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Tバックマシン  作者: Tai
第一章
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子猫の名前は茶々(4)




 マフラーに包んだ子猫を抱えながら、扉を開けて研究室のなかに入った。

 ほんのりとコーヒーの匂いがする。どうして大人はあんな苦いものをおいしそうに飲むのだろう。じいちゃんからひと口だけもらったことがあるけれど、僕にはコーヒーのよさがまったくわからない。

 かかとを踏むようにして泥だらけの靴を脱ぎ、びしょびしょの靴下で研究室のなかを歩いていく。進むごとに床に泥水がしみこんでいくような気がする。じいちゃん、後でちゃんと床を掃除します。ごめんなさい。

 研究室には三つの部屋がある。裏口がある台所のようなこの部屋はいつも暗い。ドラフターが置いてある部屋から草模様の暖簾越しにもれてくる弱い光だけを頼りに歩かなくてはならない。それに、床に何が落ちているかわからない。

 部屋の中央に、本とか食べ物とか食器とかが山のように置かれた大きな丸いテーブルがあり、そのテーブルからこぼれ落ちた物が床に散らかっているのだ。このテーブルの上がきれいなところを僕は一度も見たことがない。

 散らかっているほうが落ち着くんだ、とじいちゃんは笑っていた。母さんに部屋を片づけなさいと注意されたときに僕も同じことを言ったら、顔を真っ赤にした母さんにこっぴどく叱られた。

 じいちゃんはよくて、どうして僕はだめなんだろう。

 そんな散らかり放題の部屋だけれど、テーブルの右側の床にはまったく物が落ちていない。なぜなら、右側にはじいちゃんしか入れない秘密の部屋の扉があるから。

 だから、僕は裏口から入るときは必ずテーブルの右側を歩くようにしている。間違えても研究室の物を傷つけたりしたら大変だし。

 頭で暖簾をめくるようにして部屋に入ると、白衣を着たじいちゃんがいつものように黒い椅子に座っていた。

 ドラフターに体をくっつけるようにして何かを描いている。眼鏡をかけて真っすぐな眼差しをドラフターへ向けるじいちゃんは、とってもかっこいい。

 きっと、ばあちゃんはこういうかっこいいところを好きになったのだろう。

 大きくてごつごつとした手に握られた鉛筆が小刻みに動き、ドラフターにはられた紙の上を楽しそうに走っている。小さいときはじいちゃんの膝のうえに座り、描かれていくものをじっと眺めていた。

 もう小学五年生だから、膝の上に座りたいなんて恥ずかしいお願いはできないな。

 僕はドラフターの横に置かれた丸椅子に座り、動かない子猫をそっと膝のうえに乗せて、マフラー越しになでた。

 早く子猫のことを話したいけれど、集中しているときのじいちゃんに対しては、どんな大声で呼びかけても気づいてもらえない。

 今は、待つしかない。

 集中しているじいちゃんの後ろに、お菓子の柿の種みたいな形の机があり、その向こうには梯子のついた背の高い本棚がある。

 本棚の前の四角い机の上には、開いたままの本が雑に置かれていて、床にもたくさんの本が積んである。

 その本棚の反対側に茶色の扉があって、それがじいちゃんの研究室の正式な入口だ。母さんたちに見つからないように研究室にくるとき以外は、僕もこの扉を使う。

 入口の隣の背の低い棚や壁には、たくさんの賞状や盾が飾られている。もちろん、名前のところはすべて〔戸島(とじま) 糸嗣(いとつぐ)〕。

 研究内容が難しくて子どもの僕にはよくわからないけれど、じいちゃんは世界的に有名な発明家らしい。きっと、あの秘密の部屋でも、すごい発明をしているに違いない。

 そんなすごいじいちゃんの孫というのが、僕のいちばんの自慢だ。

 盾が置かれた棚の隣に、ほこりをかぶったテレビがあって、その横にガムテープがたくさん張られた黒いソファーがある。

 これは、何だろう。

 僕は向かい合うように置かれた黒い金庫をじっと見つめる。見るからに重くて頑丈そうだ。

 じいちゃんに何回かこの金庫についてきいたけれど、何も教えてくれなかった。

 秘密の部屋に秘密の金庫。じいちゃんには秘密が多い。

「隼、学校はどうしたんだ?」

 じいちゃんの声がきこえてきた。金庫とにらめっこをしているあいだに集中タイムが終わったらしい。僕はじいちゃんのほうを向いた。

「それは、子猫か?」

 じいちゃんは僕の膝のあたりを見て言った。

「うん。でも、その……、死んじゃった」

 子猫の死を言葉にする瞬間、喉がぎゅっと苦しくなって声が震えた。

「そうか」

「僕が昨日連れて帰ってたら、この子は生きてたかもしれない。この子がこうなったのは僕のせいなんだ」

「どうして、連れて帰らなかったんだ?」

 じいちゃんの声は優しかった。責めているわけじゃないとわかっていたけれど、僕はこの子猫の死を責められている気がしてならなかった。

「……母さんに怒られるのが怖くて」

(かおる)さんも(たける)も猫が大嫌いだったな」

 そうだ、兄さんも猫はわがままで自分勝手だから嫌いと言っていた。兄さんがいう猫の性格と自分自身の性格が似ているからだろうか。

 この前も、いきなりキャッチボールの相手をさせられた。三つ上の兄さんが投げるボールは僕には速すぎてまったく捕れなかった。僕はただただ遠くに転がっていくボールを追いかけるだけしかできなかった。

 勉強でたまったストレスを僕で発散するのは本当にやめてほしい。

「でも、でも、連れて帰ってたら、この子は……」

 取り返しのつかない後悔で言葉が詰まる。

 母さんが怖くても、怒られたとしても、子猫を連れて帰るべきだった。

 何よりも子猫の命を優先すべきだった。

「隼、その子猫を連れて帰ることを選んでみるか?」

 そう言って、じいちゃんは僕の手を優しく握った。

「…………そんなこと、無理だよ」

 僕は膝の上の子猫を見ながら弱々しく答えた。

 助けることを選べなかった。だから、この子は死んでしまった。

 また、涙が流れる。子猫に向けてぽつぽつと小雨のように涙が降っていった。泣く資格なんてないのに。

「無理じゃない」

 そう言うと、じいちゃんは秘密の金庫の前にしゃがみこんだ。

 大きな背中で隠された金庫から、かちかちと小さな音がきこえてきて、しばらくして重たそうな音とともに、金庫の扉が開いた。

 じいちゃんは金庫から取りだした物を大事そうに両手で持ち、僕の顔の前に差しだした。

 僕は差しだされたそれを見て、眩しさのあまり目を細め、そして、見たことがない不思議な物に驚き、目をまん丸にした。



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