子猫の名前は茶々(7)
「子猫なんか拾ってきて、早く戻してきなさい」
車から降りてきた母さんの顔は一瞬にして鬼になった。僕には髪のあいだから生えた角がはっきりと見える。
怖くて怖くてたまらないけれど、子猫のためにがんばらないと。
「戻したら、死んじゃうよ」
「そんなの母さんには関係ありません」
こん棒でなぐられたみたいに、心にどんっと痛みが走った。
ひどい、ひどすぎる。
大嫌いだという事実があったとしても、死んでしまうかもしれない小さな命を関係ないと冷たく突き放してしまうなんて、最低だ。
今にもあふれでそうな涙をこらえ、僕は鬼をにらみつける。
「何なの、その顔は」
「僕は、この子を守るって決めたんだ」
「絶対に家では飼いません。わかったらさっさと戻してきなさい!」
鬼の冷たい怒鳴り声が響いた。恐怖で体が縮こまり、僕は鬼から目をそらしてしまった。
段ボールのなかの子猫が毛を逆立て小さな体を震わせている。大声に驚いたのかもしれない。必死に自分を守ろうとしているその姿を見ていると、勇気がわいてきた。
僕は顔をあげ、目に力をこめて鬼をにらみつける。
絶対に助けるんだ。
僕はそのために戻ってきたんだから。
「研究室で飼うなら問題ないか?」
後ろからじいちゃんの声がきこえた途端、鬼の眉が困ったようにハの字に曲がった。
「大事な機械や資料があるから、危ないんじゃないですか?」
母さんが心配そうに言った。
「そういうのは奥の部屋にしまってあるから大丈夫だよ」
「で、でも……」
「家のほうには迷惑をかけないから。隼もそれでいいか?」
僕は首を伸ばすように見上げ、じいちゃんに向かって頷いてみせた。
「ま、まあ、おじいちゃんがいいなら、私はいいですけど」
そう言うと母さんはぷいっと後ろを向き、ねぎがはみだしたレジ袋と一緒に、足早に家のなかへ入っていった。
無事に鬼を退治して、子猫を助けることができた。
ひとりで鬼を退治するなんて、じいちゃんは桃太郎より強いよ。
僕はいつもよりたくましくみえる背中についていく。じいちゃんは研究室ではなく、駐車場のほうへ歩いていった。
「まずは動物病院に連れて行こう。外にいたなら、ダニとか虫がついているかもしれないからな」
「そうなんだ」
「ちゃんと診てもらってからのほうが、隼も安心だろ?」
「うん!」
僕はじいちゃんと一緒に近くの動物病院に行った。
診察をしてもらい、栄養不足で少し弱っているけれど、大丈夫だと言われて僕は安心した。先生がすすめてくれた子猫用のごはんとミルクを買ってから、研究室へ戻った。
「皿を探してくるから、ちょっと待ってろ」
そう言うと、じいちゃんは暖簾をくぐり、暗い部屋に入っていった。
がさがさと大きな音がきこえてきて、床に何かが落ちたような甲高い音がするたびに、膝の上にいる子猫がびくっと体を強張らせた。そのたびに僕は背中をさすってあげた。
ミルクがたっぷり入ったお皿の前に子猫を下ろす。
子猫は体を後ろに引き、警戒した様子でなかなかミルクに近づこうとしない。僕は子猫の隣にしゃがみ、大丈夫だよ、と声をかけながら、小さな背中を優しくなでてあげた。
しばらくすると、子猫はお皿に近づき、小さな鼻でミルクの匂いをかぐような仕草をして、安全だと判断したのか、小さな桃色の舌をミルクの上で楽しそうに跳ねさせた。
僕は少しのあいだミルクを飲む子猫を見守ってから、じいちゃんのほうを見上げた。
「じいちゃん、ありがとう」
「これくらいしかできないからな」
「ううん、子猫も僕もすごくうれしいよ」
「それなら、よかった」
じいちゃんは、にかっと笑った。
僕も真似して、にかっと笑みを返した。
足もとにくすぐったい感覚がしたのでうつむくと、子猫と目が合った。口の周りの茶色い毛に、白いミルクの水滴がたくさんついていた。
ミルクを飲んで少し元気を取り戻したのか、子猫は顔をすりつけてきた。小さな三角の耳が足に触れて気持ちいい。
茶色の毛並みが蛍光灯の光で輝いていてきれいだった。
僕は足元を八の字を描くように回る子猫を、顔の前まで抱きあげた。
「決めた。この子の名前は茶々にする」
茶色くて可愛いから、茶々。
「みー」と茶々は鳴いた。
僕には喜んでいるようにきこえた。気に入ってくれたみたいだ。
僕がミルクのお皿を洗っていると、ばあちゃんがにこにこ笑顔で、僕の晩ごはんとパジャマを持ってきてくれた。
「薫さんに許可をとってあるから、今日はここのソファーで茶々と一緒に寝ていいぞ」
じいちゃんが言った。
「やった! ありがとう」
今日は茶々とずっと一緒にいられる。
僕はうれしくて、ソファーの上でころころと可愛く転がっている茶々のお腹に、顔をうずめた。柔らかくて温かい。
「ほんと、隼ちゃんが生まれてから、糸嗣さんはびっくりするほど変わったわね」
ばあちゃんがちくりとした声で言った。
「そうか?」
じいちゃんはとぼけたような声をだした。
「そうよ。それまでは研究のことしか頭になかったわよね。家族のことなんて少しも考えてないって、靖子とも口げんかばかりしていたでしょう」
「そうだったかな」
「そうです」
靖子さんは僕の伯母さんで、にこにこ笑顔がばあちゃんそっくりなのだ。よく家に来て母さんの相談に乗ってくれて、一緒にくる伯父さんは僕と遊んでくれる。
そんな優しい伯母さんがじいちゃんと口げんかしていたなんて。
鬼退治ができるじいちゃんとけんかができるなら、伯母さんも実はけっこう強いのかもしれない。
顔をあげると、ばあちゃんがいたずらっぽくふくれっ面を見せていた。じいちゃんは困ったように頭をかいている。
「ふたりはほんとに仲良しだね」と僕は言った。
「そうね。なんだかんだ仲良しね」
そう言って、ばあちゃんはうれしそうに笑い、茶々の前にしゃがんだ。
かわいいねー、と何度も言いながら、茶々を優しくなでていた。ばあちゃんに体を預けるようにして目を閉じている茶々は幸せそうで、僕は安心した。
僕は茶々と一緒に晩ごはんを食べた後、研究室のなかを探検した。
茶々は床に落ちている本の匂いを熱心にかいだり、棚とかソファーの下にもぐりこんだりしていた。僕が床に頬をつけるようにしてのぞきこむと、黒いつぶらな瞳が光っていた。
ドラフターで作業をしているじいちゃんに近づいたときはひやひやした。研究の邪魔になると思って茶々を捕まえようとしたけれど、じいちゃんの足にぶつかるように顔をすりつけている茶々に僕は近づけなかった。
茶々の気配を感じたのか、じいちゃんは少し驚いた様子で足元を見つめ、うろうろしている茶々を片手ですいっと抱きあげて、膝の上に乗せていた。
茶々は最初のうちは怖がっていたけれど、鉛筆の動きが気になったみたいで、左の前足を伸ばし、鉛筆をなぐるようにして遊びはじめた。
じいちゃんは、うははっと笑って茶々をもっと楽しませるためか、鉛筆を不規則に動かしていた。白い紙に描かれた線はぐちゃぐちゃだった。
僕は茶々とじいちゃんの楽しそうな姿をちょっぴりうらやましく思った。
茶々のことで頭がいっぱいだったので、パジャマに着替えるときまでTバックマシンを穿いたままだったことに僕は気づかなかった。
Tバックマシンを返すと、じいちゃんは秘密の部屋のなかに消えていった。
その部屋でTバックマシンを使って何をするのか気になったけれど、パジャマに着替えたせいか、一気に眠気がやってきた。
僕は茶々を抱いたまま、ソファーに横になって毛布をかぶる。
Tバックマシンで戻ってよかった。
すごくすごく恥ずかしかったけれど、茶々を助けることができた。
茶々がごろごろと喉を鳴らして、毛布の上をうろうろと探検している。ときどき立ちどまっては、毛布越しに僕の体をマッサージするみたいに、小さな前足で優しく押してきた。
僕はそのたびに手を伸ばし、ありがとうの意味をこめてなでてあげた。
茶々はなでられて気持ちいいのか、お腹を天井に向けて寝転がった。同じような姿勢に僕は思わず笑ってしまった。
しばらくすると、茶々は僕の胸のあたりで小さく丸まり、体をふくふくと膨らませるようにしながら眠りはじめた。
僕もゆっくりと目を閉じて、茶々の命のぬくもりを感じながら眠りについた。
茶々、おやすみ。