子猫の名前は茶々(6)
川の遊歩道にはあんまり人がいなかった。
それでも、犬の散歩をする人やジョギングをする人がちらほらといる。
川沿いのマンションのベランダにも人の姿がみえる。久しぶりに太陽が顔をだしたからか、大量の洗濯物を干していた。
お願いだから、こっちを見ないでください。見られないとだめなのに、僕はそう願ってしまった。
コートのなかで体が震えている。二月の寒さと緊張のせいだ。
寒さに関しては太陽さん、もっとがんばってください。緊張はどうしようもない。
ああ、コートとお別れしたくない。寒いのもあるけれど、やっぱり今の姿を見られるのは嫌だ。
「隼、大丈夫だ」
じいちゃんが言った。
寒さと緊張と恥ずかしさで震える僕の頭に大きな手が乗った。
「じいちゃんが一緒にいる」
ごつごつとした大きな手に優しくなでられる。それだけで、自然と体の震えが治まっていく。
また、心強い安心が生まれた。
母さんに怒られて泣いたとき、学校で友だちとけんかして泣いたとき、兄さんにいじわるされて泣いたとき。いつもこの手が安心をくれた。手のひらから伝わるぬくもりが、大丈夫と思わせてくれる。
よし、今だ。今しかない。
僕は靴を脱いでコートとお別れして前を向いた。
ほぼ裸だから、草をさわさわとゆらす優しい風が、鋭いナイフのように肌に突き刺さった。
「隼、思いっきり走れ!」
頭の上でじいちゃんの手が、ぽんっと跳ねた。
僕は力強く一歩目を踏みだして、赤いアスファルト踏み抜くような勢いで走りだした。
前から歩いてくる白髪のおばあさんの大きく見開かれた目と視線が絡み、僕はぎゅっと目を閉じた。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしいー。
心がそう叫びはじめた瞬間から、冬の外を走っているのに、体が燃えるように熱くなってきた。
焼きつくされてしまうのではないかと思うくらいの熱なのに、どこにも痛みはなくて恐怖も感じなかった。
むしろ、その熱に体が包みこまれて、気持ちよかった。
心地よい熱とともに走っていると、急に足裏に感じていたアスファルトのでこぼこがなくなり、体がふわふわと浮いたような気分がしてきた。
走っている気がしない。
雲になって、どこか遠い町に向かって漂っているみたいだ。
しばらくのあいだ、その雲のような浮遊感に体を預けていたら、急に頭を強く押されて僕はどこかに突き落とされた。
ちくちくと細いものが刺さって痛い。とんっと後頭部に何かがあたった。
びくびくしながら目をあげると、細い緑の線が視界いっぱいに広がっていた。
ここは、どこだろう。
おそるおそる立ちあがると、僕はあの古い家の庭にいた。
ちくちくと痛かったのは雑草で、頭にあたったのはランドセルだったみたいだ。顔に触れると、湿った土が指先についた。
どうしてランドセルを背負っているのだろう。
違和感に気づき、体をくまなく観察していった。
今、着ているのは間違いなく昨日の服だ。黒いズボンのなかをのぞくと、小さな宝石たちが白く光り輝いていた。
「みー、みー」
小さな鳴き声が耳をくすぐる。ずっとききたかった声だ。
僕は慌てて声の主のもとに駆け寄った。
「……生きてる」
さっきまでぴくりとも動かなかった子猫が、可愛く座ってこちらを見上げている。
本当に、本当に、昨日に戻ってる。
すごい、すごいよ。じいちゃん、すごいよ。
「みー、みー」
僕は子猫の小さな体を優しくなでて、命のぬくもりを確かめた。
ちゃんと生きている。
「今度はちゃんと助けるからね」
段ボールごと抱えて、僕は急いで家に帰る。子猫を助けるために母さんを説得しないと。