃんの研究室へ向かった。